祖母とフライパン

 その年の盆休み、私は家族をお祝いするため、実家へ帰省していた。

 両親は日中不在ということもあり、昼食を取るため、妹とふたり、ドライブへ出かけることに。


「ラーメンでいい?」

「いいよ」

「じゃあ乗って」

「うん」


 返事をしているほうが私。叙述トリック。

 滑らかな動きで、流れるように助手席へ乗り込む。


 兄貴なんだから運転しろよ、という声も一理あるのだが、妹を乗せて運転席なんて、怖くて乗れない乗れない。

 もしハンドルを握ろうもんなら、「今いけたじゃん!」だの、「ちゃんと見ろよ!」だの、スポーツ観戦中の呑んだくれのようなヤジが飛んでくる。



 補助席でおとなしく座っていると、やがてラーメン屋にたどりついた。


 流石さすがは二十代前半。濃褐色のうかっしょくの広々とした室内に、和モダンの落ち着いた内装は、私の知っているラーメン屋とは大違い。紺碧色こんぺきいろの美しいお盆の上に、グラスに入った緑茶が置かれ、透き通った氷が綺麗に光を反射させている。


 カウンターの先には大きな窓が空いていて、そこから厨房ちゅうぼうの様子がうかがえる。

 ラーメンが来るまで、もう少し時間がありそうだ。


 フライパンを振るう料理人を見ながら、私は祖母の話を始めた。


「おじいちゃんってさ、昔はめっちゃ厳しい人だったんだって」



 ***



 私の祖母は、社交的で仕事を手際てぎわよくこなす、理想の老淑女ろうしゅくじょ、ともいえる人だった。

 ガーデニングと料理が趣味で、家の庭を季節の花でいろどったり、週末に近所の人を呼んで料理を振る舞ったり、祖父母の家には園芸や料理の本が数多く並んでいた。


 一方の祖父は、背が高く寡黙かもくな人で、知らない人からしてみると取っつきにくさを覚えたかもしれない。それでも、孫からしてみれば、毎朝犬の散歩に出かけたり、洗濯を手伝ったりと家庭的な面もあって優しい祖父だった。



 だからこそ、「昔はそうでもなかった」と祖母が控えめに口を開いたとき、私はとても驚いたのだ。



 祖父母が結婚した当初、祖父は細かい掃除のしわすれを逐一ちくいち指摘したり、料理の献立こんだてに文句を言ったり、仕事の終わりに酒とさかなが用意されていないと不満をこぼしたりと、なかなか口うるさいタイプだったようである。

「男は仕事、女は家庭」という考えが当然の時代だったし、祖母はまだ二十二歳と若かった。当然、六歳年長の夫の言葉に従わざるをえなかった。



 祖父は中学卒業後すぐに就職したので、稼ぎは多くなかった。

 二人分の生活費ですら、ギリギリでやりくりしていたと聞いている。



 ある日、祖父は告げた。


「今月から実家に仕送りをすることにしたから」


 祖父がいうにはこうだ。母(祖母にとっての姑)から仕送りを依頼されたので、言われた金額を毎月払うことにしたと。


 祖母は帳簿ちょうぼを見てぎょっとする。

 仕送り額が、手取りの三分の一から二分の一の金額だったのだ。家計は祖母が一任していたこともあり、祖父は気にしていなかったのだろう。


「ちょっと高すぎるかもしれない」と、祖母は遠慮がちに打ち明けたが、「今更無理だなんて言えない」と祖父は取り合わなかった。



 このままでは無一文むいちもんになってしまう。どうしようもないので祖母は働き始めた。仕事は新聞配達。この仕事を選んだのは、日中にっちゅう家事ができるから。

 祖母は働き始めた。未明から明け方まで朝刊を配り、家に帰って朝食を作る。家の掃除を終えたら、昼過ぎに夕刊を配りはじめ、帰ってきたら夕飯を準備する。


 そうして、なんとか家計をやりくりしていた。



 そんななか、祖母が夕飯の支度をしていると、この日も祖父のボヤキが始まった。



 ぽつり、ぽつり。

 バケツに雨水が溜まるように。

 結婚してから、着実に。

 苛立ちは重なり、つもり、溜まっていた。


 そして、この日、最後の一滴がバケツに落ちていった。



 うるさい!



 祖母は一言怒鳴りつけると、手に持っていたフライパンをそのまま祖父のあたまに振り下ろす。従順な妻からの思わぬ反撃。祖父が避ける間などなかった。加速するフライパンは糸を引くような軌道で、祖父にクリーンヒットする。


 目を白黒させて驚いていたのよ、と祖母は笑っていたが、もはやそれは脳震盪のうしんとうの症状ではないか。



 ***



 私は妹の前で、「フライパンに打たれた祖父」を熱演する。

 頭を小刻みに振り、舌を出し入れしながら、瞳をぐるぐると回転させて。


 鬼気迫る演技を目の当たりして、あきれるように妹は笑った。


「意外だね、あのおじいちゃんが? 想像できない」

「そっからは家事のやり方に文句言われなくなったんだって」


 持ってたのがフライパンで良かったね、なんて冗談まじりに笑っていると、ラーメンがやって来た。



 その年の盆休み、私は妹のを祝うために、実家へ帰省していた。


 あんまり頑張りすぎないようにしてほしい。

 笑い話に陰ながら、そんな想いを乗せている。

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