本編
「
鈴を転がすような声で言った宦官は、それはもう目を疑いたくなるほど美しかったのですけれど、挨拶をされた当の怪物は、新しい世話係など露ほども興味がなく、一瞥するなり
「ふん」
と息を吐いただけでした。
皇帝の威光を知らしめる、ただそれだけのために後宮に閉じ込められているその恐ろしい怪物は、世話係など長く持たないことをよく知っていました。後宮を支える宦官という生き物の、虐め倒され、時に嬲り殺され、
雪路の雪のように白い肌や、銀朱で描いたような唇は、怪物の目には絵に描いたご馳走のような、ハリボテに見えたのでございます。
人の世に、美しいものなど何もない。怪物は日がな一日、外の世界を、山や川や海を夢に見ていました。怪物だって生まれた時から後宮にいたわけではありません。怪物ですから暴れれば外に出ることだってできます。けれど人間に追いかけ回される煩わしさをよく知っていましたから、薄れつつある記憶にしがみついて夢の世界を揺蕩っているのでした。
そんな夜のこと、怪物の檻に忍び寄る者がありました。
「誰だ」
唯一の楽しみである睡眠を邪魔された怪物は、低い唸り声をだしました。
「おれだよ、新しい世話係。悪いこと言わないから入れとくれ。おれの房は寒くてたまらん。お前の檻の方がまだマシだ。ちょっと温まらせておくれよ」
その昼間との変わりようと言い分の厚かましさに、怪物は驚くのを通り越して呆れました。なるほど、目の前の世話係は、まごうことなき昼間の宦官でございます。化粧を落としたところで、顔立ちの美しさやほっそりとしなやかな肢体は変わるものではございません。しかしながら、田舎の小作人のような口の利き方といい、房が寒いから怪物と寝ようなどという発想といい、いかにも後宮仕えといった昼間の上品さは影も形もありませんでした。
呆れ返った怪物は、追い返す気にもならず、雪路を自分の檻の中に入れるようになりました。上司のいないところではおしゃべりな雪路によると、彼ははるか西の山脈の小さな村出身で、兄弟姉妹やヤクと暮らしていましたが、貧しく子どもを食わせられなくなった親に売られ、宦官となったのでございます。全くよくある境遇でした。
雪路はよく故郷の山の話をしました。目を開けられないほど激しい吹雪のこと、足を滑らせたら命はない山道のこと、頂上からのいくら見ても見飽きぬ景色。遥かな自然の物語は、怪物の心にも幾許かの安らぎをもたらしたのでした。
✳︎
雪路と怪物には、不思議な情が芽生えました。いつしか怪物はこの奇妙で平凡な宦官を、得難く大切な何かと位置づけている自分に気がつきました。怪物らしからぬ感情に、何より驚いたのは怪物自身でございます。慕われているなど思うのは幻想に違いありません。
怪物の牙、鋭い爪、強靭な身体、全てが恐れられるにふさわしい凶暴さを秘めていました。こんな情など壊すのはかんたんだ、怪物は意地悪な戯れで、ある夜当たり前のように檻にやってきた雪路を捕まえると、口を吸いました。
宦官というのは全く哀れな生き物で、男として生まれながらどこか子どもの柔らかさを残して成長いたします。乳くさい唇を離したときには怪物は、この柔らかい生き物は自分を憎んで走り去るとばかり思っていたのですけれど、当の雪路はさして驚いた素振りもなく、自分と怪物の間に渡った銀色の糸を、蜘蛛の巣のようだと笑いました。
「お前のこと大好きだよ」
そんな言葉を平気で吐きます。
「おれがメスの騾馬になっても、きっと見つけだしてね」
浄身の時切り離したモノを取り返せなかった場合、宦官はメスの騾馬に生まれ変わると信じられていました。貧しい雪路は、借金の嵩むなかそれを取り返すことをすっかり諦めていました。
蜜月は長く続くものではございません。あの冬、雪路は皇帝にお茶を出す大役を仰せつかったものの、足を滑らせて怒りを買い、千回棒で叩かれた末井戸に投げ捨てられました。
怒り狂った怪物は暴れ回り、一つの王朝が壊滅に追い込まれるほど甚大な被害を出しましたが、雪路が息を吹き返すわけもございません。怪物ははるか昔に聞いた黄泉がえりの泉まで、雪路を背負って走りました。
怪物は疲れを知りません。例え脱力していても雪路の重さなど屁でもありません。それなのにだらりと垂れた腕が、温もりの消えた肌が、光を失った瞳が、重くのしかかって苦しいのでした。
果たして泉はそこにありましたが、雪路は目を開けません。たしかに傷は治っているのに眠りについたままなのです。
「嗚呼、お前も結局は、この怪物などと生きていたくはなかったわけだ」
絶望のなか、怪物は長い生涯を過ごし、孤独に苦しみながら死にました。
✳︎
多くの罪なき人々を殺した怪物は、地獄で池に沈められておりました。池の熱さにはじき慣れましたが、生前と変わらぬ孤独は怪物を苛みました。
孤独が辛いと気がつくまで、こんなに渇くことはなかったのに、満たされるものは錯覚にすら酔わせずただ奪うだけ。神様はずいぶんと残酷だ。怪物はそんなことを考えました。
そんなある日のこと、遠くから煮湯に傷つき今にも死にそうになりながらも、こちらにやってくる生き物に気がつきました。それは小さな騾馬でした。
まさかと思い怪物が駆け寄ると騾馬は
「ああやっと会えた。きっと見つけてと言ったのに」
そんな恨み言を言いました。怪物は驚きました。
「今度は迎えに来てくれよ」
傷ついた騾馬はまた息を引き取ります。行かないで、と、そんな怪物の呟きを聞かずに。
求めていたものは、もうとっくに手に入れていたのだと、やっと気がついた怪物は、天を仰ぎ長い生涯で初めての涙を溢したのでございました。
怪物は泣いた 刻露清秀 @kokuro-seisyu
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