怪物は泣いた

刻露清秀

前日譚

「まってくれよー! おいてかないでくれよー! あっちにウサギの足跡があったんだよー! 」


 険しい山道の中、少年は父の背中を必死になって追いかけました。父親は少年のおしゃべりを聞いてはくれません。ウサギの足跡や珍しい石に心を動かされるには、貧乏が身に染みすぎていました。親子は町に大切な刺繍を売りに行くのです。


爸爸パァパ、歩くのはやいよ」


 少年は文句を言いました。


「うるさいぞ、この。騾馬の方がまだマシだ。しゃべらないからな」


  とおにもみたない幼い子どもに、ひどい言い草ですが、少年は気にもとめません。


「爸爸は騾馬を飼ったことがあるの? ねえ騾馬ってどんな? やっぱり頑固なの? 」


「そりゃあ、あるさ。こんなに貧乏じゃなかった頃はな。頑固だが力持ちで役に立つ動物だ。死ぬまでよく働いたよ」


「じゃあおれ騾馬にはなりたくないな。じじいになったら働きたくないもの」


「当たり前だ馬鹿野郎が」


 この国の皇帝は近年、山に住む人々への締め付けを強くしていました。騾馬が死に、ヤクを売り、大切な結婚祝いの刺繍を今まさに売りに行こうとしていますが、家族の暮らしはちっとも良くなりません。昨年は生まれたばかりの赤ん坊が、冬を越せずに死にました。


 この刺繍が高く売れなかったら……。父親はちらりと少年、つまり彼の末の息子を眺めました。この子を売るしかありません。幸いにもと言うべきか、少年はかなりの器量好しでした。


「ねえ爸爸、面白い話して」


「さっきも話してやっただろ」


「さっきの話はつまらなかったよ。ウサギの足跡見てる方がまだマシだった。あのね爸爸、あのウサギきっとでかいよ。だって足跡が……」


 父親はうんざりしてため息を吐きました。末の息子は器量好しでしたが、この通りおしゃべりで、放っておくといつまでもいつまでもしゃべり続けるのです。貧乏暇なしでいつもくたくたの父親には、少年のおしゃべりは苦痛でした。


「それじゃあ、こわーい怪物の話をしてやろう」


「爸爸、それ狼が羊に化けた話? それならもう聞いたよ」


「違う。今は後宮に囚われている怪物の話さ」


 そう言って父親が語ったのは、羊を十匹も平らげた、大きな怪物のお話でした。賢い狩人に捕らえられ、皇帝に捧げられるまで、村を荒らした悪い怪物。背丈はヤクの倍ほどもあり、牙はするどく、黒い毛におおわれた異形。父親の語ったその怪物は、妙に少年の心を掴みました。


 父親がかまってくれたのが、嬉しかったのかもしれません。


 やがて人買いに売られ、雪路シュエルーという名をあたえられてからも、その怪物の物語は、少年の心の中に息づいていたのでした。

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