放火

三輪・キャナウェイ

放火

 ススキの海を泳ぐ君が好きだった。


 少し黄ばんだ月の銀光に浸って、右手にぬるくなったビールの缶なんかもってさ、馬鹿みたいに笑ってるんだ。どうせ誰もいやしないってセーラー服を脱いで、煙草を咥えて咳き込むんだ。ススキ野を波打たせる秋の微風は冷えるっていうのに、君は真っ赤な顔で暑そうだった。


 そしてどこまでも走っていくんだ。頬は濡れていたね。あれはどうして濡れていたんだったっけ。ビールか、汗か、涎だったかな。君のことだから、まさか涙なんてことはないはずだけど、それもわからない。


 だって君は何も教えちゃくれなかったから。君は自分ばっかり酒や煙草をやって、私には何一つだっていけないことをさせてくれなかった。ススキの海のどこかに沈んでいるクソ親父の原付だって、盗んだのは君だった。君があれをかっぱらってきて、私をススキの野まで攫って来たんだ。


「ガソリン、無くなっちゃったね」


 そんなことを言って君が原付を捨てた時、私は不安だったよ。


「帰りはどうするの?」


 私はあくる日の朝食のことを考えていたんだ。だってうちで飯炊きをするのは私の仕事だったから。


「帰らなければいいだけさ。それに、どうせもう帰るところもない」


 生命力に溢れた君は、まるで月の光を飲むだけで生きていけるというように笑った。天女か魔法使いのようだった。君はなんでもできるみたいだった。


「そんなことよりも、歌を聞いておくれよ。そして話を聞いて。私を追って。もう自由なんだ。だからさ、ずっと遠くまで君が私を追って来てよ」


 君はまるで銀河に放流された星の子供みたいだった。楽しそうで、心地よさそうだった。


「どこに行くっていうのさ」


 でも私はまだ鎖に繋がれていた。家族、学校、友達、恋人、自分。私を形成する鎧が、私を閉じ込める檻だった。私はぴったりと採寸された、自分に合う常識という囚人服を温かいと思っていた。


 そんな私を、君は恥ずかしい奴を見る様な目で眺めるんだ。セーラー服を脱いでブラジャー姿なのに、服を着てる私をおかしいみたいに眺めるんだ。


「ヒの光りが届かないところさ」


 私は怖かった。君を失うのも怖かったし、一人で残るのも怖かったし、他にも色々なことが怖かった。


「暗い所は嫌いだよ」


 だけど君は言ったんだ。


「嘘つき」


 君は朧雲が浮かぶ秋の星空を見上げた。いつのまにか、小雨が降って来た。星が泣いているみたいに、明るいのに、きらきらとした銀色の細い雨粒が落ちて来るんだ。


「君が嫌いなのは、君でしょう。明るい所じゃ周りは見えるけど、自分は見えない。暗い所じゃ周りは見えないけど、自分は見える。君は自分が恥ずかしいんだ。だから、暗闇が怖いんだ」


 そうして君は振り返った。肩を柔らかく曲げて、煤で汚れた指先で肩甲骨の下のブラのホックを外した。ビールを飲んで、煙草を吸った。君はもう振り返らなかった。


「雨が降っているうちに行こうよ。そうしたら君以外、誰も私を追ってはこれない」


 運命から解放された君は、気持ちよさそうに走り出した。


「あははは! あっはっはっは! わっはっは!」


 闇に消えていく君の背中を、私は眺めていた。握りしめた拳が震えていた。踵は深く土に沈んでいたのに、足の指先だけが芋虫みたいに蠢いて進みたそうにしていた。


 私の頬が濡れる感触だけがした。なんで濡れているのかはわからなかった。雨か、汗か、ビールだろうか。まさか涙なんてことはないはずだ。


 私は指の間に挟んでいた煙草の火が消えていることに気が付いた。くだらない煙草だ。これがきっかけで、私はクソ親父に失望したんだ。あいつがいつも吸っているこの煙草は、背伸びしたがりな中学のクラスメイトが隠れて吸っているものと同じだった。その時、私の父に対する恐怖は無くなった。


 だから父のライターをくすねて、父の原付のガソリンを少し抜いた。


 だから、目元がこんなに熱い。


 燻っている。


「あはは……」


 私は我に帰った。


 私は、壊れていた。

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放火 三輪・キャナウェイ @MiwaCanaway

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