第6話  過去に施錠する

 新たな家ができてから、商店街の住まいを住所欄に書くようなことを両親はしなかった。両親は痕跡を消すことに必死だった。

 ただ、順調に過去と決別する作業を行っている最中、一度だけ母が露骨に反吐の出るような表情を浮かべたことがあった。それは誠が大学の教育学部に進み、教師の道に進むと決めたときだった。

「市役所とか県庁職員じゃダメなんか?」

と幾度となく母は誠に言ってきた。

「教師なんて、そんないい商売じゃない」

 教員採用試験に合格した際も、一人喜ばず、吐き捨てるように誠の背中に、乱暴なセリフを投げてきたのも母だった。母の心の中には昔、誠の小学校時代の教頭先生から言われた言葉がまだ息をしていたのだろう。

 市内の小学校勤めになったときも、嫁にもらったのが、同業者だったときも、母はまたもや露骨に嫌悪の表情を浮かべた。

 そんな母も孫の希美が生まれてからは、表情も和らぎ、誠たち夫婦の仕事にも理解を示すようになっていった。それは希美の誕生と並行して、昔、中村家を馬鹿にし、融資を断った銀行の倒産のニュースが我が家をかけ巡ったからかもしれない。

「人を馬鹿にした人は、ろくな終わり方をせん。言葉は自分を殺すんや。」

母は晩年、この破綻した銀行の話をよくしたがった。希美はもう耳にタコが何個もできたと、話を聞くのを露骨に嫌がっていた。

「松本清張の『砂の器』や水上勉の『飢餓海峡』とかな、ワシらの青春時代、こんな小説がよう流行ったやないか。過去を消す、自身の過去を知っている人を殺して生きていくという小説。殺す勇気なんかなかったから、引越し、養子縁組が精いっぱいや。でも自分の過去を知ってる人間を殺してでも自分を守りたい、という主人公の気持ちは分かる。」

 克之はそう言うと視線を落とし、ほな、そろそろ失礼するわ、と言い腰を上げた。最初から長居をするつもりはなかったのだろう。

 骨壺を脇に抱え、母の仏前に改めて深く頭を下げた後、玄関へとゆっくりと歩き始めた。

「なぁ、かっちゃん。まだ布団かぶって寝るんか?」

誠は思わず克之の丸まった背に声をかけてしまった。克之は立ち止まり背を向けたまま、

「ほや、ワシは生涯ホタルや。」

と呟いた。そして靴を履き、

「ほな。」

と誠の方を向き、幼い頃のあどけない表情を玄関先へ置いて出ていった。

 また、と言う言葉を発しなかったことよりも、克之のその面差しを見た時、はっきりともう二度と会わないという意思を感じ取ることができた。克之は誠に対して、わざわざ改めて本当の『さようなら』を言いに来たのだ。

 玄関先で克之の背を見つめていた時、元娼婦らしき女性と下を向いて歩く克之がぶつかりそうになり、誠は思わず身を乗り出した。   

その女性は夜目にも老婆と言うに相応しい年齢に見え、暗闇の中に溶けていった。老婆の姿は、消えた青線街のスーブニールのように誠の目に映った。彼女の人生には、定型には収まり切らない物語が詰まっているのではないか。そんなことを思描ながら、誠は玄関扉を閉めると同時に、過去にも鍵をかけた。

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線上のホタル ラビットリップ @yamahakirai

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