第5話  線から逃げる

 克之は線を出て児童養護施設に入る際、和子の墓を作るお金がないということで、お経をあげてくれた普門院の先代の住職に骨壺を預かってもらう方法を選んだ。お墓を建てられるようになったら引き取りに来るという約束で預かってもらったそうだが、この年月まで引き取りに来なかったのは、育ての親に配慮もあってのことだろう。骨壺を引き取る際、現在の住職に長年預かってもらったことに対し、お金を包んで渡そうとしたら、頑として住職は受け取らなかったという。

「先代より、平田克之さんからは一切のお金を受け取るなと厳しく言われております。」

 その言葉を何度も繰り返し投げられるたびに、克之はいかがわしい界隈で育ったことに対する同情をまだされているのかと思い、落胆し、寺を後にしたのだという。

「まこっちゃんは、わしが商店街からいなくなってから、どうやったんや?」

 空気がよどんできたと察した克之は、誠の話へと舵を切り変えた。

「俺か?一人ぼっちや。だってかっちゃんしか友達おらんかったしな。実はじいちゃんが糖尿病で死んでから、寿司屋は辞めたんや。で、そのあと貸物件として貸しとった。かっちゃんも金浦商店街に来たら驚くと思う。面影があるのはほんの一部や。市が街のイメージを変えたいって言うてな、今じゃ過去を知らない若者が古着屋や雑貨屋やカフェ、アトリエを経営しとる。俺はそれで良いと思っとる。過去に戻らんかったら、それでいい。」

 確かに青線は、あらゆる魚が住む濁った水のような場所でもあったと思う。それが消えることにより、社会から猥雑さとともに寛容さや余裕、懐の深さが失われてゆくことを惜しむ人も存在する。しかし自身の過去の痕跡が消えていく事を喜んでいる人もまだ一定数、存在している。誠や克之は明らかに後者だ。

 克之がいなくなってから、誠は本当に一人ぼっちになってしまった。一人ぼっちで寝るようになった布団は、なお一層冷たく感じ、誠は何度も風邪をひいた。

誠がからかいやいじめに耐えながら大きく成長していっても、父は店を手伝わせようとはしなかった。

 この頃の父と母は、休みなく毎日働いていた。中学生になり、体力的にも十分になっても、出前が入ろうが、信三は絶対に、商店街から入る出前に関しては、出前先に持って行かせるようなことはしなかった。しかし週一ペースで入る一般家庭の場合は、

「おい、野毛までもっていってくれま。」

と頼まれることもあった。

 商店街だけは、出前を行かせない、夜六時以降は外に出させない、親が強いる行動が、誠は、やましいエリアに住んでいるのだと言う意識の確定に繋がっていった。

 両親は休日もなく一心不乱に働いた甲斐あって、誠が中学三年生の秋頃には、商店街とは別の町に家を持つことができた。

別の場所に移ることにこだわったのは、今の住まいを住所に記載すると、息子の就職に障りが出ると判断したからだった。

 ただ、家を建てる際、誠一家は屈辱的なセリフを浴びせられた。誠は未だに、そのセリフがまだ脳裏にこびりついていて離れない。

それは誠がまだ小学四年生くらいの頃、銀行に融資をお願いしに行った時のことだった。担当者として出てきた田中という男が放った言葉は、今の時代では許されないだろう。

「いやぁ、おたくねぇ。貸したって返せんでしょう。金浦商店街でしょ。客層だってあまり良くないし、客単価も低い。どうやって返していくのか、おたく計算できます??」

 このセリフを聞いた時、父が席を蹴って立ったことを昨日のように覚えている。そして母親は横で嗚咽していたような記憶がある。

 銀行員の暴言を家で祖父に報告したとき、祖父は目を真っ赤にして、こう言い切った。

「わしの世代でこの鮨屋は終わらせる。今後はわしがこの店を仕切る。お前は昼間、働きに出ろ。仕入れは今後、俺が一人でする。なあに、夜忙しい時だけお前が手伝ってくれたらいい。先付などは先に家内と千恵さんで早めに仕込んでおけば、大丈夫。ともかく、銀行で借りんでもいいように、お金を貯めよう。この商店街を出る金を作ろう。この線から出る資金をお前は昼間働きながら作れ。わしらは寿司を握りながら作る。幸いなことに、誠は賢い子や。誠を大学へ出すぞ。見返してやる。この線に対して、国に対して、世の中に対して、人々の偏見に対して、見返すぞ。千恵さん、泣いとる場合じゃない。やるぞ。」

 線上で生きてきた痕跡を捨てるということは、並大抵のことじゃない。でもこうしなきゃ、一生差別を受けて生きていくことになる。誠の結婚や就職に障りが出るだろう。これは絶対に避けなければならない。過去は変えられないが、未来は作ることはできる!


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