名もなき人
異端者
『名もなき人』本文
天気が良さそうなので、老人はいつも通り井の頭公園の池の周りを歩くことにした。
暑さは少し和らいで、彼岸花が秋の気配を感じさせた。
井の頭恩賜公園の井の頭池の周りは軽いランニングコースとしても周知されていて、約1.6kmのその長さから「1マイルコース」とも呼ばれているらしかった。
老人は多くの人が歩いている中をゆっくりと歩いた。
ここはいい。人は居るものの、周囲の木々がその息苦しさを紛らわせてくれる。
老人はどちらかと言えば、他人と一緒に居ること、人付き合いが苦手だった。
そのため、定年になるまでは仕事一筋で、この歳になっても独身のままだった。
数少ない老人を知る者は、老人より先に逝ってしまった。
今、老人は一人で安アパートに住んでいた。
老人は自分の人生を振り返った。
何かを成し遂げたか――否。
何かを残したか――否。
誰かの記憶に残ったか――否。
これまで生きてきたことになんら意味があっただろうか。
老人は歩きながら思った。
自分がしたことは全部他人でも容易にできたことばかりだ。決して、自分でなければいけなかったということはない。
それならば、自分など存在していなくても良いのではないか。居ないなら居ないで、誰かが代わりにしただけではないのか。
老人は足を止めた。
後ろを歩いていた人が慌てて避ける。老人を迷惑そうに見たが、老人は気付いていなかった。
自分はこのまま、天気の良い日は散歩して、それもできない程に弱ったら誰にも看取られることなく死んでいくだろう。
孤独死――そんな言葉が頭をよぎる。
だが、それがなんだろうか。せいぜいアパートの大家が処理に困る程度で、生きた足跡一つ残さずに消えるだろう。
ちょいちょい。
ふと、そんな風に老人のズボンが引っ張られているのに気付いた。
下を向くと、泣き顔の女の子――せいぜい5,6歳ぐらいの顔があった。
「お父さんとお母さんを知らない?」
女の子は老人にそう聞いた。
「この公園ではぐれたのかい?」
老人はなるべく優しげな声でそう言った。
コクンと女の子はうなずいた。
「どの辺りではぐれたんだい?」
老人はしゃがみこんで目線を合わせていった。
どうやら、女の子が急にトイレに行きたくなって駆け込んだ際にはぐれたらしかった。
「トイレに行ってくるとは、言わなかったのかい?」
「うん、急いでたから!」
「じゃあ、そのトイレの周りにまだ居るかもしれない。……一緒に探そう」
老人は女の子の手を取ってそちらに向かった。
この公園は広い。もしそちらに居なければ大変だ。
「おおい! どなたかこの子の親を知りませんか!?」
老人は大声でそう言いながら歩いた。散歩を欠かさずしてきたせいか、肺活量はまだ元気だった。
通行人が一斉にこちらを見る。皆一瞬は怪訝な顔をするが、すぐに「ああ、迷子か」と納得したような顔をして歩いていく。
そんなことがしばらく続いて「あの……」と声を掛ける青年が現れた。
「すいません。それって――」
青年が言うには、池の向こうの辺りに何かおろおろしている若い夫婦らしき人たちが居たという。
「ありがとうございます!」
老人は礼を言うと女の子の手を引いてそちらに向かった。
「お母さん! お父さん!」
女の子はその姿を見ると、繋いでいた手を放してそちらに駆け寄った。
「ああ、良かった!」
「全く、どこに行ってたんだ!」
女の子の両親は口々にそう言った。
「おじいちゃんが、探してくれたの!」
「おじいちゃん?」
両親が老人の方を見ると、老人は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ああ、すいません! 助かりました!」
「いえいえ、たまたま通りかかったもので――」
老人はなんでもないことのように言った。
老人が立ち去ろうとした時、女の子はちぎれんばかりに手を振っていた。
老人はふと思った。
たとえ自分が足跡を残せずとも、誰かの手助けになればそれでいいのではないか。
少しだけ、老人の心が温かくなった気がした。
名もなき人 異端者 @itansya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます