いつか私もいなくなる
mareHK
いつか私もいなくなる 1/2
その日、普段より一時間半も遅れて目が覚めた。
「ん……ちょっと寝過ぎた、かなぁ……」
何事もなかった土日はいつの間にか終わり、今日は月曜日。
別に休校とかでもなく普通の登校日であるにも関わらず、寝坊を自覚した幸凪の心に焦りはなかった――というとまるで不良か不登校のようだが、
そんな幸凪がこうして呑気に目を擦っていられる理由。それは、そもそも彼女の普段の起床時間が極端に早過ぎることにある。
実際、現在の時刻は6時半。朝練のある運動部か遠距離からの電車通学でもない限り、慌ててベッドから飛び起きるような時間ではない。食パン咥えて家を飛び出し息を切らして曲がり角で誰かとうっかり激突からの恋が始まるまでもなく、食事やその他諸々の準備を済ませてゆっくり徒歩で登校できるだけの時間はたっぷり確保されている。少しくらいなら二度寝だって許されるだろう。
(でも、何かそわそわするっていうか……)
だが、無視できない程度には確かな違和感が、まだ半分眠ったままだった幸凪の脳を覚醒させた。
そうして、まだ気怠さが残る上半身をぐっと持ち上げたところで、幸凪はある異変に気付く。
(――いなくなっちゃったんだ、隣の人)
毎朝五時には決まって隣の302号室から大音量で聞こえてくる筈の目覚ましの音が、多分今日は鳴っていない。毎朝あれに叩き起こされてきた幸凪が寝坊したのだから間違いない。
つまりはそういうことなのだろうと、幸凪は結論付ける。
そう言えば、ずっと空き部屋だった301号室の電気が点いているのを今月に入ってから何度か見かけた記憶がある。流石にあの時間の爆音は我慢ならなかったか……いや、別に昼間でも十分迷惑な音量なのだが。壁の薄さは仕方ないとして、せめて窓を閉めるくらいしてほしいものだ。
302号室に住む男性との接点はこれといって無かった。精々すれ違った際に軽く会釈するくらいの、強いていえば顔見知りといった程度の関係だ。居ても居なくても何も変わらない。幸も不幸も他人事。例え彼がどこに行ってしまおうが、幸凪の知ったことではない。
とはいえ、あの音が聞こえてくることはもうないのだと思うと、それなりに寂しいのもまた事実だったりする。
あのけたたましい音で目を覚まし、まだ夜明け前の暗い街に出て散歩をするのが幸凪の日課だった。明日からはその習慣ともお別れというわけだ。
自分でスマホのアラームでもセットしておけば同じ時刻に起きることはできるが、そこまでして早起きしようとは思えない。初めはちょっとした興奮すら覚えた早朝のあの静けさにも、正直そろそろ飽きてきていたし――いや、実際にはもうずっと前から飽きていた。それでもあの時間には隣人のかけた目覚ましが鳴っていたから、仕方なく起き出して、でも起きたって特にこれといってやることもないから、時間を潰すためだけに薄くて肌寒い早朝の空気を浴びていたに過ぎない。
しかし、もうあの時間に起こされる心配はないようである。何となく惰性で続けてきただけの無意味な習慣は、これを機にやめてしまおう。
我ながら空っぽな性格してるなーとか思いつつ、無駄に広いダイニングの席に着く。
朝食は何も塗っていないトースト一枚。常備していたジャムは昨日切れた。食パンも今食べているもので最後だ。
「今日はスーパー寄って帰らないとかなー」
放課後はクラスメイトと駅に行く予定があるし、その帰りに買い物も済ませてしまえばいいだろう。時間は下がってしまうが、訳あって一人暮らしの幸凪に門限はない。
手短に身支度を済ませ、いつも通りの時間に家を出る。
スマホに繋いだイヤホンで好きでもない音楽を聴きながら、いくら眺めたところで代わり映えのない景色には目もくれずに歩くと、数分後には駅についた。
改札を抜けて待つこと数分。やたら時間ぴったりにやってくる電車に乗り込むと、有難いことに大抵の日は空いているドア付近の席に座る。
そこで幸凪は、車内の様子が昨日とは異なることに気付いた。
取るに足らない些細な変化。しかしそれは、何か良くないことが起こる予兆にも思えた。
隣のスーツ姿の男性が一つ欠伸を漏らす。手すりを掴んで立っている女子中学生らしき二人組は、スマホを弄りつつ声を抑えて話している。きっと彼らも幸凪と同様、その変化に気付いてはいるのだろう。気付いた上で、しかし全く気に留めてはいない。
(まーそっか。見慣れない人が座ってるだけで気にする私の方がおかしいよね、普通に考えて)
彼らに倣って窓の外に視線を移しながらも、幸凪の意識は変わらずその女性に向いていた。
普段なら埋まることのない優先席に座っている、20代前半と思われる女性。顔立ちや服装、メイクに至るまでこれといった特徴はなく、「どこにでもいる」を地で行く容姿といえる。
ただ一つ変わった点を挙げるとするならば、彼女が赤ん坊を抱えていて、その赤ん坊がやけに大人しいことだろう。
別にそれ自体は不思議なことではない。「そういう子もいる」の一言で済まされてしまう話だ。
では、この子がそうなった原因はどこにあるだろう。
そこまで考えて、幸凪は無意味な想像を追い出すように首を振る。急にそんな行動をとったので、周りに変な奴だと思われたかもしれない――というか実際思われていた。遠慮というものを知らない中学生二人組がこっちを怪訝な表情で見ていることに幸凪は気付く。
(うわ、気を付けなきゃなー……ただでさえみんなピリピリしてるんだから)
電車内に限った話ではない。この国――いや、この世に生を受けた現代人すべては、あるルールに縛られて窮屈に生きている。
それは幸凪も……あの赤ん坊だって同じだ。
幸凪が降りる駅の手前、普段あまり乗客の出入りがない小さなホームに電車が止まると、赤ん坊を抱えた女性はそこで出ていった。誰かの迎えでもあるのか、女性はそのままベンチに腰掛けるとスマホでどこかに電話している。
そんな女性の胸の中で、赤ん坊は緊張が解けたかのように母親の顔に手を伸ばしていた。
多分幸凪だけが見届けたであろうその光景を置いて、電車は再び走り出す。
程なくして、学校に一番近い駅の名前がアナウンスされた。
幸凪が立ち上がると、車両後方の出入り口付近に立っていた男性が即座に隅に避けた。親切なものだ。前側に座っていた幸凪がわざわざそっちから出る筈がないのに。
皮肉混じりにそう思いつつホームに降り立ち、数歩歩いたところで幸凪は立ち止まる。
「あ、やば……」
幸凪が振り返ると同時に閉じられた、車両後方のドアの向こう。
そこに道を空けた男性の姿はなかった。
いつか私もいなくなる mareHK @Hadus_K
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