忘川河の守り人

陸

　月を背に白獣が天を翔（か）けていた。

　風を追い越し、光をかいくぐり、白き残像は山々を通りすぎて、やがて地上に降り立つ。

　今度は、見上げるほどの高層ビルが林立する都市の中心地だった。

　淡い闇のなか、白い外壁が一際目立つ病院の療養所だ。

「間違いない。あの方が、僕の愛する人です」

　窓から部屋のなかへと視線を滑（すべ）らせる。

　最低限の調度しかない小ぢんまりとした部屋には、初老の女性がいた。

　彼女には、ずっと探し求めていたあの面影があった。

　迷魂（めいこん）はふわりと浮いて窓に近づく。

　そのようすを遠くから眺めているだけでいると、唐突にばっとふり向かれた。

　獣特有の鋭（するど）い虹彩（こうさい）に捉（とら）えられ、一瞬ひやりとする。

「鬼使（おにつか）いさんも、行きましょう」

　え、と声を上げる暇（ひま）もなかった。

　力強く腕を引かれ、頭にさっと手をかざされる。

　と思えば、毛の生えた指先が器用に何かをとった。

　いつのまにかくっついていたのか、それは小さな茉莉花（まつりか）だった。

「ほら、ここに」

　導かれるまま窓辺に近づき、花を置く。隣には大輪の月下美人（げっかびじん）もあった。

　これ以上は、もういいだろう。

　動悸（どうき）が早くなるのを感じながら顔を上げれば、閃光（せんこう）のように迸（ほとばし）った光が目を焼いた。

　魂（たましい）からぶわりと光があふれ出し、やがてその輪郭（りんかく）は糸のようにほつれてゆく。

　最初は力強く、徐々に弱くなって。

　青白い光芒（こうぼう）が引いた後には、小さな光の球のようなものだけが残された。

　初めて見る光景に、息をすることも忘れていた。

　俗（ぞく）に言う成仏（じょうぶつ）というものなのだろう、と遅れて思い至る。

　ひとり取り残されていると、手のひらに光の球が収まる。

　よく見ればそれは球根（きゅうこん）だった。土に埋めれば立派な花を咲かせるであろう、塊茎（かいけい）だ。

　白みつつある東の空で役目を終えた鬼使いだけがたたずんでいた。

　そろそろ刻限だ。

　最後に、再び病室の方を振り向いた。

　ちょうど、あのひとが窓辺に置かれた花々に気づいたところだった。

「あら、こんなところに……」

　彼女は視線を窓の外に向けた。

　しかし、そこにはすでに満月はない。

　昇りかけた陽の光だけが顔を出している。