鬼車から降りたときには、すでに月は中天を過ぎていた。怪鳥の労をねぎらい、車体が消えるまで見送ってから足もとの雑草を踏む。

 廃駅のあった場所よりも随分と深い山奥だった。見渡す限り四方が山に囲まれている。鬼車から降りると、それまで微動だにしなかった燈籠が再び動き出した。ふたりで光の導く方角へと足を向ける。とても村道とは呼べない、かろうじて舗装されているだけの小径だった。両側に茂る草木には花を咲かせているものもあるようで、濃い緑のなかに点在する明るい色がよく目立つ。

 そのとき、一陣の風が吹き、視界に舞い上がった花弁が時ならぬ雪のように瞬いた。青桐か、白百合か、それとも茉莉花だろうか。しかし、周囲にそれらしき花は見当たらない。

「こんな山奥でも、たくさんの花が咲いているものなのですね。冥土には彼岸花しかないというのに」

「ええ……そうですね」

 思いほうけていたので、つい生返事をしてしまった。声の調子が変わったのを察知したのか、怪訝そうに問いかけてくる。

「どうかしましたか?」

「いえ、少し考え事を」

 今度はうまく隠すために、無理やり口角をつり上げた。

「彼岸花だったら、いくらでもありますけどね」

 彼岸花は嫌いだった。まるで死者の苦しみを吸って生え出でたようで気味が悪くて仕方がない。

「鬼使いさん。他の迷魂たちは、いったいどういった未練を抱えているのでしょうか」

「さあ。私も人づてに聞いたことがあるだけですが、皆さん本当に十人十色ですよ。遺言を残し忘れただとか、忘れものしただとか、死ぬまでに行けなかった場所に行ってみたいだとか」

「ならば僕が抱える未練は、いったいどういうものなのでしょう」

「さあ……」

 もし未練を晴らすことができなかったら、僕も冥土で鬼使いとして働きましょうかね、と冗談のつもりで言ったのだろうが、とても笑えなかった。それどころか、場違いなほどに明るい声音に嫌でも気づかされた。彼は無理をしているのだと。思えば、道中の的外れな言動はすべて不安を紛らわせるためのものだったとすれば説明がつく。かつての自分がそうであったように、この迷魂も怖くて仕方がないのだ。

 やがて、前方が開ける。森林を抜けてすぐそこにあったのは、山間にあるのどかな集落だった。瞬間心臓が跳ねたのは、妙に見覚えのある光景が広がっていたから。けれどもすぐにそんなはずはない、と思うことにした。

「燈籠が導くのはこの集落のようですね。景色に見覚えはありますか?」

 しばしの逡巡の後、力なく首を横にふられる。ふわふわと浮遊する燈籠が強い光を抱いているのを見れば、まだ続きがあるのだと気づいた。

 夜遅くだったからか、鬼月だからなのか、外を出歩く人は見当たらなかった。随分と昔からある集落のようで、雑然と立ち並ぶ家は都会のそれとは違い、木造で質素な造りをしている。

 水田に囲まれたあぜ道を縫って光を追いかける。いつのまにか迷魂よりも先を進んでいた。山村はどこも似たようなものなのだろうか。ふと、あの冬に見た最後の雪景色が脳裏をよぎる。山に閉ざされた閉鎖的な村。未だに自給自足を続ける山村は時代遅れだとされていたが、自然豊かな風土のおかげか村人の気性は穏やかで、のどかな村だった。一歩踏み出すごとに増してゆく動悸に、ともすれば呼吸が止まってしまいそうで、必死に奥歯を噛み締める。

 やがて燈籠は、ひとつの屋敷の前でぴたりと動かなくなった。この集落の中でもひときわ大きく、立派な門構えをしている。明かりは灯っていないが、それでも見覚えがあった。

 まさか、危惧していたことが現実になろうとは。

 ここは、たしかに未練の行き着く先だった。その屋敷は、記憶のなかのそれと寸分違わない。


 白昼夢でも見ているような気分だった。今にも門の内側で、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる気がする。あれから誰かが住んで改装しているのか、数十年経っているというのに外装はそれなりに整っていた。

 どうしたらいいのか本当にわからないのに、懐かしさゆえか些細なことばかりが目に留まる。おそらくこんな依頼を受けてしまったのは、鬼使いのなかでも初めてだろう。もしかしたら燈籠は勘違いをしているのかもしれない。迷魂ではなく、別の未練の行き着く先へ導いて。それならばまだ間に合うはずだ。范から新しい燈籠をもらって、もう一度火を灯してもらえばいい。

「迷魂さん」

「今日のような満月の日、彼女はよく窓から月を眺めていました。急いで窓を探しましょう」

 しかし呼びかければ、他でもない彼によって静かに制された。

「……窓?」

 一拍の後、不可解な言葉に疑問符が浮かぶ。ひとり取り残されていると、迷魂が動かなくなった燈籠を持って屋敷の敷地へ入ってゆく。

「待って、ください。あなたが言う、彼女というのはもしかして……」

 言葉にして、ひどい吐き気がこみ上げてきた。粘性のある血液がどくどくと心臓から押し出されてゆく。その言葉の意味が全身に染み渡れば、めまいがした。きっと何かの間違いであるはずだ。間違いであって、ほしいのに。迷魂は記憶を取り戻しているのだから、やはり燈籠は間違ってなどいなかった。

「この屋敷の庭は、どこにありますか」

 確信を持って告げられた言葉に、反射的に顔を跳ね上げる。

「庭は、たしか、裏手のほうに」

 ふたりで作り上げた小さな花園があったはず。そこまで考えて、ふと立ち止まった。薄雲が月を隠し、影がじわりと足もとを侵食してゆく。しかし時すでに遅く、迷魂は屋敷の裏手へと駆けてゆく。

「あれは……」

 裏手へ向かうと、記憶よりいくらか年季の入った庭があった。宵闇に吞みこまれた庭の一角に、一輪の白い花が咲いている。花そのものが青白く幽玄と光を発している。

「あれは、月下美人です」

 身を揺さぶるような甘い芳香に古い記憶が蘇る。彼女が好きだと言ったから、いつでも見れるようにと植えたものだった。それが今、朽ちた木々に絡まって、それでもしぶとく生き続けて。目を見張るような美しい花を咲かせている。

 意識が大輪の花に囚われていたせいか、そのときまで迷魂の変化に気づかなかった。

「ああ、そうか。そういうこと、だったのか……」

 前を立っていた迷魂が小さく喘ぐ。

 月、歌謡、茉莉花、山村、屋敷、月下美人。彼女、あのひと。

「どうりで……」

 がくりと体勢を崩し、ひとりごちるようすは何か大切な忘れ物に気づいたときのようだった。そんな迷魂の手から光を失った燈籠が、地へ落ちる。

「あ……燈籠が」

「もう星は、いりません」

 月は雲の切れ間からその身を覗かせていた。月下美人の花弁に白い光が降り注ぐ。風が吹いたと思えば、するりと迷魂の覆面が外れた。これまで隠されていた彼の素顔を見て、今度こそ己の目を疑った。

「すべて、すべて思い出しました。今なら、自信を持って彼女に会いに行けます。大丈夫です。自分の好きな人間のにおいくらい、自分でたどってみせますよ」

 宝玉のように青みがかった双眸。白銀の毛に覆われた顔。頭の上でぴんと立った耳が得意げに揺れていた。

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