もう数十年も前の出来事だ、たいした話はできない、と言っても迷魂めいこんは引き下がらなかった。


「僕だけ語るのは、公平ではないでしょう」


 相手もなかなか口達者で、しまいには根負けしてしまった。

 鬼車きしゃは深い夜の闇をさまよっている。

 どこにたどり着くのかはわからないが、まだまだ旅は続きそうだ。

 それならば到着するまで、つかの間の余興よきょうくらいにはなるだろうと、数十年間ずっと心の奥底にしまいこんでいた人物について語ることにした。


「生前に死に別れた妻のことです。現職にとどまる前は私も一介いっかいの魂で、現世で人間としての生を受けていたのです」


 追懐ついかいするのははるか前世の景色。

 もう思い出さねばならないほど遠い存在となった、過去の記憶だ。


「家は界隈に名だたる芸術一家で、私は若くして将来を嘱望しょくぼうされた伶人れいじんだった。かつては国内外をめぐって、うたとことばを人々に語り歩いていたものです。そして、私たちは結ばれて間もない、若い夫婦だった」


 出会いは鮮烈だった。

 旅の途中に立ち寄った山村で、彼女は私に花をくれた。

 白き氷雪の花、それをモチーフにした歌謡を歌ってほしいと言って。

 最初こそいぶかしんでいたものの、この村娘はたくさんのことを知っていた。


 花々や鳥獣、天地や自然のあれこれについて。

 もとよりあらゆる分野の見聞を広めることは嫌いではなかったので、それらを教えてもらう代わりに得意な歌で応えていただけだったものが、気づけば心が通じ合っていた。

 村から離れなければいけない頃になれば、もう手放せなくなっていた。


 まるで花々が春に焦がれるように。

 ふたりは運命のごとく惹かれ合った。


「彼女と結婚すると決めたとき、私はなかば駆け落ちするように家を飛び出しました。両親は私がみすぼらしい田舎娘を連れ帰ってきたことをたいそう嫌がりました。しかし、こちらとて、将来に変な期待をかけられ、辟易へきえきしていたところだったからちょうどよかった。ばっさりと縁を断ち捨て、清々しました」


 当時は向こう見ずだったが果敢かかんさだけは有り余っていたから、愛する人のために音楽の道を捨てるなどたやすいことだった。

 もとより彼女を連れ回してまで家業を続けるつもりはなかった。

 野に咲くからこそうつくしい花もあるのだと、よくわかっていたから。

 それでも時折、彼女は気を使ってか、時間があれば数日限りの小旅行に誘われることがあったものだ。


「私はあのひとと旅をするのが好きでした。鉄道に揺られながら、同じ景色を見て、同じ体験をして、同じ時間を共有するのが、本当に好きだったんです」


 例えばうららかな春暁しゅんぎょうの日、鳥のさえずりに目覚め、千紫万紅せんしばんこうの花々でいろどられた街を散策するために出かける。

 気に入った植物があれば種や苗を買い、後で庭に植えた。

 木々の青葉が徐々に濃くなれば今度は小川へ行く。

 昼はつり糸を垂らしながら天高く澄み渡る青空に手をのばし、夜は一晩中眠らずに天の河を眺めてたわいもない話をする。

 山々がにしき色に着飾るとき、人々に自然の恵みをわけ与えるために里を降り。

 衆生が眠る冬の頃、明け方の銀世界で月と明星みょうじょうを背に歌をつむぐ。


 そうやって、彼女と小さな旅をすることが生きがいだった。

 彼女が現れてからすべてが変わった。実に陳腐ちんぷな言葉だが、それ以外に言いようがなかった。

 薄墨うすずみのようなひとりの男の人生は、一点の朱を垂らしたように、途端に鮮やかに彩られたのだ。


 がたがたと鬼車きしゃが小刻みに揺れて、やわらかな燈籠とうろうの光がぼんやりと追憶ついおくを上書きする。

 考えれば考えるほど焦がれてしまうような人生だった。


 これから歳を重ね、家族が増えて、やがて老いてゆき、ふたりともにこの世を去るまで。

 その先も、ずっとずっと先の来世でも、限りなく永遠に近いときまで続くものなのだと。

 あのときは浅はかにも、そう信じて疑わなかった。


「あれは冬の日のことでした。いつものように旅をしていた、除夕おおみそかのことです」


 満ち足りた日々は、唐突に終わりを迎える。


 弾け飛ぶような衝撃。

 刹那せつな、世界がぐにゃりとひしゃげ、真っ白な雪景色が黒く反転し、ぶつりと、暗闇へちる。


「事故でした。私たちの乗る鉄道に、酒に酔った狂人の暴走車が衝突したのです。反応する間もありませんでした」


 昏睡こんすいから目覚めてすぐに見た光景は、無惨むざんな姿に成り果てた事故現場だった。

 火を吹く線路に機械仕掛けのはらわたをのぞかせる車両。

 にぎやかだった人々の姿が、まるでうそのように見当たらなかった。見えなくてよかった。


 代わりに、その下の雪どけ水からにじみ出すように、静かに煉獄れんごくの花が咲き乱れていた。

 真っ赤な、真っ赤な彼岸花ひがんばなだ。


「……そして気がつけば、私も今のこの姿に」


 しゃべりすぎたせいか、口のなかがからからに渇いている。


 向こうからの相槌あいずちはほとんどなくなっていたが、たいして気にはならなかった。

 深く息を吐けば、また車内はうつろな風の音だけに包まれた。

 唾液だえきを喉の奥に流しこんでから、もう一度口を開く。


冥土めいどへ渡った後、私はひとりで忘川河ぼうせんがを越えませんでした。私の人生はあのひとと共にありましたから。どうしても、最期さいごは彼女といきたかったのです」


 現世うつしよ未練みれんなどなかった。

 ただ冥土で彼女のことを待ち、一緒に川を渡れば、その先で今生こんじょうの記憶を忘却ぼうきゃくしたとしても、ずっとそばで寄り添えることができるものなのだと思っていたから。

 現実は、そううまくいくはずがなかった。


「結局、彼女は私のもとをおとずれませんでした。そこで私は、とあるおに使つかいに未練晴らしの依頼を出しました。あのひとの居場所を探したい、という依頼です」


 もしかしたら。

 もしかしたら彼女はまだ現世をさまよっているのかもしれない。

 ああ、山奥の雪原にひとり残してきてしまった。さみしくこごえる思いをしているのかもしれない。


 そう思って仕方がなかったから、依頼を出した後は真っ先に思い出の場所へと向かった。

 彼女と初めて出会った山間へ、しばらくのあいだ世話になった集落へ、結ばれてから居を移した屋敷へ。

 しかしいくら探せど、健康的でしんの通った凛々りりしい野花の面影はなかった。


「当時は便利な燈籠もなかったから、私は途方に暮れました。それでも必死に、時間の許す限りあのひとを探し続けました。……けれど、最後には全部、はかなく散ってしまって」


 ふと夜空をあおげば月はすでになく、日輪の光が東の空を白く染め上げていた。

 未練は、晴らされなかった。


「自分の想いも、彼女との記憶も、雪のように溶けてしまうくらいには、ちっぽけなものなんだと思い知らされてしまって」


 それからひとりの迷魂は、冥土の暗闇に永遠にとらわれることになる。


「鬼使いは、己の未練を受け入れることのできなかったたましいの成れの果てです」


 今まで無言で話を聞いていた迷魂がはっとこちらを向いた。

 咄嗟とっさに顔を伏せたのは、また弱音を吐いてしまいそうだったから。


 先ほどもそうだった。

 赤の他人の未練のはずなのに、自分だったらと、そんな考えばかりが脳裏をよぎる。

 迷える魂と己を重ねてしまうのは、かつて同じ境遇にあったからに違いなかった。


 数十年間、忘川河ぼうせんがり人、もとい誰もが忌避きひする落ちこぼれであり続けるのは、あのひとがいつかこの河川を渡る日まで待ち続けようと、密かに心に決めていたから。


「やけに手慣れているなと思ったのは、そういうことだったんですね」


 下を向いて黙りこむようすを見かねたのか、ようやく迷魂が声を発した。


「実際に鬼使いとして依頼を受けるのははじめてです。……偽の依頼は、何度か舞いこんできましたけど」


 変わり者だと同朋どうほうにもよくからかわれていた。

 横着者だと嫌な顔をされることもあったが、慣れてしまってからはついに何も感じなくなった。

 そもそも、自分自身が一番理解していた。


 今まで散々後ろ指をさされ、それでもかたくなに依頼を受けようとしなかったのは、ただ。


「ただ、私は怖かったのです。ひとつの無垢むくな希望がまた、眼の前で消えてしまうかと思うと……」


 己は、一度失敗を経験したくらいで前に進めずにいる、臆病者なのだ。


「でしたら、僕はやはりあなたに謝らなければいけない」


 未練を語ったときよりもきっぱりと言うのでぎょっとした。

 

 右も左もわからない僕にたくさん、協力してくださったのに。

 深々と頭を下げられ、今度はこちらが戸惑う番だった。


「先ほどはすみません。鬼使いさんの気持ちも考えずに、ずいぶんと弱気になってしまいました」

「いえ……」


 何か言わなければ。

 そう思うのに、また口のなかが渇いてうまく言葉を紡げない。

 狼狽うろたえていると、先ほどと同じように表情の読めない顔で、穏やかに笑いかけられる。


「つらい思いをされたかもしれませんが、あなたの選んだ道はきっと間違ってはいませんよ。同じひとを思い続けること。それはとても難しいことです」

「……そう、でしょうか」


 昔も、今も、愛情と心根は何一つ変わっていない証拠なのですから。


 心の内に素直になるなら、本当は泣いてしまいたかった。

 叫びたかった。なぜひとりだけ残してくれたのだと。

 未練に縋りつき、運命の神を呪って、冥土のふちでこんな自分を救ってくれと哀訴あいせきの言葉を吐き続けて。


 それでも足りなかった分は、やはり涙として流れ落ちるのだ。

 しかし久しく流していなかったせいか、喉の奥からうめくような声だけが出た。


 がくん、と大きく車体が揺れたのと同時に鬼車の動きが止まった。

 赤黒い薄布をかけているようににごった視界を、前方から月の青光が染め上げる。

 まるで、厚い積雪をとかす初春の光のようだと思った。


 久々に現世へ降り立ったときに感じた重苦しさは大分、やわらいでいた。

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