参
「気がつけば、忘川河のほとりにいたのです」
石造りの家屋を遠目に眺めながら迷魂が呟いた。今や明かりは前を照らす燈籠だけになっていた。月は叢雲に隠れて見えない。
「以前のことはわかりません。それでも、僕という魂はたしかに冥土に存在していました。まるで最初からそこにいたかのように」
他に聞くものもなかったので、つらつらと紡がれる独白に耳を傾けた。
「なかばつられるようにして、僕は他の魂と同じように忘川河を渡ろうとしました。しかし本能、とでも言えばいいのでしょうか。僕の足は忘川河にかかる橋を、踏み越えることができなかったのです。ひとたび河に近づけば、足がすくんだように動かなくなってしまう。それはまるで、無数の手に全身をつかまれているような感覚でした」
彼の言葉は、見知らぬ地の出来事をうたった叙事詩のように、不思議な余韻を残して流れ去ってゆく。
「橋の手前で僕は途方に暮れました。なぜ他の者たちは悠々と忘川河を越えていくのに、僕は近づくことさえ許されないのか、と。そこで、始めて疑問をいだきました。僕に足りないものはなにか。僕はいったい何者なのだ、と」
平坦だが意志の感じられる声が空気を打つ。
「記憶の種がほころんだのは、まさにそのときです。胸中に愛しいひとの面影が、ぱっと浮かび上がったのです。一瞬のことでしたが、僕は己の前世の存在を悟りました。そしてこの先へ進むには、わずかでも頭の隅に残っている前世の記憶と、心底に根づいた執心に向き合い、きっちりとけじめをつけなければならないと。根拠はありませんが強く感じたのです」
「それで、未練晴らしをしようと?」
「……おっと」
前を進んでいた迷魂が足を止める。何事かと顔を上げれば、野草に半分埋もれるようにして、ぽつりと朽ちかけた古い駅があった。随分と遠くまで来てしまったらしい。周囲を見渡しても民家の姿はほとんどなかった。燈籠は迷いなく、錆にまみれた駅舎のなかへと入ってゆく。
「それからは時折、ぽつぽつと以前の景色の断片を取り戻しています。以上が、今の僕が直接お伝えできるすべてです」
「やはり記憶が戻ったのは、気のせいではなかったのですね」
「ええ。現世に舞い戻ってきてからは、より顕著になったような気がします」
些細なやり取りをしながら燈籠に続き、建物の中へと足を踏み入れる。
人のあたたかみというものを感じられなかった。訝しみながらも導かれるままに歩廊を覗けば、線路の奥から何やら九つの光が接近していた。不思議なことにひとつひとつが独立する生き物のごとく、きょときょととせわしなく動いている。迷魂は驚いたようだったが、異形の姿を見慣れている身からすればすぐに気がついた。あれは照明ではない、目だ。
やってきたのは電車ではなく鬼車だった。
「果たして僕は本当に、彼女に会いにいくために現世へ戻ってきたのでしょうか」
無数の怪鳥に曳かれた鬼車に乗りこむ。車内では凄まじい速さで空を切る音だけが響いていた。鬼車はどこを走っているのかわからない。時折雲を突っ切っているのか、少しだけ車体が揺れた。
「どういうことですか?」
「僕はただ、自分が何者だったのかを知りたかっただけなのかも、しれません」
ゆらり、と。燈籠の光が生み出すふたつの影が震える。
「鬼使いさんには申し訳ないことをしてしまったなと思っています。ですが、すでにご存知の通り、僕は自分の未練がなんたるかをよく知らなかった。現世へ戻ろうと決心したとき、僕は未練晴らしがこれほど先の見えないものだとは思いもしなかったのです。しかし、あのときはそれしかなかったから、縋りつくしかなかった。今となっては正体のわからない未練を追求するより、わずかでも戻りつつある記憶を取り戻すことのほうが重要な気がするのです」
「それは、困難だから未練晴らしを諦める、ということですか?」
迷魂はようやくこちらをふり向いた。発した言葉は凪いだ水面に石を投じたように響き渡る。
「いえ、とんでもない。彼女に会えるのならそれ以上のことはないでしょう。ですが、先に記憶を取り戻したほうが、彼女のもとへ無事にたどり着ける可能性も高くなるのでは?」
「私は、成功するか否かの話をしているのではありません」
自分でも驚くほど強い口調で言っていた。隠しきれない激情に彼も気づいたのだろう。覆面の奥ではっと息をのむ気配がした。
「私は見習いです。数十年間忘川河につとめていますが未だに実績ひとつない、落ちこぼれです。そんな私にもわかります。お言葉ですが、今の状況であなたが未練を晴らすことができるとはとても思えない」
一度口が回ればもう止められなかった。怨嗟にも似た醜い言葉が、熱くなった喉から次々と転がり落ちてゆく。
「あなたはすでに生の世界から逸脱した存在だ。冥土へ渡ったのち、再び現世に滞在することが許されるのは一夜のみ。満月が西の空にしずむまで、あの世への帰り道を照らす星々が尽きるまでです。これから前世の記憶を取り戻したとしても、あなたが会いたいと願う方のもとへ向かうまでには間に合わないでしょう」
覚悟してください、と。震える声で継ぐ。
「もしも記憶を完全に戻すことを選べば、それまであやふやだった未練もおのずと浮き彫りになってくるでしょう。己の未練の正体があらわになったとき、あなたはそれを受け入れることが、できますか?」
「……受け入れる? いったい、なんのことでしょう」
「あなたはなにも、わかっていない!」
ぐわんと車内に反響した自身の声で我に返った。目の前の覆面は相変わらず感情の読めない顔で、ただ冷静に、どこまでも穏やかにうなずいた。
「ええ、そうです。僕はなにも、わからない」
僕は全部忘れてしまいました。名前も住所も愛する人の姿さえも。それなのに未練がましく残った思いだけがこの胸をくすぶっている。覚えてもいない過去を、ずっと捨てきれないでいる。教えてください、僕はどうすればいいのですか。どうすれば苦しまずに、悲しまずに、最も良い形で、救われることができますか。
ばちっと。瞬間的に星が弾けて、車内に青い熱がほとばしった。
「……すみません。出過ぎた真似を、してしまいました」
寄り縋るように向けられた眼差しにそっと、目を背ける。小さく息を吐くと同時に、からだの内側で張りつめていた糸が一気に緩むのを感じた。ぷつりと切れてしまったともいえる。
「あなたにもあなたの事情があるのでしょう。記憶と未練、どちらを選ぶか。選択の自由は迷魂さんにあります」
とっさに口をついた言葉はほとんど自戒に近かった。鬼使いは迷魂の成仏を手助けする存在であり、現世に未練を残す迷魂が道を間違えないようにと導いてやるのが役割だ。それ以上やそれ以下のことは、決して許されてはいない。
「どちらにせよ今は、燈籠を信じるよりほかない」
車内に映る影はいつのまにか小さくなっていて、燈籠の光は随分と弱々しく見えた。けれどもどんなに焦ろうが、何かが変わるわけではないのは確かだった。先の見えぬ暗闇のなか、わずかでも存在する光に縋りつくしかなかった。
非難するような口調になってしまってすみません、と再三頭を下げる。
「いえ、もういいんです。謝罪はいりません」
困惑したように言われても、なかなか頭を上げることができなかったのは、羞恥心以上に大きな罪悪感があったからだった。とっさに頭に血が上ったのには、迷魂の浅慮な言動のためばかりではない。もっと個人的な動機があったのは疑いようがなかった。彼も意図して、あのようなことを言ったのではないだろうに。
今になってようやく、痛いほどに理解する。鬼使いは必要以上に依頼者に関わってはいけない。古今東西で絶対とされるこの鉄則は、迷魂だけでなく、鬼使い自身を守るための規則でもあったのだ。
しばらくすると向こうも諦めたのか、ついに声をかけられることはなくなった。幻滅されたのかも、しれない。さすがにいたたまれなくなって、なにかできることがあれば仰ってください、とだけ言ってみる。今の自分に助言をする資格がないのは重々承知していたが、せめてもの罪滅ぼしくらいにはなるだろうと思って。
すると反応に困ったような間が空いてから、ではひとつだけ、と遠慮がちに答えが返ってきた。
「先ほど言いかけていた、あのひとのことを教えてくださいませんか。僕のことはあらかた語り終えたので。今度は、あなたのことについて知りたいです」
しかしながら、予想の斜め上を行った言葉にはさすがに閉口してしまった。
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