弐
実に数十年ぶりの
やぶを
以前は気に留めたこともなかった事象さえも、次々と意識の海へなだれこんでくる。
感覚をかき乱すような不快感に思わず視線を流せば、後をついてきた
「着きました。この場所に、あなたを助けてくれる人物がいるはずです」
山林を抜ければ、海と
ごみや
迷魂が水面にぽっかりと浮かんだまるいものを凝視している。
「あれは月です。現世でしか見られない天体です。覚えていますか?」
軽い気持ちで尋ねてみたが、答えが返ってくるまでに間が空いた。
「あの……」
「つき、ですか。ああ、そういえば、以前よく耳にしていました」
ざわりと草花が
「彼女も月を見るのが好きでした。そう、はじめて出会った日も今日のような満月だった。わずかに開いた窓から、彼女は月を眺めていたのです」
その裏に秘められたものに、気づかぬはずがなかった。
「前世の、記憶ですか?」
思いもよらなかった台詞に、かろうじて声を絞り出すと、
外界からの刺激で、魂の記憶に変化が生まれている?
「おや、めずらしい客人だね」
ぽつん、と女の声が耳に入った。
視界の端でうっすらとたなびく
「
「となりのは迷魂かい。ついに万年見習いから卒業したんだね」
名を呼べば、湖のほとりに立つあずまやから
くつくつと喉の奥を鳴らして笑う姿こそ花盛りだが、まとう空気からは
いかにも怪しげなこの女は、彼岸に属す者でありながら、現世に留まり、湖を訪れる魂にとある支援を行っていた。
范はふうと煙を吐き、こちらへ歩み寄った。
「彼女は范といって、私の古い友人です。かつては冥土の高位な
言いながら横を向いて、気づいた。
先ほどから声がない。
かと思えば、迷魂は湖に向かって進み、何かに吸い寄せられるように見入っていた。
まるで見えない糸に
急いで背中を追いかけ、視線の先を
瞬間、
否、星のように輝くその正体は光を抱いた
「あんた、ここは初めてかい。きれいだろう? 生者があんたらのために作り上げた星空だよ」
月光で銀に染まる水面を切り裂いてひとつ、またひとつと光がたゆたってゆく。
どこかで人々が燈籠を流しているようだ。それも大勢で。
遠くから眺めれば、その光景はまるで銀紙に砂金を散りばめたように見えた。
燈籠の光に満たされた湖は、たしかに夜空に似ている。
もしもこの湖が空だとすれば、そこには
どうしてこうも欲張りなのだろう。これでは明るすぎる上に、何もかも雑然としていて騒がしい。
しかし同時に彼岸花よりも鮮やかで、忘川河よりも清らかで。
冥土にはない光に満ちあふれた生者の世界に、はからずも見とれてしまう心があった。
「あ……魂が」
迷魂が声を漏らし、上空へ手を伸ばした。
つられて視線を滑らせれば、本物の空には月だけがぽっかりと浮かんでいた。
嘘のように大きな満月から、いくつかの
青白い燐火は湖の上空を数度
どこかで聞いたことがあった。
死者の魂は、生者の光にどうしようもなく焦がれるのだと。
気づけば、その場にはたくさんの霊魂が集まっていて、燈籠の光を囲むように宙を舞い踊っていた。
燈籠がずるりと湖へ沈みこむ。
それを皮切りに、まるで引きこまれるように、無数の光の群れが湖の中へと沈んでいった。
不思議なことに、水に触れても火はついたままで、照明は水底で
水中に伸びる光の
驚いて声も出ないようすの迷魂とは反対に、たいして動揺することはなかった。
この光景は、忘川河の鬼使いからすれば見慣れているものだった。
「彼岸と此岸は表裏一体。思わぬところであの世へ通じていてもめずらしくはありません。古来より人々は、水を死者の世界に属するものだと考えてきました。だからこそ霊魂を冥土へと送り出すために、川へ燈籠を流すのです」
「今は
照明とはすなわち
それこそ、死者の国に降り注ぐ星々の正体だった。
「范、彼にも燈籠をひとつ」
「はいよ。とっておきのを用意しておいたからね」
あんたもいい夢見ておいで、と煙をくゆらせながら范は燈籠をひとつ手渡した。
ふたりで礼を言い、別れを告げてから湖を離れる。
「彼女はその道のプロですから、燈籠も特別製なのです。冥土だけでなく現世でも、霊魂の行くべき場所の道しるべになってくれる。だから、迷魂さん」
ぱちんと軽く指を鳴らせば、手もとに小さな
「あなたの内なる星の導きに従って、未練の行き着く先までの道を照らし出してください」
火種を差し出すと、迷える魂によって静かに火がともされた。
小さな星にあたたかな光が宿ると同時に、表面に書かれた文字がぼうと淡く光り出した。
◆ ◇ ◆
魂が彼岸に属してしまった以上、移動のためにわざわざ歩いたり、交通機関を使う必要はない。
それらは非効率で、一夜限りの旅には極めて不向きだった。
だからこそ、鬼使いや霊魂の移動はもっぱら空を飛ぶ形になる。
しかし、此度は燈籠の導きに合わせて、歩いて目的地へ向かうことになった。
いつもより
燈籠は浮遊して迷魂の先を行き続けていた。
その後ろをついてゆくように歩く。
鬼使いは迷魂の監視者でもあった。彼らはすでにこの世の存在ではない。
もしも現世で
夜は遠くから
街灯が増えたおかげで、真夜中でも先は見えるほど明るかった。
懐かしい香り。
小さく上品な白花は、殺風景な町中に咲けば
太古の昔から人々に愛でられた植物なのだと、かつて教えてくれたひともいた。
ほんの少し記憶を引き出してみたが、すぐに意味はないと切って捨てる。
現世に行けば感傷的になるのはしかたがなかった。鬼使いの
代わりに、久しく思い出さなかった歌謡を口ずさんでみる。
あの白く気高い花を
「
「はい?」
突然、前から声をかけられた。
間の抜けた返事をすれば、ふり向きはせずに首だけ
「その歌です。茉莉花をうたったものでしょう」
……驚いた。
この歌は地方に伝わる
そんなことよりも。
「また、記憶が?」
「やはりそうでしたか。どこかで聞いたことがあると思った」
問いかけようとすれば、間延びした声に遮られる。
「草花に関する歌謡はそれなりに知っています。彼女がよくうたっていましたから」
お上手ですね、どこかで習われたんですか? と今度は向こうから質問がくる。
この迷魂、もしかしたらかなり自由人なのかもしれない。
いろいろと言いたいことはあったが、まず最初に思い至ったのがそれだった。
しかし、困り果てる内心とは裏腹に口は勝手に回っていた。
「生前のことです。歌が得意なので、他人によく歌って聞かせていました。特にあのひとは花が好きでしたから……」
そこまで言ってはたと口を閉ざす。失言だった。
すみません忘れてください、と早口でそれだけを言うと、一瞬ふり向きかけた迷魂は前を向いたまま何も言わなくなってしまった。
ふわり、と。その場に沈黙が降り立つ。
すっかりおとなしくなってしまった背中を見ると、どことなくむずがゆい気持ちになって視線を泳がせた。
ふと目にとまった迷魂の後ろ姿は、かなり変わっているように見えた。
前世もそういう体質だったのだろう、肌は女性顔負けの白さだった。
それも
くせ毛なのか、頭の上で左右に跳ね上がった毛先が動物の耳を思わせる。
少し長めの髪も
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