忘川河の守り人
白玖黎
壱
あまりにも
腕を
今から
暗く長い
まどろみから覚めた体をうんと伸ばし、彼岸花の群れをかきわけて進む。
その名の通り死を象徴する赤き花は、
現世とは違って生物の存在しない死者の世界。大地を鮮やかに彩るのは彼岸花の赤だけだ。
しばらくあたりを
もう数十年もこの場所で花園の管理を任されている。
同じ時期に
彼岸花の
ふと視線を横にずらせば、忘川河を
そろいもそろって
死者の国へと向かい、魂の
彼らの前に立ちはだかる忘川河は、その名のとおり
霊魂は忘川河を渡りきり、今世の記憶をさっぱりと水に流さなければならない。
死者の国へ足を踏み入れる者は、現世に残した縁やしがらみを断ち切ることを義務づけられているのだ。
今年は例年にも増して死者が多いようだった。
常夜の空から星が降れば降るほど、そろそろと
燃え尽きた星々は
現世には星月夜という言葉があるようだが、黄泉の星空は格別だった。
こちらのものは落ちてくる。天から地へ。文字通り、上から下へ落下する。
実を結ぶようにふくらんだ光が、ある日突然こぼれるように降り注ぐ。
落下するとはいえ、その速さは
星が落ちれば死人が増える。冥土へ
慌ただしい足音に混じって怒号が聞こえてくるようになれば、そっと目を閉じた。
同朋の邪魔にならなければそれでいい。
ただこれまでもこれからも、自分だけは永遠に彼岸花園のかかしであればいいのだ。
しかし、再び
誰かに起こされるなんて久々だと思いながら顔を上げれば、見覚えのある姿があった。
最近は顔すら見なかったかつての同朋である。
風もないのに、白い
冥土の鬼使いの間で袖の長さは
「初仕事だ、見習い」
奴は書簡を押しつけると、その場から逃げるように去っていった。
わざとらしい
後を追うことも
簡潔にまとめられた文章の
正確に言うならば、予想していたのは内容ではなく書簡そのものだ。何度も同じ手口をこの目で見てきた。
すぐさま河川へ投げ捨てようと、書簡をおもむろにまるめる。
最初は星の残光が、書簡に反射しているだけなのだと思った。
封を開けてみれば、すぐにそうではないとわかった。
一見何の
おどろおどろしく
誘われるようにふらりと目前に現れたのは、ひとつの
光の
そのようすをしばしの間、
それはまるで冥土に
見上げるほどに大きくなった燐火――もとい、魂の
初めて見る光景に、やっと呼吸を思い出したかのように大きなため息が落ちる。
すべてを
つまるところ、初仕事というのは冗談ではなかったようだ。
いたずらだと思っていた書簡は上からの本物の命令で、たとえどんなに断りたくとも
「ごきげんよう、さまよえる
青白い光のなかになびく白装束をとらえれば、あくまで淡々と語りかけることにした。
「どうやらあなたの案内役を承ったようです。どうぞ短い間ですが、よろしくお願いします」
◆ ◇ ◆
鬼使いとは、古い言葉で霊魂を導く者を指す。
その名のとおり、現世でさまよえる迷魂を死者の国まで連れてゆくのが主な仕事だった。
しばしば忘川河を渡る前、
未練にさいなまれた死者の霊魂は
「私はただの案内人ですので、現世に直接介入することはできません。迷魂さん、あなたの未練はあなた自身で晴らさなければなりません」
忘川河から現世へ渡る前に、いくつか注意しておくべきことを伝えておいた。
あの世とこの世、両者の
「あなたが自由に活動できる時間は一夜のみです。そのあいだに目的を果たしてください。それから……」
迷魂は始終興奮冷めやらぬようすで、真剣に話を聞いてくれた。
しかし徐々に、その
先ほどから彼は一言も発さない。ざわざわと強風に煽られるような
どうかしたのかと尋ねれば、不安は見事に的中した。
「実は、以前のことをあまり覚えていないのです」
それでも問題ないでしょうか、と。
「以前とは……生前ですか」
「そうですが」
完全に理解するのに数秒を要した。
「死者の国へ向かう道はあちらですよ」
「僕はまだ忘川河を渡っていません! ちゃんと依頼をするために、ここへやって来たのです」
何だ? 今この迷魂は、何と言った?
天地がひっくり返るというのはまさにこういうことだった。
問題大ありである。生前の記憶もないのに未練など晴らせるわけがない。
「いえ! なにもさっぱり覚えていないわけじゃなくて、
反応に困っていると、申し訳なさそうに目線をそらされる。
「ですが、ただひとつだけ、覚えていることがあるんです」
「名前、とかですか?」
その瞬間、わずかに灯ったと思われた
「僕には愛する人がいました。ただその人にもう一度会いたくて、依頼したのです」
スケールの大きな未練になすすべもなく
いや、その手の依頼ならば特別めずらしいものでもないだろう。
しかし、未練晴らしのよすががあまりにも
己の未練は己で晴らさなければ意味がない。
鬼使いは手助けこそすれど、深く介入することはできなかった。
制限時間は一夜のみだ。もし間に合わなければどうなってしまうかを、この迷魂は知らない。
ただ
「あの場所なら、なにか手がかりがつかめるかもしれません」
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