その本屋はお金を受け取りません
神村 涼
その本屋はお金を受け取りません
人生の勝ち組。
将来、私はそう言えるようになりたいと考えていた。当時、幼い思考の果てに導き出された結論は、知識を増やす事だった。そこで更にどうするべきかを考えた。知識といえば本。安直に本を読もう、という事になった。
恥ずかしい話になるが、私の生家は貧しい家庭だった。衣類は親戚のおさがりを着回し、食事は簡素なものばかりで、外食なんて以ての外だ。とても、本を買う余裕は無かった。
しかし、幸運な事に近所で可笑しな本屋の噂があったのだ。その本屋は本を売る際に、金銭を要求しないのだという。私にとっては僥倖と言えた。
早速、小躍り気味にその本屋へと向かった。人通りの少ない路地裏で、店内は薄暗かったのを憶えている。
「いらっしゃいませ」
この店内に似つかわしくない、流麗な女性が出迎えてくれてたのには驚いた。幼いながらに胸が、ときめいたのは良い思い出だ。ともあれ、念願の本が大量に置いてある棚と、私は睨めっこをしてしまう羽目になる。
陳列された本の背表紙に題名は愚か、著者さえも書かれていない白紙なのだ。ただの分厚いノートが陳列している、と表現した方が分かりやすいだろうか。
「何か、お求めですか?」
女店主は私に華やかな微笑みを浮かべて尋ねて来る。傍に来た女店主の放つ、香りは私の鼻孔を擽り弄ぶ。幼い故に良い恰好を見せたい、自分の盛大な妄想とも言うべき、将来をこれでもかと言わんばかりに嘯いたのだ。
「それは今後が楽しみですね。それでしたら、私がとっておきの本を選んで差し上げましょう」
私の戯言にも女店主は、嫌な顔一つ見せなかった。ましてや、私の為に本を選んでくれるという。ただ、子供だと馬鹿にされたくはない。陳列された本の中身は確認済み。
「だけど、ここには白紙の本ばかりではないか」
「それはあなたが勝手に、読もうとするからで御座います。あなたも赤の他人が家へ入らない様に戸締りはするでしょう」
何を馬鹿な事を――。そう喉元を出そうになったが、女店主から差し出された本を手に取り目を通す。そこには、しっかりと文字が書き記してあったのだ。背表紙には『人生失敗録 著
これから勝ち組を目指そうとしている若輩者に、この題名は如何なものか。まあ、噂通りならば、金銭は必要無いのだから試しに貰っておこう。
「この店は金銭が不要と聞いた。これは貰って行っても良いのだろう?」
「ええ、それは差し上げます。ただ、一つだけ条件が御座います」
「条件とは?」
「いえ、難しい事では御座いません。月に一度、手紙が欲しいのです。あなたが経験した事を踏まえて」
「もし、約束を破れば?」
私の質問に女店主は白く長い指を妖艶な口元にあてがった。
「あなたはそのような事をなさいませんでしょう?」
「まあ、一応聞いただけだ」
自分の心情を見透かされたようで、気恥ずかしくなり私はその場を後にした。
私の人生においての転機と言える事柄は、この出逢いに尽きる。それに、あの時の本は私にとっての指針となった。
尾張忠人の失敗録は、おおよそ人が失敗しそうな事柄について、事細かく記載してあった。交友関係に始まり金銭面然り、社会に出てからの立ち振る舞いに、家庭内トラブルまで多岐に渡り失敗経験が網羅されていたのだ。
まるで、自分が歩く未来の失敗談が記載されているとも言える代物だった。私はその本を反面教師として、活用し順調に勝ち組へと辿り着く事が出来たのだ。
妻がいて、3人の子宝にも恵まれて家庭は順風満帆。会社員を早期に辞めて、ベンチャー企業を設立。ありとあらゆるプロジェクトが大成功を治めた。家庭があり、資金も潤沢、社会的地位も揺るぎない。
そんな私でも一つだけ、心残りがあった。
女店主との約束事。私は当然、一度も欠かした事は無い。むしろ、人生が順調に進みすぎて、直接伝えたいと出向いた事さえあった。
しかし、あの本屋は既にどこにも存在していなかったのだ。私の持てる財力と人員を駆使しても、女店主の素性すら掴む事は叶わなかった。
だが、不思議とあの本屋宛に書いた手紙が、私の元に戻てくる事は無かった。どこかにいる女店主へ、届いているであろう手紙が唯一の繋がり。
あの女店主に逢いたい。そして、あの細く白い指先で私を愛でて欲しい。それが、私の人生における唯一の心残りだ。
最後の日まで、私はこの手紙を――。
『人生勝ち組 著
古びたテナントビルで一人の女性が、本を大切そうに優しく撫でている。こちらに気付いた女性は、色っぽい唇を動かす。
「いらっしゃいませ。何か、お求めですか?」
その本屋はお金を受け取りません 神村 涼 @kamira09
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