歪曲英雄神話

今迫直弥

歪曲英雄神話

 何がどうなったのかはわからなかった。しかし、これだけは確かだった。

 全てが、    歪んでしまっている。

 それだけは、確かだった。


 冷静に考えればわかることだ。この世には、本当にわからないことなどないのだから。

――と、インセクティヴォアは思った。自分だけでもそのように思っていないと、正気を保てそうもなかったからだ。

 深く、ゆっくりと息を吸い込む。妙に冷たい空気が、じわりと肺を侵した。

 それを吐き出すことすら忘れて、彼はもう一度、目の前に転がっている物体に意識を向ける。

 そこには、死体があった。

 何度見ても変わらない。

 間違いない。

 長い髪を花のように広げて、仰向けに倒れている女。その瞳はこちらを見つめたまま、何かを訴えかけてくるようであり、そして髪の花の下には真っ赤な海が広がっている。

 インセクティヴォアは目を背けた。

 冷静になったつもりだったが、それでも、何もわかって来ない。

 この女が何者であるかは元より、ここがどこなのかもわからない。

 わかっているのは、今が夜であることと、ここが屋内ではないということだけだ。しかしそんなことならば、最初からわかっている。

 …………。

 インセクティヴォアはそっと女に近づいた。

 そして、手を伸ばし、女の瞼を閉じてやる。

 …………。

 ゆっくりと、女の横を通り過ぎ、その場から歩き出す。

 微かに、頭の隅に痛みが走った。

 それは、大切なものを喪失した時の感情に、何故か酷似している気がした。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかし、これだけは確かだった。

 全てが、    歪んでしまっている。

 それだけは――――


 夕刻。

 Jは目を覚ました。彼女の一日は、ここから始まる。

 一度、着ている物を全て脱いでしまって浴室に向かう。熱い湯を浴びて一気に眠気を飛ばすという彼女のいつもの日課は、しかし今日はうまくいかなかった。

 浴室内に、先客がいたからだ。中から水音が聞こえているのだから、扉を開ける前からそれに気付いても良さそうなものだが、何分Jは寝起きが悪かったので、頭の働かないまま、ほぼ自動的に、形式化した動きとして、電気をつけ――そう、浴室内の電気はついていなかったのだ――、磨りガラスの扉を開けた。

 そいつは、そこにいた。男だった。

 服を着ており、シャワーの湯を流しっぱなしにしながらしゃがみこみ、こちらに背を向けて手元で何かをしている。髪が、見たこともないような色をしていた。

 Jの意識が覚醒し、悲鳴をあげるより早く、男が体ごと振り返った。

「ひっ」

 Jの、喉まで出掛かっていた悲鳴は、自らのあげた、引きつったような声に取って代わられる。

 男は、右手にカミソリを持っていた。

 しかしそれより何より、顔や体に何かべったりと緑色の液体が付着している。

 さらに、左手には、おそらく何かの生物の一部だと思われる肉塊が握られていた。

 ――男の動きは迅速だった。浴室の入り口に立つ全裸のJを突き飛ばし、脱衣所を抜け、廊下に出ると、脱兎のごとく玄関へ、そしてそこから外へと走り去った。

 脱衣所で尻餅をついていたJは、しばらく放心して動くことすら出来ずにいたが、やがて手をついて、立ち上がらぬまま恐る恐る浴室内を覗いてみた。

 シャワーの水音、そして立ち込める湯気。

 一見いつものバスルームの中、バスタブに常軌を逸したものが転がっている。

 それは――――死体……だった。

 いや、死体だろうとは思われるのだが、果たして何の死体なのかはさっぱりわからなかった。のか、彼女には見当もつかないのだ。

 どす黒い皮膚は、おそらく変色などではなく元々そのような色をしているのだろう。妙な光沢をもっている。体長はわからないが、かなり大きいようだ。マンションのものとしてはかなり広い部類に入るバスタブの中に、折りたたまれるようにして詰め込まれている。

 いや……違う。

 それらは、バラバラに刻まれているのだ。そうして、バスタブ内に山と積まれているのである。

 ――これでは尚更、原形が何であったのか判別できない。

 …………。

 Jの頭に先程の光景が蘇る。

 男。服といわず顔といわず、全身に付着した緑色の液体――何かの生物の体液ではあるまいか――。右手のカミソリ――あのカミソリで一体何を切っていたというのか――。そして左手の…………。

 Jは胸がむかむかしてきたので、浴室の扉を閉めた。

 ゆっくりと立ち上がると、シャワーの後に着る予定だった服を身につける。

 そうして、警察に電話をかけるため、リビングルームへ向かった。

 その時。

 ――ピンポーン――

 チャイムが鳴る。

 Jは少し迷ったが、Uターンして玄関へ歩き出した。先程の男が通った跡に、点々と水滴がこぼれている。

「どちら様ですか?」

 こちらが問うと同時、向こうからドアが開く。

「ちょっと、勝手に――」

 開けないで下さい。

 ドアの向こうから現れた人物を見て、Jはその言葉を呑み込んだ。

 そいつは、右手に小さな、おもちゃのような銃を持っていたのだ。サングラスの向こうからこちらを睨んで、そいつは言った。

「アルファ・ワンはどこにいる?」

 Jには、その名前に全く聞き覚えなどなかったが、しかし身の危険を感じて、

「ここにはいないわ」

 と答えた。

 すると、そいつは明らかに不愉快そうに唇を歪め、

「この家にいるのはわかってるんだ。出せ。出せば命だけは助けてやる」

「だから、いないって言ってるでしょ!」

 Jの言葉にそいつは、今度は何の反応も見せなかった。が、突然

 ――――キーン――――

 と、耳鳴りのように、超高音域の波動が鼓膜を揺さぶり、Jは、自分の体が思い切り、真後ろに向かって移動しているのを感じた。それは、氷の上で見えない何かに体を押されている、といったような動きだった。

 しかしそれにしても――尋常な速さではない。

 彼女はあっという間に廊下の突き当たりであるリビングのドアへと激突し、――それをいとも簡単に突き破った。

 背中から来る衝撃に、呼気を奪われ涙が出そうになる。

 しかしまだ、体は止まらない。

(……何!? どうなってるの? これって――?)

 そして、インテリアに体をぶつけることも、減速することもないまま、部屋を縦断する。

(!!!!!!)

 自分の後ろに迫るものを考えて、どうにか止まろうともがいてみたが、体の自由は全く利かなかった。

 直後。彼女の背中は、ベランダにつながるガラス戸を直撃する。激痛で、声すらも出ない彼女は――それすらも、ぶち破る。ガラスの割れる音が、周囲に響き渡った。

とうとうJは家の外へ。彼女の部屋は――地上十階だ。

 Jの勢いは、ガラス戸への直撃でも衰えていない。

 安全のための柵に激突し、しかしそれすらも彼女の勢いを止めるにはまるで役に立たず――――

「何なのよ!! どうなってるの!!!!」

 叫びを引きずりながら、空中へ放り出され……。

 そこで、彼女に働く不思議な力は突然消え失せた。

 …………落ちる。真下へと。

 Jは泣き出したい気分だった。

 どうしてこんなことになったのだろうか?

 何が原因で、誰が悪くて、こんなことになったのだろうか?

 このまま私は死んでしまうのだろうか?

 ――それならば、最後に、彼に、キュラルゴに、伝えたい。

 私はあなたに冷たく接していたけれども、実はあなたのことが――――――――


 何がどうなったのかはわからなかった。しかし、これだけは確かだった。

 全てが、    歪んでしまっている――――


 アルファ・ツーは、今しがた使った銃――物体を移動させる力を持つ波動を撃ち出す、彼専用の武器だ――をコートのポケットにしまうと、その家に踏み込んだ。無論、土足のままだ。

 彼らにだけわかる信号を読み取ってアルファ・ワンの居場所を探ると、ぎこちない足取りで歩き出す。

 脱衣所のドアを開け、そして浴室への扉も開ける。

 湯気が立ち込めていた。シャワーの水音の中、アルファ・ツーは絶句する。

「ア、アルファ・ワン……」

 バスタブの中に転がる同胞に声をかけるが、返事はない。服が濡れるのも気にせず、彼は浴室に入り、バスタブへと近づいた。

 そして、ようやく気付く。アルファ・ワンがバラバラに切り刻まれていることに。緑色の血が拭い去られていたため、体内の構造も外皮層と酷似して見えていたのだ。

「誰が……、誰がこんなことを……」

 アルファ・ツーは呆然と立ち尽くした。

 ――我らの敵であるところの『』は今朝殺したはずだ。

 だとすると、一体誰がアルファ・ワンを殺せたというのだ?

 一体誰が、我らに勝てるというのだ?

 …………。

 アルファ・ツーは恐怖を感じた。言い知れぬ不安感と、叩きつける人工的な水流が、彼を苛立たせる。

 ……とにかく、首領に連絡するのが先決だろうか?

 彼はポケットから、小さな、携帯電話とは違う、おもちゃのような電話を取り出した。

 しかし――どう伝えればいい?

 アルファ・ワンの死をありのままに伝えるとして、新たなる敵の存在……つまり、アルファ・ワンを殺した者の存在について言及された時、どう返答できるのだ……?

「もしかすると、まだこの辺りにいるやも知れない。ここは、敵の正体を見極めたほうが良いな」

 例えそれが、独断専行だといわれても。

 アルファ・ツーは変身を解いた。着ていた服が全て千切れ飛び、サングラスも砕ける。

 そして……一回り大きな何かになった。昆虫と鳥を足して二で割った、というのが一番近いか。表現できないような黒色の、独特の光沢をもった肌をした、それは怪物だった。

 いや……怪人類だ。

 彼は、変身を解いた際の衝撃でも壊れなかった、先の拳銃と電話を拾い上げると、今度はごく自然に、違和感のない動きで歩き出した。

 玄関ではなく、ドアが壊れているリビングへと向かう。

 そしてそのままリビングを突っ切り、割れたガラス戸からベランダに出た。その遥か下、人通りのない細い横道には、女が仰向けに倒れている。不思議なことに、まだ騒ぎにはなっていない。

 好都合だ。

 怪人類アルファ・ツーは、バサッと音をたて、翼とも羽根とも違う飛行器官を背中に、大空へ舞い上がった。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかしこれだけは確かだった。

 全てが    歪んで――――


 『食虫植物』は物陰に潜んでいた。右手にはカミソリ、左手には、よくわからないが黒い肉塊を持っている。

 彼の記憶は混乱していた。

 何かがおかしかった。

 よくはわからないが、何かが。

 顔についた緑色の液体を、ポケットのハンカチでぬぐう。カミソリと、そして肉塊を放り投げた。

 一息つく。

 しばらくここに潜んでいよう、と彼はここが安全だと本能的に理解していた。

 ここは彼女のマンションからすぐ近く――――彼女? さっきの裸の女か?

 果たして誰だったろう。

 何か、ひどく大切なことを忘れている気がする。

 何だろう? 何か、今朝からおかしい……。

 『食虫植物』は、とにかく物陰に潜んでいた。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかしこれだけは確かだった。

 全てが    ――――


 これは秘密なのであるが。

 普段は冴えない警備員(それも、アルバイトに過ぎない)であるキュラルゴ・ラルグ(二十三歳)は、変身して悪と戦っている。

 テレビで、いわゆる特撮ヒーローものをやっている度に、いい大人である彼が夢中になって見ているのも、言ってしまえばそれが原因だ。

 しかし、世の中はそんなに甘くなく、簡単に変身などと言っているが、それはかなりのエネルギーを消耗するし、敵も弱くはない。

 まあ、敵が怪人であるところなどは、テレビそのままなのだけれど。

 彼は変身すると、になる。テレビみたいに姿が変わるわけではなく(髪の色が変わって、それから爪が伸縮可能になる、くらいの変化はあるが)純粋に、人間離れした能力を手に入れるのだ。その能力を駆使し、密かにこの世界に暗躍している、怪人類という謎の生命体と戦ってきたのだ。

 この三年間で、百体以上は殺してきた。

 そして――食べてきた。

 彼は、変身により消耗した致命的なまでのエネルギーを取り戻すために、倒した怪人類を食べるのだ。食べられる部分は種によって違うが、大概の場合少なく、それでも栄養価はかなり高い。

 怪人類は、を喰らう彼を称して、こう呼ぶ。

 ――『食虫植物』と。

 もっとも――キュラルゴは呑気な男なので、自分がどう呼ばれるかに頓着などしない。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかしこれだけは確かだった。

 全てが――――


 早朝。

「ふわー、やっと終わった」

 キュラルゴ・ラルグは、両腕を上に伸ばし、いつものようにあくび混じりでそう言った。

「あなたねえ……。いつもそんなこと言ってるけど、つらいんだったらやめれば? 真夜中の警備なんてのよりもよっぽど楽な仕事が、この世には山ほど転がってるのよ」

 と、これは原則二人一組の警備の仕事でキュラルゴのパートナーを務めるJだ。彼女は、女性ながら軍隊にいた経験もあり、体力には自信がある。

「いえいえ。こんなに割りのいいバイトはないですから。綺麗な女の人と一緒に、暗い中で懐中電灯片手に散歩してるだけでいいんですもん」

「あなた……警備の仕事何だと思ってるの?」

 呆れたように――その実、綺麗な女の人と言われて少し照れながら――、Jはため息をついた。そして、ふと表情を変えて、

「あなた、今いくつだっけ?」

 と突然訊いた。

「年齢ですか?」

「年齢以外に何があるのよ」

「二十三ですけど」

「ふーん……じゃあ、妹と同じか」

 その様子を見たキュラルゴは不思議そうに、

「どうしたんですか? 今日、やけに機嫌が良いみたいですね。いつもなら僕より先にすぐ帰っちゃって、話し掛けても無視するのに……」

 Jは、少しあせったようだった。

「いや、ほら、あなたのこと結構知らないまま仕事してきたじゃない? だから、今日ぐらいいろいろ知ってもいいかなって思ってね」

「はあ……」

 何だか妙な言い回しだな、とキュラルゴは頭を掻いた。

 一方Jは、今度は少し間を置いて、心を決めるまでの時間をとった。そして――

「あのさ、今日、今から私の家来ない?」

 言った。

「え?」

 キュラルゴは目を丸くする。

「いや、嫌ならいいのよ、別に。ただ、朝食くらいはご馳走できるからさ、この時間、開いてる店って多くないし――」

 何をあせってるんだろうか、自分は?

 ちょっと急すぎたし、相手に不審感を与えていないだろうか。

 さまざまな思いが去来するが、しかしそれを顔には出さないようにして、Jは返事を待った。

 まさにその時、キュラルゴの瞳が突如真剣味を増したことに、彼女は気付かなかった。

「Jさん」

 次にキュラルゴが話し出した時の、その口調は、なんと言うか、やけに勇ましかった。

「その話はまた今度ということに。いや、明日にでも貴女のマンションに行きますよ。そのかわり、今日のところは勘弁してください。あと、家に帰ったら鍵をかけて、一歩も外に出ないように」

 言い終わると、彼は突然――Jには、そうとしか思えなかった――風のような速さで走り出し、その場を立ち去った。

 Jは少し残念に思いながらも、

(そういえば、どうして私の家がマンションだって知ってるのかしら)

 と訝った。

 そして――――これが、この二人の交わした最後の会話となる。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかしこれだけは確かだった――――


 しまったと思ったときにはもう遅かったが彼はどうにかその背後からの一撃をかわすことに成功したものの振り向く間すら与えられず左右両側から撃ち込まれたおそらくは銃弾だと思われる何かが右腕の付け根と左の腰を直撃した瞬間に彼はようやく自分が囲まれていることを知りどうやら怪人類は自分を罠にかけたらしいと思い立ったが三十五発の何かが立て続けに飛んできてその全てを払い落とそうとしたが一つ目を払い落とそうと出した左腕がその何かに触れた瞬間粉々に吹き飛んだのでやむなく全部回避することになり避けている途中に正面から突進してきていた怪人類に向かって炎を放ったその姿勢のまま謎の波動を受けて左側へ吹っ飛ばされて左腕がないため受身もとれず無様に土の上に倒れこんだが悠長に寝ていられなかったのですぐさま体のばねを使って起き上がったところ右足を何か鋭利な刃物が狙ってきていたのでとっさに右手でかばい右手を失いその刃物の出所を追って視線を右に転じた瞬間死角となった左側から首を貫通するレーザーの様な光線が来て避けきれず致命傷を負ったのだがまだ足が無事だったというその点に賭けて彼は思い切って身を翻し何人いるかわからない敵の――――――――


 何がどうなったのかはわからなかった。しかし、これだけは――――


 一言で言うと。

 キュラルゴは、いや『食虫植物』は、負けた。

 早朝、キュラルゴが怪人類の出現に気付き――頭の中で警鐘が鳴り響くのが怪人類出現の合図だ――、変身して駆けつけた時には、すでに怪人は死んでいた。死体だったのだ。

 彼が感知していたのは、そいつではなかった。

 そう、それは、囮だった。彼は今までにない人数の、隠れていた怪人類によって取り囲まれており――これまで、怪人類がこのような統率された集団行動をとることなどなかった――、一方的ともいえるような圧倒的な力の差で敗北した。

 おそらくは――いや、間違いなく運命が歪曲したのはこの瞬間だろう。

 ヒーローが怪人に敗北する……。それはあってはならないことだ。

 『食虫植物』は、どうにか囲みを突破し、その場を脱出した。もはや、死の直前だった。

 追跡を避けるために、あえて市街へと逃れた。怪人類の姿は町では目立つためか、彼らは人が多い場所では人型に変身したり、そこに近づくこと自体を避けたりするからだ。

 それでも、怪人類は今回、死に損ないに過ぎないヒーローを、アルファ・ワンに追跡させた。

 そして、早朝で結局人通りのほとんどなかった、ある街路で。

 死にかけた『食虫植物』は、アルファ・ワンの刃物化された右腕で心臓を貫かれ――

 息絶えた。

 アルファ・ワンが死体を一瞬で消滅させ、敵の死を首領に報告し、帰還命令を下され、それに従おうとしたところに。

 は現れた。


 何がどうなったのかはわからなかった。しかし――――


 インセクティヴォアは、別にどうということもない大学生だ。ルックスは中の上くらいで、成績も中くらい、スポーツは少し得意だが、自慢するほど抜群に出来るわけでもない。映画研究会というサークルに所属しており、仲間たちと自主映画の製作に興じているが、コンクールとかそういうものを目指しているのではなく、あくまで自分たちの趣味だ。高校時代から付き合っている恋人は、当時、彼の一年先輩で、しかし大学に入った際に同学年になっていたりするのだが、まあ、それもさして珍しい話ではない。

 一番変わっているのは、その名前だろうか。

 インセクティヴォア……だ。


 何がどうなったのかはわからなかった――――


 キュラルゴ・ラルグは、死んだ。しかし、変身後の能力か何か、彼の残留思念――魂とでも言うべき存在が、彼の体を出て、そして近くにいた青年の体の中に入り込んだ。

 その青年は偶然――そう、本当に偶然だ――その、『食虫植物』と同じ意味を持つ名前をしていた。

 その一点のつながりのみで。

 『食虫植物』は、彼に寄生した。

 全てが、歪んでいた。

 精神的な抵抗が彼の中を荒らし回り、そして、全てが曖昧な、おかしな生物が誕生した。

 キュラルゴ、インセクティヴォア双方の記憶をいくつかぶち壊しながらも保持し、双方の人格を混沌の中に持ち、さらに『食虫植物』への変身も出来る個体である。

 それはすでに不自然で不安定だった。

 しかし、その存在は敵を感知して、その敵の方へと向かった。


 何がどうなったのかは――――


 結局、最期は一瞬だった。その一撃だけだった。


 何が――――


 一言で言うと、アルファ・ワンは負けた。

 突如現れた男は、何者かわからなかったが異常なまでに強く、彼は全く歯が立たないまま殺された。

 殺した本人、『食虫植物』は、今度は途方にくれた。

 目の前にある死体をどうすればいいのか、全くわからない。

 しかし……記憶――ひどくあいまいな記憶を探ると、かなり高価そうなマンションの十階、とある部屋のドアが思い出された。そのインターホンに手を伸ばそうとして躊躇い、結局踵を返すというようなその記憶は、一体何なのだかよくわからなかったが、彼は変身を解かぬままに、死体を背負うと、そのマンションまで人目に付かぬように移動し、件の部屋の前にたどり着いた。

 インターホンに手を伸ばしたりはしなかった。

 無造作にノブを捻った。鍵はかかっていなかったようで――いや、実はかかっていたのだ。それを無視してノブを捻り、鍵の機構を完全に無視して――簡単にドアが開いた。

 彼はわけもわからぬまま室内に侵入し、とりあえず玄関から最も近いドア――脱衣所の扉を開けた。そして、浴室へと足を踏み入れる。

 やはりわけのわからぬまま、彼は死体を背中から降ろし――切り刻んでいった。

 末端から、まず、ぶつ切りにする。

 血が――気味の悪い緑色の血がはねる。

 シャワーをつけた。

 水を出しっ放しにして、ひたすら、それを繰り返す。

 もはや、その行為にどんな意味があるのか、どうしてこんなことを始めたのか、何もかもが曖昧なまま、よくわからなくなっていた。

 途中までやると、水を浴び続けたために指先が麻痺してきた。

 シャワーを止めた。

 そして、それまでは自らの伸縮自在の爪で作業を行っていたのだが、ひどくそれに嫌悪を覚え――何故だろう?――近くに置いてあったカミソリを使うことにした。

 切りづらいが、力にものを言わせて、切る。

 また、血で汚れてきた。

 しばらく作業を続け、七割方終わった頃、どこか頭の隅の方で、シャワーは冷水だけでなく湯も出せるのだと思い出し、今度は湯を出しっ放しにした。

 …………。

 かなりの時間をかけ、全部のパーツを適当な大きさに切断し終わると、果たして次に何をすべきか本当にわからなくなった。

 ……食べるという発想は、何故かない。

 とりあえずさらに細かくしよう、と彼はバスタブの中から、肉塊を取り出す。

 カミソリの刃をあてた瞬間。

 ――浴室の、ドアが開いた。

 緊張と興奮と。感情の高ぶりから来る精神の揺らぎの中、彼は、さらに不安定になった。

 とっさに振り向くとそこには――――


 ――――――――


 『食虫植物』は、物陰に潜んでいた。

 そろそろ辺りも暗くなってきた。表に出ても大丈夫ではないかと思ったその刹那、それは衝動となって彼を突き抜けた。

 ――――食べたい!!!!!!――――

 何を食べたいのか、考える暇もなかった。彼は先程投げ捨てた肉塊を拾い上げ、噛り付いた。――本来の彼なら、その、皮とでも言うべき部分しか食べられなかったのだが、今の彼はそんなことを無視して、ただただ貪った。その肉塊の全てを。

 そして、エネルギーの補給――これを怠ると、変身が解けてから倒れる――が終わると、彼は頭を抱えその場に蹲った。

 それから――

「ぐっ」

 というような呻き声をあげ、顔を上げた。髪の色が、本来のインセクティヴォアのものに戻っている。

 変身が解けたのだ。

 それとともに、彼の中でも秩序が生まれたのか、『食虫植物』は、インセクティヴォアの人格を強く前面に押し出した、言わば、表面的にはひどくインセクティヴォア本人に近い男になった。

 彼は、きょろきょろと辺りを見回し、自分が今置かれている状況を判断しようとして、失敗した。洋服が、何だか緑色のペンキみたいなものでかなり汚れている。

 それだけを確認すると、自分が何故かいた、ビルとビルの隙間の、絶対に誰にも発見されないだろうその場所から抜け出した。

 見知らぬ場所だった。何もわからぬまま、とりあえず適当な方向に道を歩き出す。

 少し歩いた時、彼は道の先に異様なものを見つけた。それは、女だった。

 道路の上で寝転がっている。

 こんなところで何を――

 言おうとして、やめた。近づくにつれて、それが何かわかってきたからだ。

 その女は、血の海の中で、すでに死んでいた。

 開いたままの瞳と、目が合う。

 彼女のその目尻には、うっすら涙の跡があるような気がした。


 ――――


 アルファ・ツーは、その敵を探すためと銘打ち、片っ端から付近住民を殺していった。

 元々、住民以外があまり通るような場所でなく、そのためにこの大量虐殺事件は、夜になってとある大学生が通報するまで、世間に知られることはなかった。

 一方、その頃、その虐殺事件の犯人は独断専行が首領にバレたために粛清を受け、すでにこの世にはいなかった。

 この事件は、後、迷宮入りとなる。


 全てがわかった。それでも確かなのはこれだけだった。

 『全てが、歪んでしまっている』

 本当に、それだけだった。



 この後。

 歪みはどんどんと広がっていき、それまで『食虫植物』一人しかいなかった英雄人種ヒーロー――特殊能力を持つ体に変身できる者――が何人も現れることになる。しかし、彼らは互いに助け合って怪人類に立ち向かうという姿勢は見せず、それぞれ独断で行動し、あまつさえ英雄人種同士が対立することすらあった。怪人類に負けて死ぬ者も珍しくなく、もはや世界の裏では、英雄人種対怪人類の構図が完全に形式化された。

 そこまで来ても、怪人類やヒーローの存在が社会の表舞台に登場することはなく――我らが『食虫植物』の物語は、そんな社会の歪みの中で、突如終幕を迎える。



 エメラルドは、窓の外をぼんやりと眺めながら、三年前に死んでしまった姉、ジェイドのことを考えていた。

 翡翠という意味を持つその名を、実はあまり好きでなかった姉。

 突然軍隊に入ると言い出して、わずか五年で除隊された姉。

 口は悪く、皮肉げに物を言ったけれど、根はすごく優しかった姉。

 思いの外、すごく純真だった姉。

 自分がストーカー被害にあっている時、犯人を袋叩きにして警察から厳重注意を受けた姉。

 職場にかなりお気に入りの男の子がいると楽しそうに語っていた姉。

 未だに真相のわからない、大量虐殺とでも言うべき事件に巻き込まれ、命を落とした姉。

 白い布を顔に被せられて、霊安室に静かに横たわっていた姉。

 ……自分の、心の支えだった姉。

 そんな姉がいなくなってから、彼女の生活は劇的に変化した。その変化に自分が対応していって、そうしてもう、三年も経ってしまったというのか。

 もう、エメラルドはジェイドより年上になってしまっている。

 それがひどく悲しかった。

 空は馬鹿みたいに蒼く、木々も律儀なまでに青い。そのコントラストの下、彼女は、ただ生きてきたのだ。

 仇討ちという名目の上に立って、その実何も出来ず。生きることに意味を求めることそれ自体に支えられるようにして、彼女は生きてきた。

 エメラルドは、常に絶望の中にいた。外からはそう見えなくても、彼女は常に危うい所を歩いていたのだ。小さなきっかけで「生」という名のロープから足を踏み外すことの出来る、長い長い綱渡り。彼女は、まだその上に、「生」の上に立っている。

 涙がこぼれた。

 部屋の中へと目を転じると、あいかわらずの光景がそこにある。

 白い壁。白いベッド。白い机。

 無機質な、その、色無き色に囲まれて、彼女は生きてきたのだ。

 涙がこぼれた。

 机の上の写真立ての中から、写真嫌いだった姉が、不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。永久に変わらない、その表情で……。


 決着を、つけねばならない。

 デルタ・フォーティーワンの決心は揺るがなかった。

 おそらく、自分か相手のどちらかが、死ぬことになるだろう。そしてそれは、九割方、自分だ。

 それでも、戦わねばならない。彼女はそのために生まれてきたのだから。

 今まで何度、奴を殺し損ねて来ただろう。もう失敗は許されない。躊躇うことは許されない。

 彼女は、『食虫植物』と戦うために生まれてきたのだから。

 デルタ・フォーティーワンは変身を解いた。人型であった彼女の背から、透き通った羽根が生え、額からは二本の触角器官が伸びてくる。

 変化は、それだけだった。

 怪人類デルタ種。それは、人々の言うところの妖精に酷似しているのだ。

 しかし、この姿になった後、五分以内に『食虫植物』は自分を殺しに来る。妖精だろうと何だろうと、怪人類は彼の敵だからだ。

 デルタ・フォーティーワンは、ここに至ってようやく後悔した。

 親友のエメラルドに、さよならの挨拶くらいしておけばよかった。


 迷いだった。

 彼を邪魔しているものは、ただそれだけだった。インセクティヴォアは迷っていた。

 全てが、彼のせいだった。少なくとも、彼自身はそう思っていた。

 だからこそ迷っていた。

 …………。

 インセクティヴォアには、恋人がいた。ユラという名のその女性は、インセクティヴォアより一つ年上で、物静かなおとなしい性格だった。彼はユラを愛し、彼女もインセクティヴォアを愛した。

 ……が、そこにエメラルドが現れた。

 エメラルドはユラの親友であり、明るさの中に何故か空虚な哀しさが垣間見えた。インセクティヴォアの中の、何かがどんどんと彼女に惹かれていくのがわかった。それは、自分の中にもう一人別の誰かがいるかのようであり、実際そうだと気付いた後も、それでも違和感だけが付きまとった。

 違和感の正体、それは結局、純粋に自分が彼女に惹かれていることと、ユラへの惜しみない愛情との間にあったジレンマだった。

 気付いた時には、遅すぎた……のだと思う。

 今から一年前だ。忘れもしない。

 インセクティヴォアはユラの部屋にいた。頭の中で、何かが警告を発していた。変身前の感覚にも似た、肌が泡立つような感じを受けた。しかし、怪人類は出現していないと知っていた。

 ユラと唇を合わせた。

 別に、初めてではなかったが、しかし、その時の口づけは明らかに初めてだった。何かがおかしかった。頭が痛い。何かが――?

 そして、ユラと体を重ねた時――それも初めてではなかったが、その時、全ての違和感が集まってくるのを感じた。

 愛してなどいなかったのだ――と、何かが自分に告げた。

 ユラを愛してなどいなかったのだ――と。

 ただ、抱くことの出来る女性がいればそれでよかったのだ――と。

 そして何より――自分が愛しているのはエメラルドだ――と。

 何かが自分に告げているのだが。しかし。全ての違和感の収束は――ユラが、それに気付いたことだった。

 変化はあまりにも突然だった。

 怪人類の出現ではなかった。それは、怪人類のだった。

 自分の体の下で、ユラは、怪人類へと生まれ変わった――――そして言った。

「『食虫植物』!!!!!!」

 彼女はインセクティヴォアを跳ね除けると、一糸まとわぬ姿のまま――その姿は妖精を想起させた――彼と対峙した。

「私は、お前を倒すために生まれてきた」

 衝撃が走った。ユラが自分を、インセクティヴォアとしてではなく『食虫植物』としてしか認識していなかったことに愕然とした。――確かに、彼女は、自分の正体を知っていたのだけれども。

 しかし、では、インセクティヴォアとユラという、それまで恋人同士だと思い込んでいた二人は、本当は一体何だったのだろうか?

 インセクティヴォアは変身することも出来ず、キュラルゴとしての意識も目一杯抑え込んで、ユラであった怪人類に声をかけた。

「ユラ……どうしてだ? どうしてこんなことになったんだよ!!!」

 しかし、もはや二人の間に言葉はいらなかった。良い意味でも悪い意味でもなく……それはただただ、断絶だった。

 双方とも涙を流していたが、双方とも生きるためにお互いを傷つけるしかなく――――

 …………。

 その後、インセクティヴォアの前からユラはいなくなり、怪人類デルタ・フォーティーワンが現れた。『食虫植物』になって、勝つことは出来ても、しかし彼には、その怪人類を殺すことは出来なかった。

 迷いだった。

 彼を邪魔しているものは、ただ、それだけだった。……だからこそ、デルタ・フォーティーワンが現れたという、何百回感じたかわからない信号を受けた時、しかも、どうやら彼女の決意が固まっているようだということすらわかった時、彼は動けなかった。

 どうすればいいか、わからなかった。


「いつまでも好きでいることが出来る人間なんていないんだ。人間は飽きることが出来るから進化してきたわけだしね。そんな人間に恋愛感情があること自体、無茶苦茶なことなのかもしれないぜ?」

 何故か、彼の声が耳に響いてきた。まだ、あいつになる前の、本当の彼の声が。

「そうかもしれないけど、私はそれでも幸せよ」

 自分の声だ。まだ自分になる前の、本当の自分の声だった。

「だって、今、あなたが好きだもの。それだけで、幸せなんだもの」

 穏やかな声は耳に心地良かったが、内容には虫酸が走る思いだった。

「まあ、な。別に、それでいいんだとも、俺は思ってるんだぜ」

 はにかむような声に、ズキリと彼女の心が痛む。何だろう?

 わからない。

 わからないけれども――デルタ・フォーティーワンは確信する。

 自分が本当は――本当に――インセクティヴォアを愛していた――愛していることを。屈折した気持ちが、複雑な影を生んでいるが、その実自分の純粋な気持ちは、ただ、彼を愛していることを。

 全てがおかしくなったのは一体いつだろう?

 エメラルドを紹介した時? いや、違う。彼が『食虫植物』とか何とか、自分とは違う、別次元の存在になってしまったのだと感じた時からだ。そして、彼の中にもう一人いて、その人がエメラルドを気に入っていて、インセクティヴォアはそれを自分の気持ちだとどんどん錯覚していって、どんどん自分も傷ついていって、それでも幸せだったのに、ある時彼に抱かれながら――それだけで安心できたのに――その悦びの淵で、何かが目覚めつつあるのを感じて、そして――彼が、とうとう自分ではなくエメラルドを抱いていると、心の中ではそうなのだとその何かに教えられて、衝き動かされるままに――怪人類になってしまった時からだ。

 ――取り返しは、つかなかった。

 涙が一粒、頬を伝って流れ落ちた。

 それでも……決心は揺るがなかった。


 ドアが開いた。エメラルドは振り返らなかった。

「誰?」

 とだけ訊いた。答えはなかった。ただ、静かに、開いたドアから心地良い春風が流れ込んできただけで、誰も入って来はしなかった。

 振り返った。ようやく、そこで。

 相変わらず、誰もいなかったが――

「インセクティヴォア?」

 不思議と彼女の口からはその名が零れ落ちた。彼女が今、最も信頼している者の名前だった。それは……愛や恋からではなく、彼が、ジェイドの仇討ちの最も近くにいる気がするからだった。ただそれだけなのだった。

 少なくとも、彼女はそう思っていた。

 たった……今の瞬間までは……。


 インセクティヴォアは、まだ彼だった。変身する気になれなかった。気が重かった。

 今しがた、エメラルドの家に行って来たが、彼女の部屋の前で止まってしまいドアを開けるや否や逃げて来てしまった。何を言えばいいのかわからない――

「これから、ユラを殺す」

 とでも? エメラルドは知らないのだ。ユラがすでに怪人類デルタ・フォーティーワンになっているということを。彼女はまだ、人間としてのユラと付き合いがある。

 だから、何も言えなかった。

 頭の中では怪人類の発生を知らせる警鐘が鳴り響き、『食虫植物』になって現場に直行するように命令している。

 が、彼はまだ彼だった。立ち止まっていた。わからなかった。

 自分がどうすべきか、全くわからなかった。

 一滴。雫が落ちて来た。天を見上げると、嫌になるくらいの、抜けるような青空が広がっていた。雲のない空から、もう一粒、水滴が落ちてくる。

 にわか雨だった。その不自然さに、インセクティヴォアは微笑んだ。

――――まるで、天が泣いているみたいじゃないか――――

 インセクティヴォアは、まだ、彼だった。


 デルタ・フォーティーワンは、待っていた。憎らしい敵であり、愛しい恋人でもあった、ある一人の男を待っていた。

 ――そう、彼女もまだ、彼女だったのだ。


 ――――――――

 そして、それは突然だった。



――――ておりそれはすでに使い物にならなくなっていたので彼はあきらめた。その一瞬が命取りになるだろうことは予想いや予知していたがあえてそうすることで相手の虚がつけると思ったからだ。そうしておいて彼の左手にある‘アーム’は的確に相手の喉を狙っているのだからうまくいけば勝利悪くても相討ちは間違いないのだとそれだけわかっていた。そしてそうした。相手の喉は凄まじい勢いで血を噴き出した。どうやら本当に不意をついた形となったらしい。彼はにやりと笑って間合いを取ろうとした。それは本能的に死にかけている奴ほど奥の手を持っているというのを知っていたからだが実はその時その行動はすでに遅かったのだと彼は思い知ら――――


 インセクティヴォアは、まだ彼だった。


――――たために相手の腕をそれは左だったか右だったかわからないが噛み千切ってやった。彼女はその行動によって微塵でもいいから相手に隙が出来ればいいと思いながら反撃というか追撃を繰り出そうとした。刹那その相手が全てをあきらめたように隙だらけになった。逆にそれでこちらが隙を見せてしまったらしく突然左手から腕が伸びてきてよくわからないがそうとしかいえない攻撃で自分の首がいい具合に切り裂かれるのを感じこれで死ぬのだろうと一瞬でわかった。そしてその一瞬よりも早く彼女は動いていたのだが何が一番悲しかったのかがその時ようやく落ち着いてきた頭――――


 エメラルドは、小さくため息をついた。


 考えればわかることだった。何も、『食虫植物』だけが怪人類を倒そうとしているわけではないのだから、彼女の元に『食虫植物』が来るとは限らなかったのだ。

 しかし、彼女はそれでも信じていた。

 自分の元に真っ先に向かって来るのが『食虫植物』だ、と。

 そう期待していた。


 部屋は血まみれになってしまっている。デルタ・フォーティーワンは、うつぶせに倒れてピクリとも動けなかったが、それでもまだ生きていた。

 突き破られたガラス戸からは、心地良いはずの風が流れ込んでくる。先程風と一緒に飛び込んできた敵は、今は爆発して粉々になり、部屋のあちこちに飛び散っている。彼女の、それは最後の一撃によるものだった。

 首からの出血は止まらない。おそらく自分はこのまま死ぬのだろう。

 しかし、それでも、最期に彼に会いたかった。『食虫植物』に……いや――――


 扉が開いた。しかし、デルタ・フォーティーワンにはそちらを向くだけの力も残っておらず、


 ――――インセクティヴォアに。会って


 誰かが自分のもとに走り寄って来る気配だけを感じた。誰かはわからない。

 意識が薄れていく。


 伝えたいことがあるのに。

           あるのに。

        だって、         『食虫――

                        純粋に  あなたが


 その部屋の様子は、明らかにおかしかった。インセクティヴォアには、それが、入る前からわかった。

 しかし、彼は無心で扉を開けた。目に飛び込んできたのは、ひたすらに赤だけだった。

 そんな部屋の中央にユラが、いや、デルタ・フォーティーワンが倒れている。

 インセクティヴォアは、あくまで無表情だった。その顔は、全てを受け入れたつもりで、全てを放棄した者の見せる表情だった。

 彼は、何もかもわからなくなっていたが、靴が汚れるのも構わず、血まみれのその部屋にずかずかと入り込み、デルタ・フォーティーワンに近付いた。顔の正面に回りこみ、しゃがんでその様子を窺うと、まだどうやら息があるらしいことがわかった。

 瞳が。弱々しく、もうおそらくは何も見えていないだろう彼女の青い目が、インセクティヴォアをとらえた。インセクティヴォアの中で、何かが揺らいだ。

 デルタ・フォーティーワンの頬が引き攣るようにして小さく動き、かろうじて笑みの形をとると、唇が、わずかに、動いた。


 す  き


 と、それは言っているように見えた。もしかしたら全然違うかもしれなかった。

 彼女は、ゆっくりと瞼を降ろし、それきり動かなくなった。

 インセクティヴォアは、何も考えていなかった。彼の中で、おそらく大きな何かが壊れて消えてしまったのだが、それに気付くべき者はいなかった。インセクティヴォアには、全てがわからなかった。

 しかし――涙が溢れてきた。

 頭の中の、警鐘は消えた。怪人類の消滅を意味するその知らせに、悲しんでいる自分がいた。

 どうしてなのか、よくわからなかった。

 音もなく、髪の毛の色が、徐々に変化していく。しかしそれは、変身などではなく――

 ――逃避、だった。

 インセクティヴォアの意思も意識も、キュラルゴとしての意志もなくし、ただ純粋に『人ならざる者』である『食虫植物』に、彼は逃げ込もうとしたのだ。


 そこに、エメラルドは現れた。


「結局、あなたも同じだったのね。他の人たちと同じく、歪みに隠された荒みの中で、別の生き物となってまで生き延びようとするのね……」

 エメラルドは、わかったようなわからないようなことを言いながら、インセクティヴォア……いや、『食虫植物』を睨んだ。

『食虫植物』は、警戒して一歩後退した。


「あなたも……他の人間を乗っ取って生きようとしてしまうのね……


 『食虫植物』は、小さく笑って、

「いつから気付いていたの?」

 と尋ねた。その声は紛れもなく、エメラルドの姉、今は亡きジェイドのものだった。

「ついさっき。インセクティヴォアに、姉さんの気配がかすかにダブって見えたから」

 『食虫植物』は、もう一度小さく笑った。

「別に、私は本物のジェイドじゃないわ。彼女はもう三年前に死んだんだもの。私は、キュラルゴ・ラルグの中の『J』の記憶を現実世界に投影したものに過ぎないわ」

「それでも」

 妹は唇を噛んだ。

「それでも……姉さん、あなただけは、そんなことしないと思っていた。ただでさえ苦しんでいたインセクティヴォアの中で、荒みから生まれるまま、彼を乗っ取ろうとするなんて――」

「人聞きの悪いこと言わないで。元々、あなたが悪いのよ。あなたが彼――インセクティヴォアと出会ってしまったからこそ、彼の中のキュラルゴが『J』の幻影をあなたに重ねるようになって、結局私という存在が生まれてきたんだもの」

 エメラルドは、さすがにその言葉にショックを受け、何も言えなくなった。

 『食虫植物』は、さらに続ける。

「あなたは全ての元凶よ。この、ユラという女が怪人類になったのだって、あなたのせい。あなたの姉が死んだのだって、あなたが余計な気を回してキュラルゴ・ラルグに姉の住所を教えたせい。ユラが死んでしまったのだって、あなたが彼女の正体を知りつつも、知らん振りで付き合いを続け、死の決心をつけさせるほどに彼女を追い込んだせい」

 風が吹いた。血の匂いが、舞い上がる。

「私は、『食虫植物』の中で二年間以上、いろいろなことを見て、知ってきたわ。私という存在そのものを知るに至って、私は、あなたが『全て』の中心にいるという事実に気付いたの……」

 エメラルドは呆然とした。

「あなたは一体誰なの?」


「私は――――」


「私は怪人類の首領。いや、違う。、同時に。首領は怪人類ではないのだ。我々人間なのだ。世の中の『歪み』の淵から生まれてくる英雄人種に対し、怪人類は人間の心の『荒み』の中から生まれてくる。明らかに人類より上位に立つ能力を持っている怪人が表立って行動できないのは、それを統べている首領が人類全体の集合無意識だから。強さと異形の体を得る代償として、人類による拘束を余儀なくされる。それが、怪人類の全てだ」

 エメラルドは、思わずそう口走りそうになった。全く見えていない真実が、歪みだか荒みだかわからない『姉』との対峙の中、頭に直接流れ込んでくる。

 自分も――歪んでいるの?

 自分も――荒んでいるの?

 自分がいつか、もしかしたら怪人類になるかもしれないことを知っても、不思議と恐怖はなかった。


「私は、エメラルドよ」

 彼女は、彼女だった。

 全ての元凶を名乗る気もないし、怪人類の首領であるつもりもさらさらない。

 彼女は、ただ、死んだ姉のことをいつまでも引きずり続ける、一人の女性なのだ。

 それを聞いて、インセクティヴォアの姿をし、『食虫植物』の能力を持ち、キュラルゴの中のJとして動く個体は、声をたてて笑った。

 笑いながら、

「死ぬなよ、人類」

 と、おもしろがっているような口調で言い、彼――彼女は、血の海の中に倒れこんだ。

 広がる赤の中で、エメラルドは場違いな正の感情を垣間見た。

 それは、希望かもしれない。

 それは、――かもしれない。

 もしかしたら、全てが幻想かもしれない。

 それでも、ただ今は――血の匂いを運ぶ風が、何故かひどく心地良かった。



 冷静に考えた時。

 怪人類を倒すことが出来る『食虫植物』達、英雄人種ヒーローと、その怪人類との間にどれだけの差があるだろうか?

 特殊能力を武器に戦闘を行うなど、人類に対する脅威という点だけを考えれば、両者とも、相当にタチの悪い存在である。

 ……いや。むしろ、『首領』に左右されない分だけ英雄の方が、タチが悪い――

 これは、最初から正義と悪の対立などではなかったのだ。

 心の荒んだ人間は、何かのきっかけで次々と怪人類に変わってしまう。

 歪んだ世の中は、普通の人間を何かのきっかけで次々と英雄人種に変えてしまう。

 その二者の対立に、元々理由など、ない。

 強いて言うなら、人間であることに飽きた者達の――――


 インセクティヴォアが目を覚ますと、白い天井が目に入った。見覚えの……あるようでないような光景だった。

「気がついたみたいね」

 視線を転ずると、そこにエメラルドがいた。するとここは、エメラルドの部屋ということか。

 彼は半身を起こした。妙な風に、頭が痛い。

 何かを……忘れている気がするが……思い出せない。

 第一、どうして自分はこんなところで目を覚ますのだろうか?

 それに――頭の中から何かがなくなってしまったかのような錯覚を覚える。

「何があったんだっけ?」

 とりあえず、気の利かない、わかりにくい質問をぶつけてみた。

「憶えてないの?」

 エメラルドが、驚いたように尋ね返す。

 言われて、何故か頭の中に、誰かの姿が浮かび上がってきた。おとなしそうな顔をした、二十五歳くらいの女性。こちらを向いて、安らかに笑みを浮かべている。

 ……誰だったろう?

 どうして。思い出せないんだろう……?

 困惑の表情の彼に、

「いいんじゃない。世の中には、忘れていたいこともあるものよ」

 エメラルドが笑いかけた。

 その中で、彼女の記憶の中のユラもまた、微笑んでいた。

「人間は飽きることで進化するんだもの。過去に縛られていてもしょうがないわ」

 その進化の先に――歪みと荒みが繰り広げる水面下での戦いの先に――、果たして何が待ち受けていようとも、人類はひたすら前に進み続けるしかないのだ。

 人類が人類でなくなる、その日まで――。



 窓の外の空は、今日もひたすらに、ただ蒼い。

 春はまだ、始まったばかりだ。

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歪曲英雄神話 今迫直弥 @hatohatoyama

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