第2話 前世の目覚め

 ――そんな夢を見た。



 ふと目を開いた時、レティシアの目の前に広がっていたのは一面の空だった。


 抜けるような青と、ほんのわずかの白。


 その二つが混ざり合った光景が、そこにはあった。


 まるで空に中にでも迷い込んでしまったかのようだと思いながら、瞬きを繰り返す。


 いっそこれも夢なのではないかと思ったが、そんな様子でもないようだ。


 ただ、そうして混乱していた時間は意外にも短かった。


 何気なく周囲を見回した瞬間、レティシアは現状を思い出したからである。


 ここがどこで、何があったのかを。


 ここは王都から西に一日ほど進んだ先にある、魔の大森林と呼ばれる場所だ。


 魔物が出る危険な場所ではあるが、人の手が加わらないように管理された昔ながらの森であるため、貴重な素材などが手に入る。


 レティシアが今回ここに来たのも、貴重な素材目当てであった。


 ここを管理しているのは王家であるため、普通ならば入ることは出来ないのだが、王宮に所属する薬師の一人であるレティシアならば問題はない。


 そして、危険な場所だからこそ、一人で入るのは許可されないし、特に今回は騎士団の人達も一緒であった。


 何の問題もなく、悠々と素材を取れるはずで――



「……そのはず、だったのだけれど」



 さすがにこれは、予想しろという方が無理というものだろう。


 そう呟きながら、レティシアは視線を正面に戻した。


 レティシアの視界を再び空が埋めるが、何ということはない。


 森の一部がぽっかりと空いて、空が見えているというだけのことだ。


 そして、レティシアは地面に寝そべっていて、ちょうどその部分だけが見える状態になっていたという、本当にそれだけのことだった。



「我ながら、間抜けすぎて嫌になるわね」



 ただ、自分が間抜けなだけで終わればよかったのだが、本当の問題は別にある。


 問題なのは、そもそも何故レティシアが地面に寝そべっていたのか、ということだ。


 その理由は単純で、寝そべっていたわけではなく倒れていたからで――空からこの場所へと、落下してきたからであった。


 その時のことを考えるだけで、身体が震えてくる。


 あの時は本当に、死ぬかと思った。



「……いえ、本当は、死ぬはずだったのかもしれないわね。前世の記憶が戻るなんて、ある意味死んだようなものだもの」



 前世の記憶、と自分で口に出しておきながら、苦笑が浮かぶ。


 誰かに聞かれでもしたら、正気を疑われそうな言葉だ。


 だが、事実なのだから仕方がないだろう。


 ――レティシア・エルランジェ。


 それが現在のレティシアの名前である。


 だが同時に、アリエルという名で生きていた頃の記憶も取り戻していた。


 聖女と呼ばれ、そして殺された記憶を。


 目覚める直前に夢で見ていたものこそ、それだ。


 ただ、レティシアが前世の記憶を思い出したのは、実のところ夢で見るよりも前である。


 空からこの場所に落ちてくるその途中で、不意に思い出したのだ。


 とはいえ、そのおかげでレティシアが助かったのかと言えば、実は関係がない。


 前世の記憶を取り戻そうが、空から落ちるという恐怖には勝てずに、そのまま意識を失ってしまったからである。


 ではなぜ助かったのかと言えば……正直レティシアにも分からない。


 落下の途中で枝にでも引っかかったか、あるいは、地面は腐葉土なのかふかふかなのでそのおかげか。


 運がよかった以外に考えられることはなかった。


 しかし何にせよ、今問題となるのは、どうしてレティシアが空から落ちてきたのか、ということで――



「……っ!」



 と、そこまで考えた時であった。


 頭上から、何かが羽ばたくような音が聞こえたのである。


 しかし、魔の大森林にはそのような生物は存在していないはずであった。


 魔の大森林には樹齢千年を超すような木が沢山生えており、森の上空はほぼそういった木々の枝葉で埋められている。


 また、内部に至っては他にも様々な植物が生い茂っているため、空を飛ぶような動物が生きるのには、非常に向いていない場所なのだ。


 それは魔物だろうかと変わらず……そのはず、だったのだが――



「……貴方も、意外としつこいわね。そんなことでは、異性にもてないわよ? ……まあ、貴方達の種族がどうなのかは、知らないのだけれど」



 そもそも、アレは雄なのだろうか。


 あるいは、雌の可能性もある。



(まあ、どちらだろうと、わたしには判別が付くわけもないのだけれど)



 などと、くだらないことを考えながら、レティシアは視界に割り込んできた存在を見つめる。


 空の代わりに、それだけとなってしまった存在を。


 それは、巨大な存在であった。


 森の上空にいるのだから、それなりに離れているはずなのだが、それでも大きいということが分かる。


 いや、あるいは、だからこそ、か。


 それは、身体と同じように巨大な羽を羽ばたかせながら、空を浮いていた。


 それは、赤い鱗を持ち、まるで爬虫類のような外見と四肢を持っていた。


 レティシアの知る中で、その存在を示す名は一つだけだ。



「……赤竜」



 ワイバーンのような亜種ではない、正真正銘の竜種だ。


 魔物の中でも最上位の格であり、討伐するには国中の騎士を集める必要があると言われている。


 そんなものが、レティシアの目の前にいた。


 そして、レティシアがここに墜落することになった原因となったのも、それだ。


 というか、レティシアはアレに襲われ、攫われたのである。


 貴重な素材を探していたら、この場所どころかこの国にいないはずのアレが突然現れ、レティシアを攫って飛び立ったのだ。


 しかし、何せあの巨体である。


 途中で誰かが発見したらしく、攻撃を仕掛けたようなのだ。


 そうしてその攻撃が空を飛ぶ赤竜の身体に当たったかと思えば、レティシアを掴んでいた手の力が緩み、レティシアはそのまま落下てしまった、というわけであった。


 だが、まさかそこで諦めず、再び襲撃しにくるとは、呆れたしつこさだ。


 ちなみに、レティシアがそうして冷静に現状を考えていられるのは、何か手があるからではない。


 逆だ。


 何も打てる手がないから、冷静を保ち考えることしか出来ることがないのだ。


 レティシアは確かに前世の記憶を取り戻したものの、前世のレティシア――アリエルに、魔物と戦う力は皆無であった。


 そして、今生でもそれも変わらない。


 つまり、この状況でレティシアに出来ることはないのだ。


 それなりに経験自体はあるため、何とか冷静を装うことは出来るが、それだけである。



(……どうしたものかしらね)



 騎士団の人達に期待する、というのは、さすがに酷だろう。


 今回来てもらったのは、一個中隊といったところである。


 他の魔物ならばともかく、赤竜の相手をするとなると、追い払うだけでも厳しいはずだ。


 戦ってもらっている間にレティシアが逃げることならば可能かもしれないが、さすがにそれをするつもりはない。


 かといって、もちろん諦めるつもりもないが……今ここで出来ることは、何もなさそうだ。


 攫おうとしていたことを考えれば、幸いにも、すぐにどうにかなる心配はしないでよさそうだが……。



「……まったく、わたしの何がそんなに貴方を夢中にさせるのかしらね」



 そんなことを呟いていると、レティシアに抵抗する気がないのが伝わったのか、赤竜がゆっくりと降りてきた。


 ただでさえ視界を埋めていた巨体が、さらにそれだけとなり――そして。


 その身体が、両断された。



「…………え?」



 縦に、真っ二つであった。


 あまりに突然のことに、思考が追い付かずに思わず間抜けな呟きが漏れる。


 だが、本当の驚きがやってきたのは、その直後のことであった。



「――赤竜、か。まさか、そんなものが現れるとはな」



 そんな言葉と共に、レティシアの目の前に一人の男が降り立った。


 金色の髪に、特徴的な長い耳。


 後ろを向いていたので、顔立ちや瞳の色は分からないが……見るまでもなく、レティシアには分かっていた。


 何故ならば、その声はとても覚えのあるもので――



「視察ということでついてきて、正解だったようだ」



 そう言って振り向いた姿は、やはり予想通りのものだった。


 その男は、非常に有名な男であった。


 何せ、この国の宰相である。


 知らない者の方が少ないだろう。


 だが、レティシアにとっては、別の通り名の方が馴染み深い。


 勇者パーティーの頭脳という呼ばれ方の方が。


 彼の名前は、フェリクス・フォン・エルヴェシウス。


 前世のレティシアを殺した、その相手であった。

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