ブラックコーヒー

ヤン

第1話 ブラックコーヒー

 ドアのカウベルが鳴ったので振り向くと、よく知っている人が軽く手を上げていた。


「こんにちは、中田なかたくん」

「こんにちは、桜内さくらうち先生。どうぞ、お好きな席へ」


 先生は頷くと、店の奥へ行き、椅子に腰かけた。先生はいつも窓側に座り、そこが指定席のようになっていた。

 お冷を持って行くと、先生は、口の端を少しだけ上げて微笑み、


「いつもの通り。エスプレッソ、お願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 こちらも笑顔を返して、メニューを受け取った。

 カウンターに戻ると、店長に、「いつものをお願いします」と伝えると、


「やっぱり。はいはい。今すぐ、準備します」

 ちょっとおどけたように店長が言った。


 他にお客はいなかった。空いているテーブルをいくつか拭いていると、店長から声が掛かった。


「先生、このまま飲むんだろうね、顔しかめながら。うちのコーヒー、そんなにおいしくないのかな。ツヨシ。ちょっと飲んでみてよ」

「あの…アルバイトし始めて、四年。その間に何度も飲ませて頂きました。ここのコーヒーに問題がないことはわかっています。とにかく、先生にこのコーヒーをお出ししてきます」


 先生は、テーブルの上に置いた文庫本を見ているが、読んでいる様子ではない。ぼんやりと、その辺りを見ている、という感じだ。何か考え事をしているのだろうか。


 思考を止めさせるのは気が引けたが、


「先生。お待たせ致しました。いつものです」


 声を掛けられて初めて、そこに人が立っていたことに気が付いたようで、驚いたような表情でこちらを見た。


「あ。ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」


 カウンターに戻り、トレイを置くと店長が少し近づいてきて、


「ほら。砂糖も入れずに飲んでる。苦いのが苦手なら、砂糖たっぷり入れたらいいのにな」

「店長。それではきっと意味がないんです」


 先生は、たぶん、好きでもないのにコーヒーを注文し、しかもそのまま飲んでいる。その行動には、きっと何か意味があるのだろうと考えている。


「先生さ、必ずあの席だろ。外から見えるだろ。先生、我慢して飲んでるその姿が見えるってことは、どうなんだろう」


 店長が、何だかはっきりしない言い方をする。売り上げが落ちると言いたいのだろうか。


「ツヨシ。先生って、学校でもああなのか?」


 先生は、ここから十分程行った所にある高校で教師をしており、自分が在学していた頃に赴任してきたので、習ったことがある。


「学校では全然違いますよ。かなり、テンション高いです。で、言い方は悪いかもしれないですけど、わざと生徒に嫌われるように行動しているように見えます。とにかく、あそこに座っている人とは別人のようです」


 そこまで話した時、お客が来たので笑顔を作り、「いらっっしゃいませ」と言った。席へ案内し、注文を取ったりしながらも、時々先生に目をやっていた。


 日曜日は、いつも午後の三時に来店。いつもの飲み物を注文すると、真顔のままで外を見ているか、今日のように本を読んでいるか、あるいは、手帳に何か書きつけたりしている。とにかく、しーんとして過ごしている。


 誰かをここに連れてきたことはなく、常に一人だ。学校で別人を演じている先生にとって、ここでの時間が大事なのかもしれない。しかし、大事な時間なら何故、苦手な物を注文するのか、それは謎だ。


「ツヨシ。ちょっと休憩しておいで。ほら、エスプレッソ、入れたよ」


 まださっきの話の続きをしているのだろうか。が、せっかくなので奥の部屋に行き、コーヒーを飲んだ。あえてそのまま飲んでみたが、別に味は悪くない。


 先生があんな顔をしながら飲むのは、今に始まったことではない。四年前、ここに来るようになってから、ずっとだ。味が悪ければ、他のお客から苦情がきているはずだが、そんなことは今まで一度もない。だから、味が悪いはずはない。先生の問題なのだ。


 三十分の休憩を終えて、ホールへ戻ると、先ほど来たお客はすでにおらず、先生だけが相変わらずぼんやりとした様子でそこにいた。


 が、ふっと顔を上げると外を見て、手招きを始めた。誰か知り合いでもいたのだろうか。


 珍しい先生の様子に驚いていると、カウベルが鳴った。振り向いてそちらを見ると、女の子が立っていた。先生の知り合いならば、高校の生徒だろうか。見たことのない人なので、一年生かもしれない。


「いらっっしゃいませ。お一人様ですか」

 彼女は首を振ると奥の方に目をやり、

「えっと、知り合いがあそこにいて、ちょっと挨拶を」

「ああ。そうですか。どうぞ、ごゆっくり」


 彼女が近づくと先生の表情が和らいだ。


 ここで、先生が誰かと過ごしたのを見たことはない。しかも、学校の生徒であろう彼女に対し、ここでの顔をそのまま見せている。


 先生のその姿を見ていて、ブラックコーヒーをむりやり飲むのをやめる日が来るかもしれない、と、なんとなく思った。                  (完)

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