第3話 心の岸辺に咲く

 数学の授業が終わり、カーストトップグループは早速集まり、騒ぎ出す。僕は物静かに教科書やらノートやらを鞄にしまう。これまた物静かに教室を立ち去ろうとした瞬間、隣に大きな気配を感じた。野球部の男子が橋本遥に向かっていた。


「橋本さんも補修受けてたんだね」

橋本遥は小さく俯きながら「うん」とだけ答えた。

「あのさ、橋本さんってスマホとか持ってる?」

今時スマホを持っていない方が可笑しいというのに、そんな質問をしていた。教卓前で集まっているグループは可笑しそうに笑っているのが分かった。

橋本遥は「ん?」と答えた。そうすると、グループの笑い声はより一層大きくなって、「早く聞けよ」と茶化した様子で遠くから話しかける。

「チッ」と舌打ちが聞こえた。何故か分からないが、その舌打ちは僕から聞こえたものだった。無意識だった。聞かれたかどうかは分からない。だがそんなことはどうでもいい。今はこの場から立ち去らなければならないと、本能がそう言っていた。鞄を抱えて椅子を引くと「ガガガッ」と大きな乾いた音が教室に響いた。僕はそのまま何も言わず、どこを見るわけでもなく、一直線に教室を出た。階段を降りたところで深呼吸をし、一瞬振り返ってみた。誰もいない階段をただ見上げただけだ。首筋の汗がシャツの襟にすーっと垂れた。


 昇降口に着くと音楽を聞こうとイヤホンを探した。しまった。机の中に置いてきてしまったことを思い出した。教室を出てから5分と経っていなかった。深い、深いため息が漏れた。何となく足が重かったため、図書室に寄ってから向かうことにした。図書室が空いていないことは分かっていたが、時間稼ぎの寄り道コースには図書館のある別館がベストだと考えた。

 それから教室に着くと、中は物音一つない、静かなことがドア越しに分かった。何かを僕はその時期待した。何かが何かは分からなかったが、何かを期待していることだけは、心音から感じていた。ドアを開けて入ると、そこには "誰もいなかった" 。安堵のため息をついて、机の中を確認した。イヤホンを取り出してスマホと繋ぐ。何も流れないイヤホンを付けて、窓の外を眺めてみた。「ふふっ」と心の中で笑った。すると誰かに肩をぽんぽんと叩かれた。イヤホンを付けたまま振り返った。

「なに聞いてるの?」

そこには橋本遥がいた。暑いのか、手で顔を仰ぎながら、僕を見ていた。僕はまた窓の外を眺めた。いつもの寝たふりではなく、本当に寝てしまって夢でも見ているのではないかと、そんな確認のためだった。

「なに聞いてるの?」

この質問を受けたのは2度目だ。もう一度振り返ると、そこにはいるのは確かに橋本遥だった。僕はイヤホンを付けたまま「無音」とだけ答えた。

「え?」

「え?」

こんなやり取り、どっかでしたような気がした。

「え、なに、無音って曲?」

「ううん、何も流れてない」

「なんでイヤホンしてるの?」

「何でだろう、なんとなく」

「なにそれ、可笑しいね」

そう言って橋本遥は笑った。また僕もつられて笑った。橋本遥は隣の自分の席に座った。

「どうしたの」

そう僕は聞いてみた。

「青山くん、教室にいるかなと思って来てみた」

そう言う橋本遥の顔を見ることが出来なかった。ただ「そっか」とだけ答えた。

「ねえ」

橋本遥は僕の顔を覗き込むように聞いてきた。

「青山くんって、何か部活とかやってるの?」

「帰宅部」

とだけ答えた。

「部活内容は?」

「直帰。たまに本屋。たまに自販機。たまにスーパー」

「へえ。そうなんだ。」

橋本遥は興味無さそうな返事をしてきた。


それから数秒沈黙が続き、帰ろうと立ち上がった。それから橋本遥も立ち上がって一緒に教室を出た。昇降口で靴に履き替える。

「それじゃ」と言って僕は帰ろうと歩き出した。すると橋本遥は小走りで僕の横に並んで一緒に歩き出した。僕は校門の先のT字路を左に曲がる。橋本遥も同じように左に曲がってまた僕の横に並ぶ。

「橋本さんって、帰り道こっちなんだ」

どこまで一緒の帰り道か分からなかったから、話しかけてみた。

「ううん、あそこのT字路を左に曲がって駅に向かう」

「今日は寄り道?」

「ううん。部活」

その時、初めて部活動に入っていることを知った。少し驚いた。

「部活、何してるの?」

「マネージャー」

「へえ。なんのマネージャー?」

橋本遥は小走りで僕の少し前を歩き、僕の方を振り返って立ち止まった。

「帰宅部のマネージャー!今日から私、青山くんと同じ部活!」

そう言う橋本遥は満面の笑みだった。

「だから、今日は青山くんと一緒に本屋さんに行きます!」

そう言って、橋本遥は僕の方に向かってきた。

一歩、二歩と橋本遥が僕に近づく。時がゆっくり流れる。首筋の汗が鎖骨に垂れる。そこにいるのは、芸能人の橋本遥ではなく、僕と同じ高校に通う、同じ高校生だった。

「ねえ、行こう!」

橋本遥はくるっと回り、背負ったリュックを僕の肘にちょこんと当ててきた。その小さな衝撃で、僕の何かが大きく動いた気がした。

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