第19話 「告別」

 賢治には「告別」という詩があります(全文は「宮沢賢治の詩の世界」https://ihatov.cc/haru_2/191_d.htm)。

 この年度かぎりで学校を去る音楽教師が、その弟子に語る、という設定で書かれた詩です(引用は新かなづかい表記に直し、ふりがなを振りました)。


   おまえのバスの三連音が

   どんなぐあいに鳴っていたかを

   おそらくおまえはわかっていまい

   その純朴さのぞみに充ちたたのしさは

   ほとんどおれを草葉くさばのようにふるわせた

   もしもおまえがそれらの音の特性や

   立派な無数の順列を

   はっきり知って自由にいつでも使えるならば

   おまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろう


 「おまえ」と呼ばれるその弟子はそれほどの天才なのですが、それでも、この教師が学校を去ったあと、数々の苦難に襲われることを予言します。

 「おまえ」がもしその苦難に勝てず、妥協してしまったら?


   そのあとでおまえのいまのちからがにぶり

   きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

   ふたたび回復できないならば

   おれはおまえをもう見ない

   なぜならおれは

   すこしぐらいの仕事ができて

   そいつに腰をかけてるような

   そんな多数をいちばんいやにおもうのだ


 もちろん、この詩の「おまえ」をゴーシュと同じような人物だと読まなければならない、という必然はどこにもありません。書かれた年代も離れています。

 しかし、これを書いた賢治が、「ダメ演奏家」から奇跡をとおしてその才能を目覚めさせたゴーシュが「すこしぐらいの仕事ができて そいつに腰をかけてるような そんな多数」の一員になってハッピーエンド、という結末を喜んで書くかどうか?

 かといって、ゴーシュの属するオーケストラが「そんな多数」ではなく天才の集団かというと、そうではない。名門ではあるらしいのですが、実際にはしろうと楽団(「金沓かなぐつ鍛冶かじだの砂糖屋の丁稚でっちなんかの寄りあつまり」。金沓は馬の蹄鉄ていてつのことでしょう)に追いつかれてバカにされるのではないかと恐れているような凡庸な楽団として設定されています。

 凡庸なオーケストラの「そんな多数」とはまったく違う境地にゴーシュは行ってしまった。

 だから、奇跡を経験してその天才に目覚めた後も、ゴーシュは、オーケストラの他のメンバーや観客に「ばかにされている」というコンプレックスを抱えたまま、相変わらず孤独だ、と見るのです。

 「ダメ演奏家」だから孤独だ、という境遇から、天才だから孤独だという境遇へ。

 それが天沢さんの読み解きかたでした。

 「小さい笑い」というのは賢治の他の作品にも出て来て、そのばあい、主人公が「さとり」の段階をひとつ上がったサイン、あるいは、それまでとらわれていた何かから解放されたサインのように使われています(「よだかの星」、「土神と狐」)。それとは使われている場面の状況が違うので、ゴーシュの「ちょっと」の笑いをそれと同じととらえることはできるかどうかは議論になるところだと思います。でも、賢治の「小さい笑い」のサインを読み解いた天沢さんにとっては、この「ちょっと」の笑いを「大笑い」に変更することなど絶対にあり得なかったのです。

 その「小さい笑い」の意味するものを読み解いたこと――。

 それが、校本全集の作業をとおして、賢治の作品が成立していく過程を追体験したことで天沢さんが到達した「宮沢賢治の彼方」ではないか。

 私はそう思います。

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