第18話 さあ、どっち?
それでいい、というのが、たぶん、高畑さんの解釈です。
自分にとっては特別なできごとでも、それは、多くの人びとの共同作業のなかではべつに特別ではない。一人ひとりがそういう「自分にとっての特別なできごと」を通じて、共同作業の一人前のメンバーになっていく。
それは、やっぱり、高畑さんがアニメ制作現場で感じてきた「真実」なのだろうと思います。
絵が描けた。たんに絵が描けただけではなく、他人が描いた原画の絵に似せて描けて、それを自然に動かせた。アニメーター一人ひとりの成長の過程では、それは奇跡的な経験でしょう。
しかし、共同作業でアニメ作品を作って行くとすれば、絵が描けてそれを自然に動かせることは、アニメ作りのスタートラインに立てた、ということであって、それ以上のすごいアニメーターになった、ということではありません。原画を任され、さらに作画監督やキャラクターデザイン、演出を任されるようなアニメーターになっていけるかどうかは、そこからさらに先の話なのです。
だから、ゴーシュも、奇跡を経験して、みんなと同じスタートラインに立てました、で、いい。それで物語は成立している。
高畑さんの考えはそういうものだったのだろうと思います。
一方の天沢さんはそうは考えませんでした。
奇跡を経験したゴーシュが「他のメンバーと同じスタートラインに立てただけ」なんてことはあり得ない。
ゴーシュは、その奇跡を経験したために、演奏家として、他のオーケストラメンバーとはまったく違う境地に行ってしまった。その境地のことを、他のメンバーはもちろん、指揮者すら理解できない。だから、ハッピーエンドに見えるけれども、ゴーシュは音楽家としてやっぱり孤独なのだ。その孤独から逃れることができないまま、ゴーシュはこのあとも音楽家として生きて行かなければいけない。
さあ……。
……どっちでしょう?
とりあえず、卑怯な結論を出しておきましょう。
「どっちも正解」。
どちらの捉えかたをしても真実として成り立つから、「セロ弾きのゴーシュ」という作品はやはり名作だ。
うーむ……。
それはそうだと思うのです。
高畑さんはその解釈で一本のアニメ映画を成立させたわけです。最初からハズレの解釈ならば、原作をなぞって映画にしても破綻してしまったでしょうが、そうはなっていません。
また、一般的にも、いまでも「セロ弾きのゴーシュ」は青年演奏家の成長物語としてとらえられています。
それは認めます。その見かたをまちがいだとはまったく思いません。
でも、私は、天沢さんの解釈にも強い魅力を感じるのです。
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