第17話 奇跡を経験して、それで?

 天沢さんは、ゴーシュはここは「すこし」笑うはずで大笑いはしない、大笑いしてしまうと「セロ弾きのゴーシュ」という作品は成り立たなくなる、と批判しました。この批判に高畑さんも反発し、しばらく、天沢さんと高畑さんの関係は冷たいものになった、と、高畑さんは語っておられました。

 というか、もともとお知り合いどうしだったのですね。

 宮沢賢治全集(当時の)新ヴァージョンの編集者と『アルプスの少女ハイジ』の監督が、賢治が結ぶ縁で知り合い、というのも、すごい話ですが。

 それはともかく。

 ここでの天沢さんの批判は、たんに「原作と違う」というだけのものではありませんでした。

 そこに「セロ弾きのゴーシュ」の本質的な理解の違いを見出したのです。

 では、その「笑い」の場面を変更した高畑さんの理解が、一般的な「セロ弾きのゴーシュ」の理解と違っていたか、というと、そんなことはありません。

 むしろ「青年音楽家の成長物語」という高畑さんの解釈のほうが普通でしょう。現在でも「セロ弾きのゴーシュ」はそういう物語として理解されることが多いと思います。

 その方向を徹底したら、ここは「ちょっと」の笑いでは収まらないだろう、というのが、高畑さんの解釈であり、演出でした。そのゴーシュの一途さと、その笑いの「控えめさ」がどうにも整合しない。だから大笑いに変更した。

 それは、高畑さんらしく、時間をかけて考え抜いて出して結論だったのだと思います(とにかく時間をかける演出家でした!)。また、だからこそ、高畑さんは、天沢さんにそこを批判されて納得せず、大いに怒ったわけです。

 では、その、批判した側の天沢さんは、「セロ弾きのゴーシュ」をどういう物語だと考えていたのでしょう?

 ここで、「セロ弾きのゴーシュ」の物語を、もういちど考えてみます。

 下手で、オーケストラのほかのメンバーの足を引っぱり、指揮者(「楽長」)に指摘されても反論することもできず、内にこもってしまう奏者が、動物たちとの交流というできごとで奏者として成長する。

 動物たちと交流する、というのは、この物語の世界のなかでも、だれにでも起こることではなく、ゴーシュにしか起こらなかったことです。つまり奇跡だったと言っていい。

 その奇跡を経験して、それで?

 たしかに褒められはしていますが、オーケストラの足を引っぱるようなメンバーではなくなった、というだけの成長で……。

 ようやく、オーケストラのチェリストとしては、ほかの先輩奏者と同じスタートラインに立てた。

 「一人前のオーケストラメンバーになりました。終わり」……。

 それでいいのか?

 奇跡を経験しているのに?

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