第16話 「セロ弾きのゴーシュ」論争
校本全集で、他の編集者たちといっしょにそこまで精緻な作業を行った天沢退二郎さんは、また、たしかに「宮沢賢治の彼方」へ行こうとしました。つまり、世のなかや研究者のあいだで多く語られている宮沢賢治とは違う、別の面、新しい面を見つけ出そうとしました。
それが表れた一つの例として、アニメ演出家・映画監督の高畑勲さんとのあいだでの「セロ弾きのゴーシュ」をめぐる考えの違いを挙げられると思います。
明確な「論争」と言えるかどうかわかりませんが、ここでは仮に「セロ弾きのゴーシュ」論争と呼んでおきます。
高畑勲さんは、テレビシリーズ『赤毛のアン』や『じゃりン子チエ』の監督のかたわら、アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』をつくっていました……って、高畑勲が『じゃりン子チエ』の監督(テレビシリーズはチーフディレクター)をしたということをいま覚えているひと、どれくらいいるかな?
高畑さんは、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を、青年の成長物語としてとらえて映画を作りました。自分に自信がないために技術も向上せず、オーケストラのなかでも孤立しているチェロ奏者(「セロ」はチェロのこと)のゴーシュが、動物たちとの交流を経て一人前のチェロ奏者へと成長していく、というストーリーを描いたのです。
この物語の動物たちとの交流はあたたかいふれあいとは限りません。(読書の楽しみを奪うといけないので、あまり詳しくは書きませんが)なまいきな相手にバカにされたり、ゴーシュが怒っていたずらを仕掛けたり、相手のペースに巻きこまれて、巻きこまれたことに気づいたゴーシュが激怒したり、という、厳しい、ときにはぎりぎりのやり取りも含まれています。
もしかすると、高畑さんは、未熟なアニメスタッフが、先輩たちとの激しいやり取りのなかで成長していく姿を、そのゴーシュの姿に重ねたのかも知れません。
でも、もちろんそれだけではなく、もともと原作の「セロ弾きのゴーシュ」がそう読まれてきたのです。
その物語をアニメ化するとき、「未熟で内向きで自信がなかった青年チェロ奏者」が自分を解き放つきっかけとして、高畑さんが原作の描写を変更して演出した場面があります。
それは、最初の夜、猫が訪ねて来た夜のエピソードです。
猫は、偉そうなうえに、ゴーシュの畑から盗んだ作物をお土産だと言って持って来る。さらに「トロイメライ」をリクエストするのに曲名をまちがって覚えている。ゴーシュはこの超ずーずーしい猫に腹を立て、「インドの虎狩り」という破壊的な曲を演奏して猫を懲らしめます。
この「インドの虎狩り」は、奏者自身が耳栓をしないと演奏できないような曲という描写がありますが、どういうふうに破壊的なのかはよくわかりません。タイトルのモデルになった曲はあるらしいのですが、その曲そのものではないようです。この「インドの虎狩り」をどんな曲として描くかが、映画化・舞台化や音源化するときに音楽担当の腕の見せどころなのですが。
それはともかく。
この曲を聴かされた猫はほうほうのていで逃げて行きます。
そのとき、宮沢賢治の原作では、ゴーシュはここで「ちょっと」だけ笑う。
ところが、高畑さんはここを「大笑い」に変更したのです。
自信を持てなかった未熟な奏者が、居直れた瞬間、とでも言うのでしょうか?
未熟で下手ならそれでもいい、なまいきな猫にあれだけの衝撃を与えられるパンチのある演奏はできたじゃないか、と、自分を肯定できた瞬間?
それを、高畑さんはこの「大笑い」で表現しました。
ところが、この演出に当惑し、異論を発表したのが天沢退二郎さんでした。
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