第13話 校本全集で明らかになったこと

 とくに、校本全集によって「作品の成立過程」がかなりの程度まで明らかになったことの意味は大きい。

 先にも触れたとおり、校本全集系の全集は、いま残されている作品のどの段階が(あるいは、どの部分が)どの時期に書かれたか、ということを、わかるかぎり掲出しています。最終形になるまでの途中でいちおうまとまった形になっていたら、その形も掲出しています。

 それだけではなく、賢治が書いてすぐに消したボツ部分まで掲載しています。「この部分はこう直そうとしたが、直すのをやめた」、「この部分はこう書き換えようとしたが、不採用にした」ということが、校本全集にはすべて記載してあります(同じ系統の新修全集やちくま文庫版全集はそこまでは掲載していません)。

 さらに、全文を消しゴムで消してあった文章も読み取って復元して掲載しています。

 校本より前の全集でも、「異稿」などとして中途段階の原稿が活字化して掲載されている例はありましたが、ここまで徹底したものではありませんでした。

 これによって、賢治の原稿を見ることができないひとでも、「この作品はこういう過程で成立した」ということがかなりわかるようになりました。

 たとえば、「銀河鉄道の夜」だと、「午後(后)の授業」から「家」までのエピソードは最後の「手入れ」で書き加えられたものであること、逆にブルカニロ博士はじつは最後のヴァージョンでは削除された人物であったことなどが明らかになりました。

 また、途中で列車に乗ってくる「姉と弟と青年」のグループは、もともと「姉」が複数だったのが、後に(「第二次稿」から「第三次稿」への改稿の過程で)姉が一人という設定に書き直された、ということも明らかになりました。

 ところが、賢治の「直し」は不徹底なまま終わっていて、原稿には一部に「姉が複数」という設定で書かれた部分が残っています。だから、原稿をそのまま本文に採用すると、姉が一人という設定の部分と複数という設定の部分が混じってしまいます(谷川版はそうなっています)。校本全集ではこれを「姉が一人」という設定に合わせて改訂し、姉が複数であるという設定で書かれた記述を削除しています。

 そうやって明らかにされた「銀河鉄道の夜」の「直し」の特徴を、他の童話(「ひのきとひなげし」、「まなづるとダァリア」など。「ダァリア」はダリアで、英語の綴りdahliaに忠実な表現)の「直し」過程などと照らし合わせると、賢治は、最晩年になって、作品を自ら意義づけるような表現を削り、かわりに読者の想像をふくらませるような記述を加える傾向があったこともわかりました。

 また、校本全集の編集作業で、消しゴムですべて抹消されていた「薤露青かいろせい」という詩の草稿が判読されました。この作品は、一九二二年に亡くなった妹とし子(宮沢トシ)への思いとともに、プリオシンコースト(プリオシン海岸)、南十字、さそりの星など「銀河鉄道の夜」につながる描写を含んでいます。

 とし子が亡くなったことについて、賢治は「永訣えいけつの朝」を初めとする何篇もの詩を作っています。その、とし子との別れをうたった詩群と「銀河鉄道の夜」とをつなぐ詩の姿が、校本全集の編集を通じて明らかにされたのです。

 だいたい、校本全集があるからこそ、私もこんな文章が書けているわけで。

 私のような、文学の専門家でも賢治研究の専門家でもないひとが、「「銀河鉄道の夜」の「第三次稿」では……」とか「「第四次稿は」……」とか書くことができる。それはひとえに校本全集が「銀河鉄道の夜」の「第一次稿」から「第四次稿」の各段階を確定してくれたからです。

 私は宮沢賢治記念館が刊行した原稿コピーも参照していますが、これだって、校本全集を見て「じゃあ、もとの原稿はどんなものだろう? いちど見てみたい」と思うひとが一定数いたから企画され、刊行されたものでしょう。

 もっとも、それによって「賢治作品の研究とは、作品の成立過程を研究すること」という面が過度に強調されてしまった、ということもあります。

 でも、校本全集の登場によって賢治研究がいろいろな面で深まりを見せたのも確かなのです。

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