コーヒー一杯二千円

尾八原ジュージ

それはなかなか頼まないよ

「それが二千円もするの」

「一杯で?」

「そう、一杯で!」

 坂井さんは大真面目な顔で言った。後頭部のポニーテールが、彼女がうなずくのに合わせてぴょんと揺れた。

 冬の寒い日だった。ぼくも坂井さんもマフラーをぐるぐる巻きにし、大学構内の駐輪場を目指して並んで歩いていた。

 その頃のぼくたちにとって、「コーヒー一杯二千円」というのは確かに事件だった。当時ぼくたちはまだ大学生で、おまけに実験とレポートの締切に追われてアルバイトができず、したがって常に金欠だった。だから一杯二千円のコーヒーというのは大事件なのだ。

 坂井さんは豆がどうの抽出時間がどうのと早口でまくし立てたが、正直あまり頭に入ってこなかった。ただただ「一杯二千円かぁ」と思うばかりだった。

 坂井さんは金欠のくせに自宅にコーヒーメーカーを持つコーヒー好きだ。理学棟の自販機の前で知り合ったぼくらには「コーヒー党」という極めてゆるいつながりしかなく、しかしそれは不思議と二年近くも続いていた。彼女はぼくが買うコーヒーのメーカーを覚えていて、たまに「だんな、今日は理学棟のやつ売り切れですぜ」などと裏情報の体で教えてくれるので、ぼくはそれを大袈裟に嘆いてみせた。バカバカしいやりとりだが、学業の合間にどうでもいい話ができる相手というのは貴重だった。

「二千円か……なんか味がわかんなくなりそうだな。これが二千円かぁとか考えちゃって」

 ぼくがそう言うと、坂井さんは笑って「わかる」と言った。

「じゃあ就職して、自由に使えるお金が増えたら飲みにいこうか」

「ぼくと?」

「そりゃそうよ。我々は理学部コーヒー党だからして」

「うんまぁ、党員はふたりだけだからね」

 ぼくたちは顔を見合わせて笑った。坂井さんの小さな唇から白い息が漏れた。

「じゃあ約束ね。就職したら、一杯二千円のコーヒーを一緒に飲みにいこう」

「よしきた」

「まぁ先に就職できるかどうかだけどね」

「それを言うな」

 まぁ坂井さんは大丈夫だろうな、とぼくは心の中で思った。真面目で頭がよくて見た目もかわいらしい彼女なら、どこに行っても好印象を与えるだろう。心配なのはぼくの方だな――と思ったその日、ぼくは彼女の未来がどうなるかなんてちっとも知らなかった。知る由もなかったのだ。


「私、休学して地元帰ることにした」

 坂井さんが突然ぼくにそう告げたのは、理学棟の自販機の群れの前だった。四年生になる直前のことだった。

 何を言われたのかわからなかった。数秒のフリーズを経て、「なんで?」と聞き返したぼくの声はたぶん震えていたと思う。

「ちょっと母が病気して。てか元々持病があってさ。実家自営だし、じいちゃん介護必要だし、なんやかんや大変で」

「あの……休学ってことは、戻ってくるんだよね」

「まぁ、その予定」

 坂井さんはそう言って手に持っていた缶コーヒーを飲み干し、「ねぇ、わたしたち卒業して就職したら、一緒に高いコーヒー飲む約束したよね?」と問いかけてきた。

「――うん、した」

 ぼくはそう答えた。坂井さんも「うん」とうなずいた。空き缶を握り締めた手が震えている。彼女は続けて「あのさ」と何か言おうとしたが、声がひどく震えていた。大丈夫? と声をかけると、坂井さんは突然「悔しい」と呟いて泣き始めた。

「もう決めたからしょうがないけどさぁ、悔しいなぁ」

 わかる、と言って、ぼくは手元の缶に視線を落とした。それ以上何と言ったらいいのかわからない自分が心底情けなく見えた。


 坂井さんには内緒だけど、実はぼく、コーヒーはあまり好きじゃないのだ。

 最初に会った日に「ぼくもコーヒー好きでさ」なんて嘘をついたのは、缶コーヒーを飲む坂井さんが見るからに可愛くて素敵な女の子で、ちょっとでも共通点を作りたくて必死だったからなのだ。

 でも本当は好きじゃない。実際、坂井さんがいないときはコーヒーは飲まない。どんなにお金があったとしても、ぼく一人ではたぶん、二千円のコーヒーなんて飲まないだろう。


 四月、坂井さんはもう理学棟にいなかった。

 連絡はとりあっていたけれど、そのうち彼女からの返信が遅くなり、ぼくも何を口実に連絡したらいいのかわからなくなって、自然とやりとりは消滅してしまった。結局退学することになったと聞いたのは彼女からではなく、人づてだった。

 卒業して社会人になると、確かに自由に使えるお金は増えた。それなりに高いものを食べたりもしたけれど、一杯二千円のコーヒーを飲んだことは未だにない。意味がないからだ。ぼくにとってそれは、坂井さんと二人で飲むのでなければ。

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コーヒー一杯二千円 尾八原ジュージ @zi-yon

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