最終話 それぞれのこと

 

 カルディン村の温泉水で作った化粧水は大いに売れた。

 イーサンの商会お抱えの薬剤師により、温泉水の効果がより高められ、持ちの良い理想的な化粧水の開発が実現した。

 また毎日手に取るだけで気分が上向く美しいガラス製の容器と、詰め替え式の経済的な手法により貴族から庶民にまで広く普及することとなった。

 当初は湯量の関係から限られた数での販売をしていたが、初めて行う本格的な調査により新たな源泉が発見され、国中の多くの女性の手に渡ることとなった。


 マーサはブロイルズの名前を使う代わりにフリージアの花をラベルに描き、カルディン村の化粧水は「フレシア」という名で親しまれることとなった。

 ネイトが開発したアンプルもその有用性が注目され、主に医薬品の容器として広く使用されることとなった。


 高まる需要に対応するため、マーサは自身を代表とした商会を設立することとなる。

 名をシープネル商会という。

 シープネルは、ネイトの姓である。


 マーサはカルディン村にやってきてからおよそ1年半、ついにネイトへと告白の返事をしたのであった。

 その時のネイトの喜びようは凄まじく、最早村を挙げてのお祝いとなった。

 マーサは羞恥から部屋に引きこもってしまい、ネイトが慌てて部屋の扉の前で謝罪するという一幕もあった。


 そして2人は結婚した。

 マーサがネイトに返事をした時には、既に2人の意思は固まっていた。

 これもまたカルディン村総出でのお祝いとなり、村人たちに囲まれて、2人は笑顔を絶やすことはなかった。






 コックロイルズから取引を打ち切られてからしばらくした頃、カートン商会からコックロイルズの不義理を改める形で商談を持ちかけられた。

 しかしマーサたちはそれを断っていた。

 明らかに足元を見たカートン商会ばかりに有利な契約条件に、否を出したのである。

 まだ化粧水事業が公にされていない時期であり、先行きの見えないはずのカルディン村にまさか断られるとは思っていなかったエイベルは、盛大に臍を噛んだ。






 アマンダは予定日より1ヶ月ほど早く、元気な男の子を産んだ。


 金を積んで医師に早産だと診断させ誤魔化していたが、その子はライルとは似ても似つかない黒髪で、明らかにライルと血の繋がりは感じられなかった。

 後に、カートン商会の営業に赤子とよく似ている男がいることが発覚する。

 事実関係を確認し、ライルとの親子関係がない可能性が高いと教会に判断されれば、5年の時を待たずに離婚することが出来る。

 ライルが客観的な証拠を集めて教会に提出し、アマンダとの離婚が成立したのは、赤子が生まれてから既に1年半が過ぎていた。

 アマンダはその後、商会の営業の男と再婚したが、あまり上手くはいっていないようだった。






 ジョセフは真面目にカートン商会の一職員として働いている。

 平凡ではあるが、一つ一つ着実に進める仕事ぶりが評価されている。

 両手に収まる量の仕事ならば、大きな問題もないだろう。

 彼はしばしば王都の外れにある墓地へと足を運んでいたが、ある時ぱたりと行かなくなってしまった。

 マーサが両親の墓をカルディン村に移したのである。

 ジョセフはそれから、自室にもフリージアの花を飾るようになった。

 妻の形見のペンダントをその花の横に置き、何事か話しかけている姿が見られた。






 ライルも、カートン商会で細々と事務の仕事を続けている。


 ライルはすぐにでもカルディン村に行こうとした。

 最早本能でマーサを求めていた。

 しかしその度、ネイトへ向けたあのマーサの笑顔が頭にちらついた。

 あの笑顔が、皮肉にもライルの理性を呼び戻した。

 アマンダのこと、エイベルとの契約条件のことを考えれば、今は行けるはずもない。

 アマンダと離婚が成立するまでの辛抱だと、ライルは必死に耐えた。


 ようやくアマンダとの離婚が成立した時、

 ライルは、ついにカルディン村へと向かった。

 やっとマーサに会えると、ライルは浮き足立っていた。

 最後に見たマーサは美しかった。

 あの笑顔が自分に向けられることを何度も夢見た。

 まずはとにかく謝罪して、許してもらえるまで謝り続け、そしてまた一から関係を作ろう。

 きっとまだ間に合う。きっと、まだやり直せる。

 ライルはそう信じていた。


 ライルはカルディン村に着くと、逸る気持ちを抑えながら工房へと向かった。


 そして見てしまった。


 少し大きくなったお腹をさすりながら、ネイトと微笑み合っているマーサを。

 ネイトはマーサのお腹に口を付け、何か話しかけている。

 マーサは驚くほど美しい微笑みを湛えていた。


 分かっていた。本当は知っていた。

 もうとっくに手遅れだった。

 トルマリンの指輪を失くしたあの時から。

 ただ自分にまだ間に合うと言い聞かせていただけだ。

 そう信じていないと、自分という存在が崩れてしまいそうだったから。


 ライルはそのまま、放心状態でカルディン村を後にした。

 どうやって王都に辿り着いたのかも分からなかった。



 それから、ライルは巷で話題のフレシアという化粧水を買い求めては、使用せず自室に並べている。

 思い出すのはマーサの笑顔ばかりだ。

 あんなに心を震わせたマーサの泣き顔は、もう霞んであまり思い出すことが出来ない。

 ライルはただ後悔の海の中に漂いながら、1人生涯を過ごしたのであった。


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後悔先に立たずというけれど 九重ツクモ @9stack_99

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