第6話 ジョセフ、そしてライルのこと①
マーサがコックス家に嫁いできた当初、ジョセフはゆっくり時間をかけて商会の仕事を教えて行くつもりだった。
友人であった自分ですらこんなにも落ち込んでいるのに、たった16歳の少女が一度に両親を亡くし、その悲しみはどれほどだろうと同情していた。
マーサには、まずは悲しみを癒す時間が必要だと思った。
ライルがマーサとの結婚の許しをもらいに来た時、確かに誓ったはずなのだ。
幼い頃からマーサを見てきたこともあって、まるで我が子のように愛情を注いでいた自負があった。
かつてジョセフの妻が亡くなった時、友人も、その妻も、ジョセフとライルを気遣い心配してくれた。
あの心優しい2人の忘れ形見だ。
ジョセフは常に身に付けている妻のペンダントを握り締めて、誓った。
これからは2人の分まで、ライルと共にこの少女を愛していこうと。
それからマーサの希望もあって、少しずつマーサに業務を教えることになった。
ライルもまだ人に教えられるほど経験を積んだ訳ではなく、ブロイルズ商会の方の業務を引き継いでいくにあたり少しでも知識のあるマーサが覚えた方がいいだろうと考え、ジョセフ自らマーサに付くことになった。
しかしジョセフはマーサの吸収の早さに舌を巻いた。きっとマーサの父から既に色々学んでいたのだろう。
正直、たった16歳の少女にここまでのことが出来るとは思っていなかった。
実践を積んでいけば、近いうちにライルを超える才覚を発揮するだろう。
(さすがは、彼の娘ということか)
ジョセフは恐怖にも似た感慨を覚えた。
幼い頃から商会の仕事を担い、それが全てだと思っていた自分の前に現れた、田舎臭い男。
自分が教えているつもりで、いつの間にか自分の遥か前を歩いていたあの男。
決して憎んではいなかった。
多少妬みもしたが、いっそあの男の才能は清々しかった。
人当たりのいいあの男に、たしかに自分は友情を感じていたのだ。
だが、この娘は……。
これまでただ庇護の対象であったはずのこの少女は、きっと自分を超えていく。
ジョセフの庇護など必要ない。
今ジョセフを頼りにしているのは、まだマーサが自分の力を分かっていないだけだ。
自分はこの娘の背中まで、遠くに見なければいけないのか。
幼い頃から、商人になるのだと言われてきた。
歴史あるこのコックス商会を背負って生きていくのだと、そう言われて生きてきた。
けれど現実はどうだ。
たった16の娘にすら敵わない。
自分が今までやってきたことは、一体なんだったのか……。
虚しさがジョセフの胸に広がった。
それは暗澹たる澱みとなり、ジョセフを支配する。
澱みが完全に全身に渡った時、ジョセフは自分の何かが変わったことを自覚した。
マーサを、コックス家の嫁として、ただの自分の友人の忘れ形見として見られなくなった。
今は亡き友人には抱き得なかった、もしかしたら本来は彼に抱くはずだった感情が、マーサに対して溢れ出てきた。
それは妬みであり、憎しみであり、絶望だった。
(お前がやった方が全て上手くいくのだろう、マーサ……)
そこからだ。
ジョセフは徐々にマーサにあらゆる仕事をやらせるようになった。
いきなり全部押し付けてはマーサも拒絶するかもしれない。
少しずつ少しずつ、マーサにも分からない程にゆっくりと。
淀みはジョセフを狡猾にした。
もしかしたら元からあった性質を引き摺り出しただけかもしれない。
ジョセフは最早、澱みに支配され、自分で自分がコントロール出来ていないことにすら気付いていなかった。
ジョセフはマーサに商会を任せるようになると、旅に出るようになった。
最初は近場のすぐ帰って来られる場所に、そして徐々に各地を放浪するように。
ライルの様に酒に溺れることは出来なかった。
コックス商会の会頭として、周囲から後ろ指を指される姿は見せられないと言う昔からの刷り込みがあってのことだった。
旅をする内、段々と、少しずつ、自分のことを客観的に見られるようになった。
するとそれに比例して、罪悪感が他の感情を上回る様になっていた。
そして罪悪感を感じれば感じる程、帰れなくなっていった。
(今更どうしたらいい。今更、どうやってマーサと向き合ったらいい。息子はずっとマーサのことが好きだった。マーサも憎からず思っていたはずだ。そんな2人の間を引き裂いたのは、間違いなく私だ……)
元々ジョセフは悪辣な人間ではない。
最初の数年は自分の中の澱みに支配され、そしてそれと同じだけの時間を罪悪感に支配されて、ジョセフはコックロイルズから遠ざかった。
ジョセフは罪の意識に雁字搦めにされながらも、どうにか王都に戻ってきた。
そして街中で、信じられない話を聞いたのだった。
(ライルが不倫をして……マーサと離婚……!?)
ジョセフがようやく事態を知ったのは、マーサが出て行ってから3ヶ月経った頃だった。
慌ててコックロイルズ商会の会頭執務室に駆け込んだジョセフの目に飛び込んできたのは、鬼気迫る様子で仕事をこなすライルの姿だった。
ライルは最初驚きジョセフに目をやったものの、すぐに書類に目を戻してペンを走らせながら言った。
「今更戻ってきて何の用だよ、父さん」
「ライル……本当なのか。マーサと離婚したというのは」
「してない!」
ジョセフが言い終わるのを待たずに、ライルは叫んだ。
「離婚届はまだ出してない! だからまだ離婚してないんだ! くそっ!」
ライルは机をドンッと拳で叩いて唸った。
左手の薬指には、指輪がはめられている。
マーサは自分が出て行ってすぐに離婚届が出されたと思っていたが、実際はずっとライルの自室の机の抽斗にしまってあった。
あれからずっと、ライルはマーサのことを探している。
しかし見つからないのだ。
カルディン村は真っ先に思い浮かんだが、女性が1人で行くには遠すぎる。
商談のために向かう時は商会の馬車を使うが、それでも2週間以上かかる距離だ。
自力で行こうとするなら、貸馬車を貸し切る必要がある。
そうでなければ辻馬車を乗り継がなければならないが、辻馬車が走らない区間もある。
また途中山賊が出る箇所もあるため、通常なら護衛を付けることになる。
しかし王都の全ての貸馬車屋や護衛斡旋所を調べても、マーサが利用した形跡はなかったのだ。
当然、辻馬車の御者たちにも話を聞いたが、辻馬車はあまりに多くの人間が使うため、何の手がかりも得られなかった。
それに1ヶ月前、事情を伏せてカルディングラスの工房にマーサの所在を尋ねる手紙を出したが、こちらには来ていないという返事が返ってきたのだった。
そう、実はアンナはライルから手紙を受け取っていたが、今更何の用だと怒り、マーサには言わずに返事を出していたのだった。
本当なら自分で国中探し回りたかったが、商会の仕事がそうさせてくれなかった。
今ライルまで離れてしまっては、商会が立ち行かなくなることは明白だった。
すると、カチャリと音がして、執務室に誰か入ってきた。
ライルの様子に唖然としていたジョセフが扉の方を見ると、見覚えのない金髪の女性が目に入った。
「出したわよ」
「え……? 何がだ、アマンダ」
「出したわよ、離婚届。あなたがいつまでも出さないで抽斗にしまってるから、私が代わりに出しといてあげたの。感謝してよね」
「そ、そんな……! 何てことだ……」
ライルはその場で崩れ落ちた。
ジョセフはこの女性が件の不倫相手だろうと認識した。
アマンダはそんなライルを一瞥し、ジョセフににこりと向き直った。
「初めましてお義父様。わたくし、カートン商会の長女で、アマンダ・カートンと申します。あらいけない。もうアマンダ・コックスですわね。よろしくお願い致しますわ」
アマンダは今までの態度はなかったかのように完璧な淑女の皮を被って挨拶してきた。
ジョセフは先程の一部始終を見ていたのだが…。
いや、それよりも気になることがあった。
「あぁ……。ええと、アマンダさん。もうコックスとは、一体どういう……」
「離婚届と一緒に、わたくしとライル様の婚姻届を提出してきたのですわ。これでやっとライル様と夫婦になれました」
アマンダは笑みを深めた。
ライルは慌ててアマンダに言い募った。
「待て! 僕は婚姻届にサインなどした記憶はないぞ! そんなものは無効だ!」
「あなたはきちんとサインしたわよ。まあ、酔っていて覚えていないかもしれないけど」
マーサが出ていったことに自暴自棄になり、ライルが酒に溺れていた時のことだろう。
ライルはその頃の記憶がほとんど抜け落ちていた。
「それに……今、私のお腹にはあなたと私の愛の結晶がいるのよ。夫婦になるのは当然じゃない」
アマンダは微笑んでいるが、そこには微かな悪意の様なものが見え隠れしていた。
まるで上手くいったとでも言う様な……。
今度こそライルは、絶望に打ちのめされた。
心当たりは確かにある。だが、まさか子どもが出来ていたなんて……。
そして……もう、婚姻届は出されてしまった。
この国の法律では、子を持つ夫婦は子どもが5歳になるまで離婚できない。
子どもを抱える女性を守るための施策だった。
これでライルはあと6年近くはアマンダと離婚することは出来ない。
マーサを探して呼び戻すことは、絶望的だ。
ジョセフは項垂れる息子を前にして、マーサとの離婚は本意ではなかったのだと悟った。
しかし、子どもがいるのだ。
不義を働いていたのは間違いない。
(ああ……これも私の罪なのか……。
マーサは、マーサはどれほどに苦しんだのだろう……)
ジョセフはふらふらと商会を後にした。
ジョセフが辿り着いたのは、かつての友人夫婦の墓の前だった。
2人の墓は王都の外れにあり、栄華を誇っていた2人に相応しく、豪華で洒落た墓だった。
一体誰が飾ったのか、墓にはフリージアの花が飾られていた。
フリージアはブロイルズの語源となった花である。
多くの人に慕われた2人だ。今でも悼む人が多いのだろう。
「お前は俺を恨むだろうか……恨むだろうな。マーサを守ると、娘の様に愛していくと誓ったのに……。ライルだってそうだ。あんなにマーサを愛し、大事にすると誓ったのに……。俺たち親子は2人揃ってクズ野郎だ! 許してくれ、俺を許してくれ……」
ジョセフは墓の前で泣き崩れた。
日が落ちて辺りが闇に包まれても懺悔を続けるジョセフを、フリージアの花だけが見ていた。
そして空が白み始める頃、ジョセフは妻のペンダントを握り締めながら身を起こした。
(商会だけは、どうにか守らなければ。あいつの商会の名を、完全に消し去る訳にはいかない)
商会の統合で半分なくなってしまったが、まだブロイルズの名は生きている。
これから出来る限りのことをしよう。
せめて、それが唯一の償いだと、ジョセフは心に誓ったのだった。
そして商会に戻ると、憑き物が落ちた様に元の会頭らしい姿を見せた。いや、それ以上に真剣に働いた。
ただただ償いたい……その一心で。
執務室には、常にフリージアの花が飾られていた。
ライルは全ての感情が抜け落ちた様に呆然としながら、自室のソファに座っていた。
アマンダのことは美しいとは思ったが、一度も愛したことはなかった。
ただ都合がいいだけだった。
しかしもう、マーサはいない。マーサは帰ってこないのだ。
そんなライルを、いつ入ってきたのかアマンダが見下ろしていた。
「情けない人。いつまでそうしているつもり? 自業自得の癖に、馬鹿みたい。いい? またお酒に溺れたりしたら許さないわよ。恥ずかしいったらないわ。私が街を歩けなくなるじゃない。
そんなことにお金を使うくらいなら、宝石の1つでも贈って欲しいもんだわ。私はあなたの子を産むのよ、分かってる? やることやったんだから、責任取ってとっとと働きなさいよ!」
ライルを責める声が部屋に響き渡っているが、ライルが思うのはマーサのことだけだった。
マーサの小言を煩く思ったこともあったが、思えばそれはいつもライルのことを心配してのことばかりだった。
アマンダの声を右から左に流しながら、左手の指輪を強く握りしめるのだった。
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