第5話 ライルのこと②

 

 しばらくして、ライルは王都のとあるホテルのレストランに1人訪れていた。

 アマンダから仕事の件で話があると連絡が来たのだ。

 何故アマンダからなのか、マーサではなくライルだけを呼んだのか、ライルは薄々感じ取りながらもむしろ都合が良いと思い、機嫌良く出かけた。


「今日はいきなりお呼びして申し訳ありませんでしたわ。来てくださってありがとうございます」


 ライルが着くと個室に案内され、そこには一段と美しく着飾ったアマンダが居た。

 艶やかな金髪と白い肌に映える赤いドレスは、肩から胸元までを大胆に開けたもので、そこから豊かな2つの膨らみが存在を主張していた。

 しかし下品ではないギリギリのラインに落ち着けていて、流石はカートン商会のご令嬢といった装いだった。


「いえ、驚きましたが、この様に美しい方からのお誘いならばいつでも歓迎ですよ」


 ライルはにこやかに答えた。

 やはりというか、仕事の話と言っていたにもかかわらず、全く関係ないたわいもない話をしながら食事を楽しんだ。そして残すはデザートのみといったところで、アマンダが潤んだ瞳でライルを見つめて言った。


「コックス様。わたくし……聞いたのです、奥様のこと。こんなに素敵な方を放っているなんて、なんて酷い方なのでしょう。わたくし、許せませんわ……。もしもわたくしが奥様の立場であったなら、忙しい貴方の為にいくらでも尽くしましたでしょうに……」


 ライルは内心にやりとした。

 やはりアマンダはライルに気がある様だ。

 アマンダは若く美しく、今のマーサとは大違いだ。隣に連れて歩いても自慢になる。それに…もしアマンダを隣に連れていたら、マーサはどんな顔をするだろう。

 またあの顔が見られるだろうか。


「カートン嬢。いけませんよ。あなたにその様に言われたら、男は勘違いしてしまいます」


 形ばかりの否定をしながら満更ではない雰囲気を出すと、アマンダは勝機と見たのかライルの席に近付き、跪いて体を寄せた。

 豊満な胸をライルの太ももに押し当てつつ、ライルを見上げながら言った。


「勘違いなどではありませんわ。いけないことと分かっていながら、貴方への気持ちが抑えられませんの。

 どうか、私のことはアマンダとお呼び下さい。そして私に、ライルと名を呼ぶ権利を与えて下さいませんか」


 アマンダがそう言った途端、ライルはアマンダを引き上げ自分の膝に乗せ、その唇を自身のそれで塞いだ。

 久々に感じた異性からの好意に、単純に興奮したのだった。

 マーサとは結婚後2年ほどはそうした関係もあったが、ここ数年は全くベッドを共にしていない。

 ライルは女に飢えていた。

 アマンダの体は蠱惑的で、少し味見してみるのも良いかもしれないと思った。


 この日、2人はそのままホテルで一線を越えた。

 ライルはアマンダが既に処女ではないことに多少驚いたが、貴族でもなければあり得ないことでもない。

 彼女の身体ならばさもありなんと、あまり気にはしなかった。



 そこから、あえて伝えることはしないが隠しもせず、アマンダとの関係を続けた。

 マーサは何か感じ取っている様子はあるものの、何も言わない。

 ライルはそれが不満で仕方なく、更に苛立ちを感じていた。


「ねえライル。今度のカルディン村への買い付けに一緒に行かない? ライルも職人たちと顔を合わせた方がいいと思うの」

「それは君の仕事だろう。僕は忙しい。一人で行ってきてくれ」


 ライルはカルディン村が好きではなかった。

 あそこにはマーサの従弟がいる。あいつは明らかにマーサに気があり、それを見るだけでイライラする。

 それに道中の馬車ではマーサと同乗することになるだろうが、きっとその間マーサはずっと書類仕事に明け暮れているだろう。

 マーサから存在を忘れられた気分になることなど、ライルには耐えられなかった。



「最近ずいぶん高価な物を買いすぎではないかしら。いえ、あなたの個人のお金で買っているから別にいいのよ。でも、そんなに使ってしまったら、すぐに無くなってしまうわ」

「余計なお世話だ。なんだ、僕が金の管理も出来ない子どもだとでも言うつもりか!」


 ライルはアマンダと共に過ごすうち、自分の身なりに金をかける様になっていた。

 アマンダの隣にいる自分が見劣りするのは嫌だったし、行くところや食べるものもアマンダに合わせて自ずと格の高いものになっていたのだ。

 自分でも多少無理をしている自覚があっただけに、図星を突かれてカッとなってしまった。

 だが、その後すぐに謝罪してくるマーサを見て溜飲を下げた。やはりマーサはまだ自分に嫌われたくないのだ。



「最近よく夜に外出しているようだけど大丈夫? お友だちと飲みに行っているの?あまりお酒ばかり飲んでいると体を壊してしまうわ」

「うるさい! いちいち僕のすることに口を出すんじゃない!」


 夜外出するのはアマンダに会う為だ。

 もちろんわざと夜にしている。昼間仕事の合間を縫って会うことも出来るが、それではマーサに気付かれない。

 悲しそうな、寂しそうなマーサを見る度に機嫌が上向くことを感じながら、ライルは徐々に自分の言葉が鋭くなっていることに気付いていなかった。

 マーサの反応が鈍くなっていることを無意識に感じ、更に反応を引き出そうと、より傷付く心無い言葉を吐く様になっていた。




 ライルは飢えていた。

 マーサの愛に、視線に、懇願に。

 アマンダから寄せられる好意に慰められることはあっても、その飢えを満たすことは出来なかった。

 性欲や承認欲求を満たすだけでは足りない。


 ライルはついに、マーサに離婚を突きつけることを決意した。


(そうすればマーサは泣いて縋るだろう。きっとまたあの顔が見られる。あのぼくを求めて止まない、愛しい顔が)


 こうしてライルはマーサに離婚を告げた。

 しかしマーサから返ってきたのは、商会を心配する言葉だけだった。





(何故だ何故だ何故だ……っ!!)


 こんな筈ではなかった。

 マーサを追い出すつもりなんて全くなかった。

 けれどあの時は頭に血が上り、思ってもいないことを言ってしまった。

 本当なら、あそこでマーサは許しを請い、必死に自分に愛を告げてくる筈だった。

 なのに彼女は商会のことしか口にしなかった。

 それが堪らなく腹立たしかった。


 そして何より、マーサが実際に離婚届にサインをし荷物をまとめて出て行ったことが、自分で強要したにもかかわらずライルにはとても信じられなかった。


(何故大人しく出て行くんだ! もう僕のことが好きじゃなくなったのか? いや! そんな筈はない! マーサは僕のことを愛していた筈だ! ならなんで出て行ったんだ!)


 ライルは荒れに荒れ、酒に逃げていた。

 元々強くないにもかかわらず酒を煽り、翌日は酷い二日酔いで昼過ぎまで部屋から出てこない日々を続けた。

 アマンダはそんなライルを見て、困惑していた。


「ちょっとどうしたって言うの! 何がそんなに嫌なのよ! そんなみっともない格好で飲み歩いて、私まで恥ずかしくなるじゃない!」


 アマンダは当初貴族の様な上品な言葉遣いをしていたが、今ではその片鱗もない。

 ただ自分をよく見せるための付け焼き刃でしかなかったのだ。


 マーサが出て行ってから5日後、家に1人の男がやってきた。

 マーサの下に付いてコックロイルズ商会の経理をしていた男である。

 そして、ライルがマーサに離婚を突き付けた時に居合わせた職員の内の1人でもあった。


「会頭代理、いい加減商会に来てください。マーサさんを追い出したのはあなたです。今いる職員でマーサさんの仕事を分担するにも限界がある。あなたには責任があるはずだ」


 ライルは酷い頭痛を抱えながら、渋々商会へと足を運んだ。

 商会のことをどうでもいいと思っている訳ではない。

 ただ、マーサがいなくなった現実が受け入れられないだけなのだ。


 冷水で頭を冷やし、水をがぶ飲みしてどうにか頭を働かせる。

 そうして向かった執務室には、信じられない量の書類が山積みになっていた。


「ま、待ってくれ! これが全部マーサの仕事だったって言うのか!? 本当に!?」

「何言ってるんです、会頭代理。全部な訳ないじゃないですか。ごく一部ですよこんなもの」


 各商品の買い付けから、市場調査、在庫の管理に品質チェック、得意先への御用伺い、店舗の総合管理に他会との共同事業の進捗管理や調整、帳簿付け、職員の人事と新人育成。

 ありとあらゆる仕事がそこには積まれていた。


「在庫管理や帳簿付けなんかはもちろん私たちでもやっていましたけどね。新人育成も基本は現場に任せていますし。ですが取りまとめはマーサさんでした。

 取引先とのやり取りはマーサさんでないと動いてくれないところも多いですし、共同事業なんか、マーサさんならと頷いてくれて進んでいたところも多いのですよ。

 それに品質管理は、マーサさんに敵う人はいなかった。私たちでは気付かない小さな瑕疵に気が付いて、それが大きな問題になる前に事なきを得たことも何度もある」


 ライルは愕然とする。

 自分も忙しくしていたと思っていたが、全くその比ではない。

 いくつかの大きな事業の絵を描いたのは確かに自分だった。

 しかし、ただの雑なラフ画だったものを細かく清書し、色を付け、額にまで入れて形にしたのは、間違いなくマーサだった。


「私たちもいけなかったんです。マーサさんに任せておけば大丈夫だという空気が、この商会には漂っていた。だけど会頭代理、あなたはマーサさんの夫だったはずです。一体彼女の何を見ていたんだ」


 職員の男は侮蔑と後悔を含んだ視線をライルに向けた。

 マーサ1人でほぼ商会の経営をしており、ライルはただのいいとこ取りだというのが、商会の職員の間では公然の秘密だった。

 実際、職員の中でもライルやジョセフにマーサの現況について訴えようという動きがあった。

 しかしマーサ自身、自分が折りを見て話してみると言っており、職員たちは自分たちが口を出すことで家族関係に影響が出ることを恐れ、口をつぐんでしまった。

 結局、ライルはマーサの言葉に耳を貸さず、ジョセフとも全く顔を合わすことも出来なかったのだが。


 また商会を統一した最初の頃、マーサはそれまで会頭が行っていた業務をいくつか職員に振り分けることを提案していた。

 しかし、家族以外に多くの仕事をされることを嫌ったジョセフが、マーサ自ら行うよう厳命していた。

 それ以来、どうにか少しずつマーサの裁量で職員にも仕事を渡していたが、それでもどんどんと成長する商会の勢いには、焼け石に水の状況だった。


 ライルは分からなかった。

 確かにマーサは忙しそうだったけれど、何がそんなに忙しいのか分かっていなかった。

 だからきっと彼女が細かいことに拘り過ぎているのだろうと思っていた。仕事が好きだから、余計な仕事も抱えているのだろうと思っていた。

 何故、自分はそんな風に思っていたのか…?

 そして、ライルははっと1つのことに気が付いた。


「父さんは……? 会頭はどうした!?」

「会頭は、ここ1年ほどこちらに全く顔を出していません。商談の話も聞かないですし、家にいるのではないのですか?」


 ライルは更に愕然とした。

 確かにしばらくジョセフを商会で見ていない。

 しかし、それは商談や取引先との会合に忙しいと聞いていた。

 新しい販売店を構えるので職員の人事を考え直さねば、研修をどうしようか。国家財務局の大きな監査があるから、帳簿の見直しをしなければ…。

 そんなことをジョセフから聞いていた。

 だが、それらは全てマーサがやっていたことだったのだ。


(まさか…父さんが全てマーサに押し付けていたのか……?)


 見る限り、次期会頭である自分がやるべきだろう仕事も多々ある。

 そんなことに全く気付いていなかった自分に唖然とする。

 そう言えば、父は最近家でも見かけない。

 てっきり地方の商談に行っているのかと思っていたが……。

 父はどこに行ったのだろう。

 何もかも見えていなかった自分自身が信じられず、ライルは崩れ落ちた。


「会頭代理。あなたはこの商会をこれから担う人だ。責任を果たしてください。

 そして、マーサさんに心からの謝罪を。あなたは商売人としても、男としても、最低のことをした」


 職員の男は、もはや職を失う覚悟で言葉を連ねた。

 ライルの目を少しでも覚ましてやらねば、マーサがあまりに不憫だと思ったのだ。


 ライルは混乱しながら鈍い頭で考えた。


(まずは、どうにかこの山積みの仕事をどうにかしなければ。そして……マーサ。マーサを探そう。

 心から謝罪して、そしてもう一度やり直そう。マーサが居なければ、僕も商会もお終いだ)


 まだマーサとの離婚届は教会に提出していない。

 まだ2人は夫婦だ。


(あのトルマリンの指輪をもう一度指にはめよう。大丈夫だ。まだ僕らは夫婦だ)


 そしてゆっくりと震える手で一番上の書類を取り、自分の前に引き寄せたのだった。

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