第4話 ライルのこと①
ライルは初めてマーサと出会った時、なんて可愛い子なのだろうと思った。
栗色のふわふわとした髪は腰まで垂れていて、チョコレートブラウンの瞳はキラキラとして見え、まるで甘いお菓子のような子だと思った。
あれはライルが7、8歳の頃だろうか。
珍しく父に呼ばれ、コックス商会の商談に使う小部屋に入ると、栗色の真っ直ぐな髪を短く刈り上げた男がソファに座っているのが目に入った。
そのすぐ横に、男と同じ髪色の少女が、ちょこんと行儀良く座っていた。
「初めて会うな。これが息子のライル。ライル、ブロイルズ商会の会頭とその娘さんだ。
父さんたちはこれから話があるから、一緒に遊んでおいで」
なるほど、それで呼ばれたのかとライルは落胆した。
もしや父の仕事を手伝わせてもらえるのかと喜んでいたのに、と少しいじけた気持ちになっていたが、少女の顔をしっかりと見た途端、そんな気持ちは吹き飛んでいた。
(かわいい……!)
ライルは嬉しくなって、にこにこしながら少女の目を見つめて言った。
「ぼくはライル! きみの名前を聞いてもいいかい?」
「マーサです。今日は父の仕事に付いてきました。ライルさん、よろしくお願いします」
「もう固いなあ! ぼくはきみと仲良くなりたいな。ぜひライルと呼んでね。あと敬語もいらないよ!」
「は、はい…いえ、わかったわ、ライル」
ライルはいよいよ嬉しくなって、マーサの手を引いて色々なところに連れて行った。
お気に入りの公園や、美味しいパン屋。いつも窓辺で猫が寝ている近所の家。楽しくて楽しくて、2人で始終笑い声を上げていた。
父親同士が友人となり、仕事と関係なく家族ぐるみの付き合いをするようになると、ライルとマーサは頻繁に家の行き来をするようになった。
その頃はまだライルの母も健康で、いつも手を繋いでいる仲の良い子どもたちを暖かく見守っていた。
ライルが10歳を過ぎた頃、ライルは無邪気に両親にお願いをした。
「ぼく、将来は絶対マーサをお嫁さんにしたい! 良いでしょ?」
「ライル。私もね、そうなってくれればいいと思うよ。でも、マーサのお婿さんになる人は、マーサの家の商会を継がなきゃいけない。でもライルはうちの商会を継ぐだろう? だからね、無理なんだ」
ライルは父に言われたことが理解できなかった。
「なんで! なんでダメなの!? マーサのことがこんなに好きなのに! マーサだってぼくのこと好きだって言ってくれたよ!」
ジョセフは困ったように眉を下げて宥めるばかりで、そんな父に怒ってライルは家を飛び出した。
そしてそのままマーサの家に行って、不満をぶちまけた。
「父さんは頭が固いんだ! こんなにぼくたちは相性がいいのに、結婚できないって言うんだよ! 信じられる!?」
「ライル。でもね、それは仕方のないことだわ。私もライルのことが好きよ。けど、商会のことも考えなくちゃ」
マーサは幼い頃から達観した子どもだった。
自分の境遇や立場もよく理解していたのだ。
「マーサまでそんなこと言うなんて! 酷いよ! 好きだって言いながら、そんなにぼくのことが好きじゃないんだ!」
「そんなことないわ! 好きよ、大好きよ!」
マーサはライルの機嫌を損ねてしまったことに慌てて、必死に言い募った。
思えば、この時からだったのかもしれない。
ライルが、必死に自分の機嫌を取るマーサに、優越感に似た満足感を覚えるようになったのは。
それからライルは、稀にちょっとしたことで、わざといじけてみせることがあった。
その度にマーサはライルの機嫌を取るように必死に縋ってくる。
そしてライルは満ち足りた気持ちになった。
そのまま2人の関係は変わらず、ライルは16歳になった。
ジョセフに教わりながら仕事を覚え始め、いくつかの小さな案件を任せてもらえるようにもなっていた。
仕事が充実する反面、1年ほど前から母の体調が思わしくなく、一日中寝台で過ごすことも多くなっていた。
落ち込みがちなライルをマーサは励まし、またライルの母の見舞いにもよく来てくれた。
「ライル、大丈夫よ。おじさんがまたよく効く薬を手に入れてくれたのでしょう? きっと良くなるわ」
しかし必死の看護の甲斐なく、母はその冬、儚くなってしまった。
「ごめんなさいライル。私無責任なことばかり言っていたわね。どうかそんなに落ち込まないで……」
マーサは嘆き悲しむライルに付いて、いつまでも励ましてくれた。
ライルはいつまでも自分の傍に居てくれるマーサを愛しいと思った。
マーサの存在は、ライルにとってどんどんと大きくなっていった。
そしてあの運命の日。
ライルはあの日のマーサの顔を、ずっと忘れることはなかった。
マーサの両親が帰宅せず、ライルたちも心配していたあの日。
唐突にコックス家にやってきたマーサは、全くの無表情で、涙だけがチョコレートブラウンの瞳から溢れ出ていた。
そしてライルの顔を見ると、一気に感情が溢れ返ったかの様に顔を歪めて抱きついてきた。
「どうしようライルっ。お父さんと……お母さんが…っ!」
そのままマーサはライルの腕の中でわーっと泣いた。
途切れ途切れに、両親が事故で亡くなったことを伝えたマーサを抱きしめ、ライルは思った。
この子を守ろう。
自分が、この子の悲しみを癒して、この子を一生笑顔にしよう。
ライルは決意した。
その夜、ライルはジョセフの執務室へと向かい、マーサと結婚したいと伝えた。
そして自分が、マーサと商会を支えていくと決意を語った。
ジョセフも友人を亡くし憔悴していた。
しかし息子の真剣な決意に、自分もしっかりしなくてはと襟を正す気持ちになった。
そしてマーサが頷くならと、2人の結婚を承諾したのだった。
しかしここから、運命の歯車が徐々に狂い始める。
最初の1年は良かった。
ライルは急に両親を失ってしまったマーサを支え、励まし、共に商会を支えていた。
しばらくしてから結婚指輪を2人で選んだ時には、照れながら「ライルの瞳の色の石を付けたい」と言ったマーサを思わず抱きしめた。
互いの瞳の色をした石をはめた指輪を並べて、なんだかくすぐったいような気持ちで2人して笑った。
しかし2年目に入る頃には、マーサが仕事を理由にライルとの時間を取らなくなってきた。
話題の舞台や新しいカフェに誘っても、忙しさを理由に断ることが増えていた。
確かに仕事は忙しいかもしれないが、今2つだった商会を1つに束ねているジョセフには、そこまでの逼迫感が感じられない。
それに、次期会頭である自分もたくさんの仕事を抱えているが、適度に息抜きくらいは出来るのだ。
(マーサは仕事が好きすぎる。悲しみを仕事で紛らわせているのかもしれないが……それは僕が支えたいのに。
もう少し2人の時間を大切にしてほしいな)
ライルはマーサに不満を抱くようになってきていた。
そうしたすれ違いの日々を過ごすうち、また1年が過ぎると、2人で過ごす休日は皆無になった。
と言うより、マーサは休日も仕事ばかりしていてずっと商会に居る。共に過ごすのは夕食の席だけだ。
ライルはジョセフのことも見かけることが少なくなったが、きっとマーサの世話を焼いてずっと商会に居るのだろう。実際、たまに会うジョセフからはそう聞いていた。
疲労からか、マーサのあの可愛らしかった容姿も様変わりしていた。
髪はパサつき、肌も荒れて、愛らしかった瞳は充血している。
商談の際は化粧で誤魔化しているが、素顔を知っているライルはあまりの様子に落胆していた。
どう考えても自分の業務と比較してそんなに忙しいはずがない。
最初は心配して、あんまり拘り過ぎないようにと声を掛けていたが、わかったわと言うだけで何も改善する様子がないことに、最近では呆れるばかりだった。
そんなある日、ライルはマーサと共に商談でカートン商会に出向いていた。
カルディングラスを使ったアクセサリーの共同開発のためだ。
国内随一と言われるカートン商会との共同事業だ。これは最近のライルの一大事業だった。細かな調整はマーサがやっていたが、大筋を考えたのは自分だ。
意気込んでライルは臨んだ。
応接室にはカートン商会を束ねる会頭の、エイベルがいた。
大きく突き出したお腹に二重顎のでっぷりとした体をした中年の男だ。
それでいて、さすがはカートン商会の会頭。
相手に嫌な感じを与えず、にこやかな様はついすぐに信用してしまいたくなる。
エイベルと話をしていると、しばらくして1人の女性がお茶を持ってやってきた。
ライルは一瞬、その女性に目を奪われた。
歳はマーサよりもいくつか下だろうか。男性の理想を詰め込んだようなメリハリのある体つき。
美しい金髪はゆるくウェーブしていて、光を反射し輝いている。碧い瞳は少しきつめだけれど、それが余計に色っぽい。
「アマンダ。どうしたんだ呼んでなどいないぞ!」
エイベルは慌てて、まるで女性を追い出すかのように言った。ライルはそのことに違和感を感じたが、商談の場だからだろうと1人納得した。
「そろそろお茶のお代わりが必要かと思って持ってきたのですわ。そんなに怒らないでくださいませ。
今話題のコックロイルズの方がいらっしゃっていると聞いたものですから、ご挨拶をと思いまして」
するとアマンダと言われた女性はライルに向かってにっこりと微笑んだ。
「カートン商会の長女、アマンダ・カートンと申しますわ。商会の方は父と2人の兄が営んでいるのですけれど、たまにこうして接客をさせていただきますの。よろしくお願いいたします」
すると上品にスカートを摘んで腰を下ろした。
まるで貴族の様な優雅な所作に、ライルは感心した。
「なんと、こんなに美しい方がいらっしゃるとは思いませんでした。私はコックロイルズで会頭代理を務めていますライル・コックスと申します。こちらは妻のマーサ。よろしくお願いしますね」
ライルはにこりと愛想良く挨拶した。ライルは次期会頭として、会頭代理を名乗っている。
どことなくアマンダはぽーっとした様子でライルを見ていて、続いて挨拶したマーサのことは目に入らないようだった。
その後すぐ、商談を続けるからとエイベルに言われ、アマンダは出て行った。
商談は上手くいき、ライルもマーサも緊張から解放されたためか久々に帰りの馬車の中は穏やかな空気が漂っていた。
ふと、マーサはぽつりとライルに言った。
「あの、アマンダさんという方……とても綺麗な人だったわね。なんだか、あなたの事が気になっていたみたい」
アマンダがライルのことを気に入ったであろうことはライルにもすぐ分かったことだ。
ライルは正しく、そこにマーサの嫉妬を感じ取った。
ライルは嬉しさを誤魔化す様に苦笑いをして、マーサを宥めた。
「はは。そうだったかな。気の所為だよ。多分コックロイルズの次期会頭が気になっただけさ。あんなに美しい人に気に入られたとしたら、悪い気はしないけどね」
ちらりと嫉妬を煽る様な一言を加える。
マーサはそうねと言って、顔を伏せてしまった。
そんなマーサの肩を抱き宥めながら、ライルは緩む顔を抑えられなかった。
それからまた数ヶ月の時が過ぎた。
マーサは更に仕事にのめり込んで、夕食を共にすることすらなくなっていた。
仕事以外でマーサと言葉を交わすこともほとんどなくなり、ライルの不満は積もりに積もっていた。
ライルはその日、夜に友人と飲みに行くことにしていた。
この頃のライルはマーサへの不満をよく周りに漏らすようになっていた。
夜家を出ようとしたところ、玄関でマーサと鉢合わせた。
「これから飲みに行くの?あまり遅くまでお酒を飲むと翌日に響くわ。最近忙しいのだし、体が心配よ。ほどほどにしてね」
「……君には関係のないことだろう」
ついマーサの小言が煩く感じ、いつになく冷たく突き放してしまった。
ライルはすぐに後悔し、マーサに謝ろうとしたが、それより前にマーサの方が謝罪をしてきた。
「ごめんなさい。ライルにも人付き合いがあるのに、口を出すべきではなかったわ。でも、ライルが心配で…そんなにお酒も得意ではないし……。
でも気分を悪くしてしまったわよね。本当にごめんなさい」
ライルはその時、仄暗い喜びを感じた。
そうだ、マーサは自分のことが好きなのだ。だからこんなにも自分に気を使うのだ。決してマーサは仕事だけが好きな訳じゃない。
そう考えると、悪い癖が出た。
あえて苛立たしげな様子を見せて家を出て行ったのだ。
ライルはその日、上機嫌で友人たちと酒を楽しんだ。
それだけで終われば良かったのだ。
しかし、その時ライルは思い出してしまった。マーサのアマンダへの嫉妬した姿を。
そして、マーサの両親が亡くなった日のあの顔が被った。
またあの顔が見たい。
絶望の中で、まるでライルだけが救いかの様な、あの縋り付く泣き顔が。
ライルはわざと、左手の指輪を外した。
茶色いトルマリンが付いた美しい指輪。
それを外した時、ついにライルの中で何かが変わった。
当初思い描いていた幸せな結婚生活から程遠い現状に、ライルの何かが歪んでしまっていた。
ライルの中の仄暗い欲求を堰き止めていた何かが、指輪と共に外れてしまったのだった。
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