第3話 マーサのこと③

 

 マーサがカルディン村にやってきて、半年以上の時が過ぎた。

 アンナに教わりながらやる工房の仕事は、とても楽しいものだった。

 仕事はこんなにも楽しいものだったと、改めて思い出していた。


(余りにも多くの仕事を抱え過ぎていて忘れていたわ。そうよ、私は商売が好きだったんだわ)


 最初はただ在庫の確認や帳簿付け、支払いの管理などをしていたが、ヨハンにお願いして、ネイトと共にいくつかの発注元との調整もやらせてもらっていた。

 大口の顧客の窓口は、主にネイトが引き受けていたのだ。

 ヨハンはジョセフと違い、常に無理をしていないかマーサに確認してくれた。

 アンナも体を気遣い、むしろ次々と質問するマーサに待ったをかけていたくらいだ。

 職人たちや村の人々も気のいい人たちばかりで、カルディン村に来てから不思議と肌の調子まで良い。

 マーサはのびのびと楽しく仕事をしているうちに、あっという間に村に馴染んで、生活の目処もすぐに立った。

 そして工房の近くの小さな空き家を借りることにした。

 ネイトたちには止められたけれど、すぐ近くだったことと、風呂を借りたり食事を一緒にとることを決め、ようやく納得してもらえた。



 工房に突如その知らせが舞い込んできたのは、穏やかな生活の中で、マーサの心の傷がほんの少し癒え始めた頃だった。


「取引の中止……?」


「そう。いきなり向こうから一方的に言ってきたんだ。嫌がらせかよ! 商売人のくせに商売に私情を挟むなんて!」


 ネイトが忌々しげに書類を投げ捨てた。

 マーサがそれを拾い上げると、そこにはコックロイルズ商会は、今後カルディン村のガラスは扱わないということが慇懃無礼に書いてあった。


「なんてこと……。ここの製品にはこれまで全く問題なかったわ。出入り業者の人の話では、需要が落ち込んでるなんてこともない。もしかして私のせい……? 私がここにいるってライルに伝わったんだわ。コックロイルズが一番の取引先なのに……ごめんなさい……本当にごめんなさい!」


 マーサは悔しくて悲しくて、泣き崩れてしまった。

 ライルはそんなにも自分のことが嫌いになったのだろうか。

 かつては確かに愛し合っていたと、そう思っていたのに。

 マーサは左手の薬指を指輪ごとぎゅと握った。早く外さなければと思いながら、マーサはまだペリドットのこの指輪を外すことが出来なかった。


 自分が来たから工房の人たちにも、村の人たちにも迷惑をかけてしまった。

 こんなに良くしてくれた村の人たちに顔向け出来ない…。


 マーサが自責の念で押し潰されそうになっていると、ネイトがそっと肩に手を置いて、マーサの目を覗き込んで言った。


「マーサ。自分を責めるんじゃない。あんたのせいじゃない。大丈夫さ。カルディングラスは素晴らしいんだ。コックロイルズがダメでも、他にも方法があるさ。一緒に考えよう」

「ネイト……」


 泣いてばかりいられない。

 ライルのことは、今でも忘れることは出来ない。

 悲しくて仕方ない。

 けれど、村の人たちを巻き込んではいけない。

 自分は根っからの商売人だ。何か、何か考えなくては。

 マーサは必死に頭を働かせた。

 そしておもむろに自分の顔に手をやると、一気に思考が駆け巡った。

 この村に来てから調子の良くなった肌。温泉。ガラス。香水瓶、そして今ネイトが開発しているあの……。

「ネイト! 叔父さんはどこ!? 話があるの!」







「最近あなたを王都で見ないと思ったら、そんなことになっていたのですね。いやはや、噂は本当だったとは」


 それからかれこれ2ヶ月後。

 マーサとネイトは王都のとある商会の応接室に居た。

 2人の目の前には、グレイヘアの40代と思しき男が座っている。

 男はスッキリとしたネイビーのスリーピースを着ており、足元には質の良いウィングチップの革靴が覗いている。


「まあ、私について何か噂が出ているのですか?」

「ええ。コックロイルズの次期会頭は自らの生命線を断ち切って、とんでもない紛い物を掴まされたとね。それを聞いてまさかと思っていましたが、どうやらあの若造はとんでもない愚か者らしい」

「そんな。買い被りすぎですわ」

「そんなご謙遜を。どうやら向こうは大変なようですよ。いつまでコックロイルズの名が残っているやら……」


 マーサはぐっと奥歯を噛み締め、微笑んだ顔を崩さないよう必死に耐えた。


(上手くいっていないのね……。引き継ぎも何も出来なかったのだもの、商会のみんなはどうしているのかしら。

 ライルはどうしてるの……? お義父さま……会頭はこのことを知っているの?)


 溢れ出る思いを押し留め、今は商談に集中だと自分に言い聞かせる。

 知らず知らずデスクの下で握りしめていた手に、そっとネイトの手が重なった。

 それだけで少し気持ちが和らいだような気がした。


「商会の方向性の違いで色々ありまして……。でも今の仕事もとても気に入っているのですよ。手紙にも書かせていただきましたが、今日はその新しい仕事のことで伺ったのです」


 にっこりと笑顔で全てを覆い隠し、マーサは続けた。

 彼女の目の前にいるこの男。名をイーサン・ブラウンという。

 見た目はどうみても40代であるが、実年齢は50を1つ過ぎている。

 彼は以前コックロイルズでも取引したことのある、化粧品を専門に扱っているブラウン商会の会頭である。

 元々卸していた商会が使えないのならば仕方ない。

 自分で販売ルートを確立するまでだ。


「あなたの話はいつも面白いですからね。実際どうするかはともかく、ぜひ聞きましょう」



 マーサはコックロイルズ商会から取引中止の連絡を受けた時、一つの案を閃いていた。


 カルディン村の人々だけで使われている温泉水。

 それにはどうやら美肌効果がある。

 マーサは村人たちの肌が綺麗なことに昔から違和感を覚えていたが、どうやら温泉水が原因ではないかと考えた。

 美肌効果のある温泉は他にもあるが、それは強い成分で肌の弱い人には逆効果というのがこれまでの常識だった。

 しかしカルディン村ではそう言った話は聞かない。

 マーサ自身も肌が強い方ではないが、これまで何のトラブルもなく、肌がツヤツヤになっていた。

 この温泉水を、化粧水に使えないかとイーサンの元を訪れたのだ。

 また化粧品は美しい容器も重要になる。

 その化粧水をカルディングラスの容器に入れ、販売出来ないかと持ちかけたのだ。

 独自の販売ルートを持っているだけでなく、ブラウン商会は化粧品の品質保持やパッチテストの検証など、確かな技術力がある。優秀な薬剤師も何人か常駐していると聞いた。

 ブラウン商会と村との共同でオリジナルブランドを立ち上げ、まずは王都を中心に展開していくことをイーサンに提案した。


 それだけではない。

 この案を押し進めるためマーサの背中を強く押したのは、新しくカルディン村で開発された、あるガラス容器の存在があった。


 ことり、とネイトがデスクの上に置いたそれは、イーサンには全く見覚えのない物だった。

 片手に収まるほどのそれは、淡い色合いが多いカルディングラスとは異なる濃い茶色で、何故か瓶の上部で容器がくびれている。

 くびれた先が円錐状に伸び、頂点は閉じていた。

 容器と呼ぶには全く密閉された物で、しかしどうやら中には何らかの液体が入っているようだ。


「これは……?」

「これは、カルディン村で新しく開発した液体を密閉する容器です。この尖っている所を持って横に倒すと……この様に、くびれている所で折れて中の液体を取り出すことが出来ます」


 ネイトが実際にパキッと折って見せながら説明する。

 中身を他のグラスに注いで見せると、中からは混じり気のない透明な液体が出てきた。

 これはネイトが長年研究していたガラス容器だ。

 この国の言葉で「閉じたもの」という意味の「アンプル」と呼んでいる。

 当初はオイルで出来た液体型の砂時計を製造していたのだが、偶然失敗して瓶の先端が尖った物が出来上がった。

 そこで、ネイトは密閉するだけでなく中の液体が取り出せる容器を思い付いた。

 密閉する際に不純物が中に混入することや、使い捨てであることを考慮してコストを抑えつつ大量生産する方法が課題であった。

 それまでは具体的な発注元があった訳ではなく、空いた隙間時間に研究していた物だったが、今回のことがあり本腰を入れて開発を進めた。

 元々の素地が出来上がっており、あと一歩の所まで開発されていたこともあって、つい先日、ようやく商品化できる形にまで完成したのだ。


「最初に細工の凝った瓶を購入し、その後はこのアンプルに入れた化粧水を詰め替えるようにすれば、比較的安価に継続して購入してもらうことができます。このアンプル1本で大体ひと月分でしょうか。

 貴族用と庶民用で中身は濃度を変え、容器の方は細工の仕方によって価格帯に幅があるものを用意すれば、自ずと分かれるでしょう」


 上は完全オーダーメイドの一品物から、下は庶民がほんの少し背伸びをすれば手が届くようなものまで。

 マーサには確かな勝算があった。

 イーサンはどう反応するか、固唾を飲んで見守った。


「……なるほど。ブロイルズさん、やはりあなたの話は面白い。年甲斐もなくワクワクしてしまいましたよ」

「ありがとうございます。ですが私ではなく、アンプルを開発してくれたこのネイトを始め、カルディン村の方々の努力の成果です」

「ははは。そうですね。しかし商品や産地を大事にするあなただからこそのものでしょう。この話、ぜひ乗らせてもらいましょう」

「ありがとうございます!」


 思わずマーサとネイトは喜色を隠すことなく、満面の笑みで答えた。



 そのまま詳細の話を詰め、ブラウン商会を後にした時にはもう既に空には星が輝いていた。

 マーサとネイトはこうなることを予想して、王都に宿を取っていた。

 宿に向かう道すがら、興奮冷めやらぬと言った風に話していた2人だったが、ふとマーサが口を噤ぐんだ。


「どうした……?」


 そう言ってネイトが辺りを見渡すと、その理由にすぐ行き着いた。

 コックロイルズ商会のすぐ近くまで来ていたのである。


「……まだあいつのことが忘れられないか」


 ネイトの言葉に、マーサは悲しげに瞳を揺らした。

 マーサの左指には、既に指輪はない。

 しかし鎖を通して、常に首から下げていた。


 ネイトはばっとマーサの肩を掴んで、高い身長を折り曲げ、マーサの瞳を覗き込んで言った。


「俺にしろよ! あんなクソ野郎のことなんて忘れてさ!」


 ネイトの顔は真っ赤に染まっていた。

 それでも真剣な、それでいて何かを請うような視線でマーサを見つめていた。


「愛してるんだ。昔からずっと。あんたが結婚してからもずっと忘れられなかった。

 あんたの心にはずっとあのクソ野郎がいたけど、もし、もしもその場所が空くんなら、そこに俺を入れてくれないか」


 マーサはその視線に絡め取られたように、動けなくなった。

 もうとっくにネイトの気持ちは変わっているだろうと思ってカルディン村にやってきたマーサだったが、その実、ネイトは何も変わっていなかった。

 傷心のマーサの負担にならぬよう、控えめながらも好意を伝え続けてくれていた。

 そんなネイトにマーサはずっと救われていた。


 マーサはネイトのことをどう思っているのか?

 自分で自身に問うてみると、仄かに甘い疼きを感じる。

 きっと、ネイトへの恋情が生まれているのだろう。

 けれどすぐにライルの顔が浮かんできてマーサの心は暗闇に落ちていってしまう。

 ぎゅっと服の上から指輪を握り締め、そしてゆっくりと離すと、マーサは言った。


「……ごめんなさい」

「そ、そうだよな! すまない、変なこと言って……」


「違う! 違うのよ……! ごめんなさい、もう一年近く経つのに、私はまだライルとのことを整理できてない。だから……。

 でも、でもね。私変われそうな気がするの。お願い、もう少しだけ時間を頂戴。それから、返事をさせてもらってもいい?」


「もちろん! もちろんだ! これまでどれくらいあんたを思っていたと思う。7年だぜ! 待つのは得意だ。いくらでも待つさ!」


 マーサからの返事がきっと悪い結果ではないだろうことを、ネイトはしっかりと読み取った。

 赤い顔を更に赤くして、落ち着きなく、嬉しさが隠せないというように言った。

 それを見るとマーサも自然と笑みが出て、お互いに顔を赤くしながら宿へと急いだ。

 2人の関係性が変わるのは、そう遠い未来ではないだろう。



 そして、そんな2人の様子を呆然と見つめる影があったことに、2人は全く気が付かなかった。

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