第2話 マーサのこと②
マーサはトランク一つを抱えて、王都を彷徨っていた。
(そうよ……分かっていたじゃない。ただ現実を突きつけられるのが怖くて、逃げていたのは私だもの……)
業務配分について、ジョセフに見直すよう訴えれば良かった。
少しでもライルと時間を作って、話せば良かった。
いくら後悔しても、過ぎた時は戻ってこない。
(商会は大丈夫かしら……。お義父さんはこの事を知っているのかしら。ライルは彼女……アマンダさんとすぐに結婚するのかしら。彼女は私と違って美しく魅力的だったし、きっと、理想の夫婦になるのだわ……)
マーサは自分のパサついた枝毛だらけの髪を見た。
疲労と寝不足で、肌は荒れ放題だ。
アマンダとはまるで正反対だった。
マーサはそれでもどうにか自宅に帰って、最低限の荷物を取って持ち出し、個人資産を預けていた金融商会からトランクに入るだけの財産を下ろしてから辻馬車に乗った。
そして音もなくはらはらと涙を流しながら、それが人に見られないよう、小さく蹲っていた。
ライルたちのいる王都に留まる気にならず、散々迷って、父の故郷であるカルディン村を目指すことにした。
カルディン村は人口100人にも満たない小さな村である。しかしその分、村人は小さな事でも皆助け合って生活していた。
マーサは温かなカルディン村が好きだった。
カルディン村へ行けば、父の妹夫婦がいる。
2人は村唯一の大きなガラス工房を営んでいて、村の職人たちを一手に抱えている。
以前から叔母が工房の経理を担っていたが、昨年腰を悪くしてから、長時間仕事をするのが難しくなったと聞いていた。
(叔母さんに仕事のお手伝いが出来ないか、相談してみよう。経理なら私にもできるかもしれない。もし駄目だったら……その時また考えるしかないわ)
マーサは混乱する頭で考える。
先のことは、何一つ見えなかった。
(ネイトは……どうしているかしら。私が来て、気まずいと思うかしら……)
叔母夫婦には息子と娘が一人ずつ居る。
娘の方は数年前に他村の息子に嫁いで行ったが、息子の方は工房で外との取引を手伝っている。
マーサは工房の息子、ネイトのことを思い出していた。
マーサより1つ年下のネイトは、どちらかと言うと無口で、静かな印象だ。
とても背が高く、黒い髪を短く刈り込んで、健康的に肌の焼けた男らしい見た目だ。
甘い顔立ちのライルとは、方向性の違う美男子だった。
村では1番女性に人気があったのに、かつてまだマーサの両親が健在の頃、彼はマーサに告白をしてきたのだった。
「あのブロイルズ商会の娘としがないガラス工房の倅じゃあ、釣り合わないのは分かってる。でも、好きなんだ。すまない、自己満足だって分かってるけど、気持ちを伝えたかっただけなんだ」
緊張からか、いつになく饒舌に語るネイトに対し、その時マーサは笑顔でありがとうと伝えた。
しかし、あなたの気持ちは嬉しいけれど好きな人がいるから、と答えたのだった。
幸いにも、その後もネイトの態度は何も変わらず、マーサの結婚後も仕事で何度か会っていたが、以前と同じように接してくれた。
マーサもネイトに甘えて、何事もなかったかのように接していた。
(今ではもう気持ちも変わっているだろうけれど、自分を振った相手が急に転がり込んできたら、やっぱり嫌よね……)
そんな事を考えながら、ふと自分の左手の薬指が目に入った。
そこには、小さなペリドットがはまった結婚指輪があった。
両親が死んですぐはそんな気にならず、結婚してから1年経ってからライルと一緒に選んで買ったものだ。
ライルの指輪には茶色いトルマリンがはまっている。
いつからだろう。ライルのあの指輪を見なくなったのは。
(そう、本当はとっくに気がついていたのよ。ただ気が付かないふりをしていただけ)
マーサは一度ぎゅっと目を瞑ってから、ゆっくりと開いた。
(だめだわ。とにかくどんな一歩でもいいから進まなきゃ。戻るところは、もうないんだから)
街や村の質素な宿に泊まりながら辻馬車を乗り継ぎ、辻馬車が出ていない所では巡廻で商品を売り歩く商会の馬車に乗せてもらいながらカルディン村を目指した。
道中には山賊が出る所もある。しかし護衛を付けるのは限られた予算の中で憚られ、身一つで旅を続けた。
何かあったならそれが運の尽きだと、投げやりになっていたのかもしれない。
ただでさえ女の一人旅で、トランクには大金が詰まっている。
正直無謀な旅だった。
しかし運はマーサに味方をした。行く先々で出会う人々はみな良い人たちで、何事もなく旅が出来た。
そして約1ヶ月もの時間をかけて、ようやくマーサはカルディン村に辿り着いた。
叔母の家の前に立ってから、マーサは迷っていた。
本当に訪ねてもいいのか、親類だからと迷惑をかけていいのか、マーサはここに来て決心がつかなくなってしまったのだ。
叔母の家は工房のすぐ近くにあって、かつて父と一緒に何度か訪れたことがあった。
結婚してから、家の方には行ったことがない。
しばらく逡巡した後、えいやと思い切って扉を叩いた。
中から出て来た叔母、アンナは、とにかく驚いた。
しかし快く中に迎え入れてくれた。
そしてマーサの経緯を聞くと、泣きながら歓迎してくれた。
「大変な目にあったね。いいんだよ、どうかここにいて。それにマーサが来てくれたら工房も万々歳さ。こちらこそ大助かりだわ」
アンナはライルやジョセフに対し、そんな事をする人たちだとは思わなかったと、マーサの分まで怒ってくれた。
マーサはそれまで怒りを感じていなかった。感じることができなかった。
両親の死後、途方に暮れていた自分を救ってくれたのは間違いなくライルとジョセフであったし、自分がもっと2人と話をしていればこんなことにはならなかったという、後悔の方が大きかったからだ。
けれど、アンナが怒ってくれたことで、救われた気がした。
自分のこの虚しさと悲しみは、持っていて良いものなのだと思えた。
アンナがこのまま家に住んでもいいと言うのを慌てて辞退し、それでもせめて生活が安定するまではと押し切られて、しばらくの間アンナの家に居候することになった。
まずはお風呂に入ってすっきりしておいでと言われ、1人浴室に入った。
カルディン村は湯量が少なく観光には適さないものの、温泉が湧き出ている。
普通は村に1つだけある大浴場に行くが、アンナの家は工房を抱えている。職人たちが入ることもあって、特別に家へ温泉を引くことが許されていた。
アンナ自慢の浴室である。
マーサは久々にゆっくりと湯に浸かり、疲れた心と身体を緩めた。
風呂から上がると、清潔な生成りのワンピースが用意されていた。ネイトの姉のものだろう。
マーサはそのワンピースに袖を通すと、案内された2階の客間に荷物を置いた。
土産も何も持って来なかったと恥じながら、アンナの待つ居間に戻ると、何故かアンナはおらず、代わりにネイトが立っていた。
息を切らせながら、如何にも慌ててやってきたといった様子だった。
「母さんが知らせてくれた。だんなと別れて、ここに住むって……本当に?」
「ええ、本当よ。他に行く所が思い付かなくて……。それに工房を手伝うなら近いし便利だからって叔母さんが言ってくれて…少しだけ居候させて貰えることになったの」
「そんなまさか! これは夢か!」
いつものネイトらしからぬ大きな声だったので、マーサは驚いてしまった。
目を丸くしたマーサに、ネイトは気まずそうに視線を外した。
「すまない……つい。マーサがここに居るなんて信じられなくて……夢じゃないのか。なあマーサ。本当にこの村にずっと居てくれるのか?」
「え、ええ……。もちろん生活が安定したらすぐに別の家を借りるわ。ごめんなさい、迷惑かけて」
「迷惑なわけないじゃないか! ずっとここに居ろよ!」
ネイトはマーサの手を取って、しっかりと目を合わせて必死に訴えた。
マーサはただただ驚いていた。
まさかネイトがそのように言ってくれるとは思わなかったから。
ネイトは自分がマーサの手を握っていることに気付き、慌てて手を離した。
「いや、ごめん……。マーサは辛い思いをしたのにな……。まあ、でもそういう訳だから。
全く迷惑なんかじゃないから、マーサが良ければいつまででもうちに居てくれ。今は疲れてるだろう。夕食までまだ時間がある。ゆっくり休んで」
そう言ってネイトは優しく微笑んだ。
マーサは、久々に自分を気遣ってくれる微笑みを見た気がした。自分でも何が何だかわからない感情が噴き上げてきて、声をあげて泣いてしまった。
ネイトはオロオロとしながら、ぎこちなくマーサの頭を撫でた。
マーサはしばらく泣き喚いた後、疲れてしまいいつしか眠ってしまった。
目が覚めるともう翌朝だった。
どうやらネイトが部屋まで運んでくれたようだ。
(寝顔を晒しただけでなく、まさか運ばれるなんて……や、やっぱり抱き抱えっ……!)
マーサは羞恥に悶えた。
マーサは父とライル以外の異性に触れられたことがほとんどなかった。あるのは握手くらいだ。
真っ赤になった顔をどうにか鎮めようと、パタパタと顔の前で手を振る。
すると、控えめなノックの音が聞こえた。
ネイトだろうかと焦りながら、ババッと音がする勢いで自分の身なりを確認する。
どうやら着崩れたりはしていないようだと確認できると、どうぞと声をかけた。
しかし入ってきたのはアンナで、マーサは目に見えてホッとした。
アンナは目をパチパチとしながら、首を傾げた。
「昨日ネイトと何かあったのかい?」
マーサはぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで首を横に振った。
「そう? ならいいんだけど。ずいぶん疲れていたみたいだね。ゆっくり休めたかい?」
「ええ。もうぐっすり。ごめんなさい、叔父さんに挨拶もせずに……」
「良いのよ。女の長旅で気苦労も多かったでしょう。我が家だと思ってくつろいで。お腹が減ったのではない? 朝ご飯が出来てるよ。主人もネイトもいるから、支度ができたら降りといで」
マーサはお礼を言うと、顔を洗ってから居間へと向かった。
居間に行くと、義理の叔父であるヨハンとネイトがパンを齧っていた。
「昨日は挨拶もせずに寝てしまっていて申し訳ありませんでした。叔母さんのご好意で、しばらく居候させていただくことになりました。本当に甘えてしまってよいのでしょうか……」
「マーサちゃん、事情は家内から聞いたよ。大変だったね。マーサちゃんが良ければいつまでだってうちにいても良いんだよ。
それに、工房も手伝ってくれるんだって?この村は職人気質のやつばかりで金の管理ができるのは家内しかいなかったから、むしろ助かるよ。マーサちゃんのように王都でバリバリ商売してた子からすると、うちの工房だけじゃ物足りないかもしれないけどね。
人生の休養期間だと思って、ゆっくりで良いからやってくれるかい」
「ありがとうございます。こんなに良くしてもらってバチが当たりそうです。生活の目処が立ったら、近くに家を借りますので、それまでよろしくお願いします」
マーサはぺこりと頭を下げると、ちらりとネイトのことを盗み見た。
ネイトはまるで昨日のことなど何もなかったように普通にしていて、マーサは1人恥ずかしくなり、そんな自分を誤魔化すように話を切り替えた。
「もし良ければ、この朝食を頂いたら、すぐ工房にお邪魔しても良いですか? 出来るだけ早くお役に立てるようになりたいのです」
「えっもうかい!? せめて今日くらいゆっくりすればいいのに。ほら、身の回りのものだって揃えなければいけないだろう?」
アンナはそう言ったが、マーサは首を横に振った。
「家から持ってきたものや途中で買ったものがあるから、しばらくは大丈夫よ。それに、仕事がないとなんだか落ち着かないの」
はぁ、とアンナは深いため息を吐いて、観念したように言った。
「全くこんなに若いのにとんだ仕事中毒だ。分かったよ。でもとりあえず持ってきた洋服は出しといてね。長旅だったんだ、洗濯物が溜まってるだろう」
あっとマーサは気付いて真っ赤になる。
これまで仕事漬けで、そうした家の仕事は全てメイド任せだったので、思い付きもしなかった。
「いいんだよ。うちの物だって私が腰を悪くしてから人に頼んでやってもらってるんだ。3人分も4人分も変わりゃしないよ」
「それならせめてお金を……」
「もう! マーサは気にしすぎだよ! いいから早く食べてしまいな!」
マーサは申し訳なく思いながら、おずおずと席に座って朝食を食べ始めた。
「温かい……」
マーサは、こんなふうに誰かと温かい食事を囲むのはいつ以来だろうと考えた。
白パンと、ベーコンエッグと野菜スープという簡単な食事だったが、とても美味しいと感じた。
「なあマーサ。母さんに仕事を教わる前に、まず村のみんなに挨拶に行こう。これからこの村に住むなら必要だろう? 俺が紹介するよ。中にはマーサを知らないやつもいるだろうし」
ネイトがなんて事ないような調子で声をかけてきた。
しかし、ほのかに耳が赤く見えるのは気のせいだろうか。
いや、気にしすぎだと自分に言い聞かせた。
「ええ、そうよね。ごめんなさい気持ちが急いていたみたい。ありがとうネイト」
マーサはにっこり笑いそう答えると、ネイトはばっと違う方向を向いてから残っていた野菜スープを一気に飲み干し、げほげほと噎せていた。
アンナとヨハンはそんな息子を生温かい目で見つめていたが、マーサはネイトの背中をさすっていて、それには気付かなかった。
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