後悔先に立たずというけれど
九重ツクモ
第1話 マーサのこと①
「君の小言にはうんざりだ。もう離婚しよう。
君は商売さえできれば、このコックロイルズじゃなくてもいいんだろう」
マーサは憎々しげにそう言った夫を、驚愕の眼差しで見つめた。
今日もまた仕事で遅くなり、夜も更けてからようやく帰宅しようとしたところだった。
共に働いていた職員たちを外へ出し、戸締りをして商会の外に出た所で、夫ライルが立っていた。
ライルだけではない。その隣には1人の美しい女性がおり、ライルはその女性の腰を抱いている。
彼女のことは知っている。
国内随一と言われるカートン商会の娘なはずだ。
先程まで共に働いていた職員たちが、遠くから何事かと覗いていた。
「えっと……」
「今更何を言っても無駄だよ。僕は彼女を愛している。彼女は美しく、僕を愛してくれて、僕の隣にいてくれる。君と大違いだ。さぁ、この離婚届にサインをしてくれないか」
「で、でも商会の方はどうするの? 私が1人で持っている事業も多いわ。私がいきなり抜けたらそれは」
「いい加減にしてくれ! 君1人だけで商会を支えているつもりか!? 君がいなくても何も問題ない。彼女はカートン商会の娘だぞ! 君のいなくなった穴を埋めて余りある。もういい! 出て行け!」
ライルはマーサに離婚届を投げつけた。
マーサはほぼ無理矢理にその場で離婚届にサインをさせられ、追い立てられるままにコックロイルズ商会を後にしたのだった。
マーサ・ブロイルズとライル・コックスが結婚したのは5年前。
マーサが16歳、ライルが18歳のことだった。
マーサは王都で当時新興の、勢いあるブロイルズ商会の一人娘として生まれた。
父は元々ガラス工芸が有名なカルディン村の出身であった。その村で作られるカルディングラスという工芸品の普及のため、カルディングラスを始めとするガラス製品の販売から、陶器や磁器などの食器・花器類にも裾野を広げて商会を興した。
母は王都で花屋をしていた家の娘で、花器の販売を通じて父と出会い、恋をして、結婚した。
父母は仲の良い理想の夫婦だった。
そんな2人の元に生まれたマーサは、幼い頃から父の手伝いをして商売に親しんでいた。
将来マーサが結婚し、婿を迎えたなら、その婿が商会を継ぎ、2人で商会を切り盛りするつもりであった。
父の友人であったジョセフ・コックスも、同じく王都で商会を営んでいる商人だった。
コックス商会は創業当初からアンティークの雑貨を扱う、創業300年を超える王都でも老舗の商会であった。
しかし二代前から業績は奮わず、可もなく不可もなしと言ったところだ。
飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大するブロイルズ商会に対し、何某か思うところがありそうなものであるが、不思議とこの会頭同士は馬があった。
それ故、マーサも幼い頃からよくコックス家に出入りしていた。
ライルはコックス家の一人息子で、2つ上のこの幼馴染にマーサは密かに憧れを抱いていた。
自分の髪よりも濃い茶色の髪はゆるく巻いていて、甘い顔立ちによく似合った。
マーサは自分の茶色い瞳が地味だと思っていたが、「綺麗な色だね。甘いチョコレートみたい」とライルにその美しい緑の瞳を細めて言われると、本当に自分の瞳も美しくなったような気がした。
ブロイルズ商会を継ぐマーサの婿養子には、ライルだけはなり得ないとマーサは分かっていた。
ライルも一人息子であり、コックス商会を継がなければならない。
それは仕方のないことだと、諦めるしかなかった。
しかし、運命はマーサの想像がつかない方向に転がり始める。
マーサが16歳になったある日、父と母は2人で地方へ商談に行っていた。
母は主に経理の仕事をしており、普段あまり商談には出向かなかったが、その時は商談先で簡単なパーティーがあり、その中で実際に商品を使用してみせる催しがあった。パーティーへの出席には夫婦での参加が必要だった。
馬車で3日ほどかかる距離だ。商談は成功したが、帰り道は激しい雨に見舞われた。
本来なら雨が収まるまで待つか近くの街まで引き返すのが定石だが、1人家で待つマーサのことが2人は心配だった。いっそ本降りになる前に少しでも進んでしまった方がいいであろうと、そのまま馬車を走らせたのが間違いだった。
予想よりも雨足が早く、すぐに本降りとなり、しかも運悪くそこは斜面の近い山中の街道だった。大雨により地盤が緩み、大きな土砂崩れが起こった。
両親が乗った馬車は為す術もなく、その土砂崩れに巻き込まれてしまったのだ。
マーサは3日後、王都の自宅でその報告を聞いた。
予定通り帰らない両親を心配し、自警団に捜索を依頼した翌日のことだった。
マーサは茫然自失となり、声を出すこともなく涙だけを流し続けた。
商会をどうにかしなければいけないのは分かる。
しかし、もうどうしていいのか分からなかった。
マーサはライルの家を訪ね、思わず抱きついて泣いてしまった。
ライルが居れば、少しでも安心できるような気がした。
そしてコックス家の力を借りてどうにか両親の葬儀を終えた後、マーサはコックス商会にブロイルズ商会の援助を求めたのだった。だだ手伝い程度しかしていなかった自分一人では、商会をどうにか出来るとは思えなかった。
「どうか頼ってくれ。他でもない友人の一人娘だ。もう1人の子どものようなものなんだから」
ジョセフは優しく声を掛けてくれた。
ライルも手を優しく握りながら言ってくれた。
「僕も母さんを亡くしてるからね。気持ちは少しくらいは分かるつもりだ。どうか力にならせてくれないか」
そうライルも、当時のマーサと同じ歳に、母を病で亡くしていた。
「結婚しよう。こんな時に言うのは、まるで君の悲しみに付け込んでいるようだけれど……君を支えたいんだ」
この国での成人は18歳である。
マーサは成人していなかったが、男の方が成人していれば結婚することが出来る。
マーサは両親が亡くなってから、初めて喜びというものを感じた。
マーサは涙をこぼしながら、何度も頷いた。
彼となら、一緒に歩んでいける。
彼らとなら、きっと全てうまくいく。マーサはそう信じて疑わなかった。
そうして、マーサとライルは結婚した。
2人の婚姻をもってコックスとブロイルズは縁者となり、商会の権限をジョセフに移した。
マーサは未成年のため商会の代表になることは出来ず、ライルも修行中の身であったため、コックス商会の会頭であるジョセフがそのまま引き継いだのだ。
ジョセフは思い切ってブロイルズ商会とコックス商会を統合し、コックロイルズ商会を立ち上げることにした。
歴史あるコックス商会の名は半分になるが、勢いのあったブロイルズ商会の名を残した方が印象がいい。
それに、今は亡き友との友情の証でもあった。
皮肉にも、マーサの望みであったライルとの婚姻は、両親の死をもって叶えられることとなった。
マーサは将来ライルと共に商会を支えるため、ジョセフに商売の様々なことを学ぶことにした。
ところが、ジョセフから教わることの多くをマーサは既に知っていた。
マーサが行っていた“手伝い”には、商売のいろはが詰まっていた。
父親譲りの商人としての勘とセンスで、あと何年かすれば、1人の商人として十分に通用するであろうと思われた。
商人としてめきめきと頭角を表すマーサに、いつしかあらゆる仕事が集中するようになっていった。
それはマーサさえ最初気づかない程にじわじわと、ゆっくりと起こっていった。
元々ブロイルズ商会の業務には、当然急に他人が引き継いだとて分からないものも多かった。当初、マーサはブロイルズ商会で扱っていたガラスや陶磁器などの仕入れ業務を引き継いでいたのだが、いつの間にか販売店舗の管理や人事の調整も行うようになり、そしていつしか元々コックス商会が行っていたアンティーク類の取引も行うようになっていった。
確かに食器や花器にはアンティークとして扱われるものもある。
しかし元々ブロイルズ商会では、比較的新しい商品を扱っていた。
新しく開発された丈夫で使い勝手のいい食器を民衆に、最新の技術で可能となった繊細な細工が施された花器や美術品としての壺、香水瓶などを貴族に。
アンティークは仕入れの仕方も顧客の層も異なる。
マーサがはっきりと自覚した時にはもう、コックス商会の会頭がやっていたほぼ全ての業務を担っていた。
(きっと、ライルはもう既に身につけた知識なのだわ。お義父さんは彼を支えるために私を鍛えてくれているのよ。彼のために頑張らなくちゃ)
マーサは自分に言い聞かせた。
そうしないと、恩人であるジョセフのことを疑いそうになってしまう。
マーサは愛するライルのため、コックロイルズの未来のため、がむしゃらだった。
ただ、ライルとの時間がほとんど取れないことに、マーサの不安は募っていった。
ライルはマーサによく出掛けようと誘ってくれた。
話題の舞台を見に行こう、新しいカフェに行こう、あそこの公園の薔薇が見頃らしい…本当によく気にかけてくれた。
しかし、マーサには時間がなかった。
結婚当初はそれでもたまに一緒に出掛けたりすることがあったが、結婚し3年も経つ頃には、そうした時間は皆無であったと言える。
ライルも徐々に、マーサに声を掛けることはなくなっていった。
4年が経ち、マーサは20歳になった。
その頃のマーサは輪をかけて忙しかった。
ドレスやアクセサリーなどの服飾系商品を主力としているカートン商会と共同で、カルディングラスを使ったアクセサリーの開発事業が動いていた。
事業の提案をしたのはライルであったが、実際の調整と進捗管理はマーサが担当していた。
業務に追われライルと顔を合わせることすらほとんどなく、昨年まではまだ夕食では顔を合わせいたのだが、その時間を取ることすら難しくなり、寝る前のほんのひと時に、二言三言交わせれば僥倖といった有様だった。
そのひと時が、マーサにとっての唯一の楽しみだった。
しかしそんなひと時ですら、段々と暗い影を落とすようになる。
最初は些細なことだった。
マーサがようやく家に帰り玄関を開けたところで、ライルと鉢合わせた。
通常ならもう寝支度に入ろうという時間だったため、マーサはどこに行くのかと尋ねた。
するとライルは、友人たちと飲みに行くという。
「これから飲みに行くの? あまり遅くまでお酒を飲むと翌日に響くわ。最近忙しいのだし、体が心配よ。ほどほどにしてね」
「……君には関係のないことだろう」
マーサはすぐに気分を害してしまったことを謝ったが、ライルは苛立たし気に出て行ってしまった。
マーサはいつになく棘のあるライルの言葉に戸惑いを感じていた。この前までは、新婚当初の優しく温かな好意を感じることはなくとも、もっと穏やかに接してくれていた。
(私がいつまで経ってもお義父さんの認める商人の嫁になれないから、ライルも苛立っているのだわ。きっと……)
マーサは本当は、自分の状況が分かっていた。
ジョセフは最近、商会にあまり顔を出しにこない。
ライルはジョセフほどではないけれど、やはり自分と違って常に商会にいるわけでは無い。
それに反比例するように、自分の仕事は徐々に増えていく。
しかし、そんなことは認められなかった。認めたくなかった。
マーサにとって、ジョセフとライルは恩人だ。
そんな彼らのことを、少しでも疑いたくはなかった。
マーサはそれから、ライルに会うたびに暗澹たる気分になっていった。
「ねえライル。今度のカルディン村への買い付けに一緒に行かない? ライルも職人たちと顔を合わせた方がいいと思うの」
「それはきみの仕事だろう。ぼくは忙しい。一人で行ってきてくれ」
「最近ずいぶん高価な物を買いすぎではないかしら。いえ、あなたの個人のお金で買っているから別にいいのよ。でも、そんなに使ってしまったら、すぐに無くなってしまうわ」
「余計なお世話だ。なんだ、ぼくが金の管理も出来ない子どもだとでも言うつもりか!」
「最近よく夜に外出しているようだけど大丈夫? お友だちと飲みに行っているの? あまりお酒ばかり飲んでいると体を壊してしまうわ」
「うるさい! いちいちぼくのすることに口を出すんじゃない!」
マーサが21歳になる頃には、もうライルからは怒鳴り声しか聞けなくなっていた。
ジョセフは商会に全く出てこない。家も空けがちで、顔を合わすこともこの1年くらいはほとんどなくなった。
商会はとても順調である。
マーサが実質の会頭となり運営することになったこの2、3年で、大きく成長していた。
元々ブロイルズ商会の顧客だった者たちの中で特に富裕層をターゲットに、またはその顧客の縁者たちにアンティークを広め、逆にコックス商会の顧客たちと繋がりのある者たちに新しいものを広めて行った。
今や消耗品以外の全てのものはコックロイルズで手に入ると言われていた。
正にこの国でも指折りの商会だ。
マーサとて、商売は嫌いではない。性に合っているとも思う。
しかし、ただ虚しさが募っていった。
ライルから離婚を突きつけられたのは、
もうあと数日後に誕生日を迎えるという時だった。
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