第8話





 円花さんのメッセージから二日後。


 俺は、時折視線を感じるようになっていた。


 最初は気のせいだと思っていた。だが、学校に向かう途中や帰宅しているときに、明らかに誰かから視られている気配が何度もあって、すぐに思い直した。


 つけられている。


 一瞬、円花さんの顔が浮かんだが、おそらくは違う。


 彼女はわざわざ尾行なんてしなくても俺の行動のほとんどを盗聴器やカメラで把握できている。今更、そんなことをする必要がないのだ。


 なら、いったい誰がそんなことをするのか?


 その答えはすぐにわかった。


 視られているような感覚を覚えるようになってから、さらに三日が経ったころだ。


 朝刊を取ろうとポストを開けると、手紙が入っていることに気付いた。


「……」


 なんだこれ?


 一瞬、D文庫からの手紙かと思ったが、可愛らしいシーリングワックスで封がされていたからすぐにその可能性は否定された。


 俺に手紙なんて送ってくる奴がいるんだなと訝しく思いながら、封を解こうとして。


 指が、止まった。


 ――まさか。


 思い当たったのは、天真爛漫なあの笑顔。


「なごみか……?」


 思わず振り返って周囲を確認する。犬の散歩をしているおばさん以外に、人の気配はしない。


 今まで俺のことを尾行していたのは彼女なのか? だが、確証がない。状況的に、一番可能性の高い人物が彼女というだけで、証拠は何もないのだ。実際に姿を見たわけでもないから、決めつけるのはよくないのだろうが……。


 これを確認したら、分かるのではないか?


 なんとなく直感でそう感じた。


 俺は恐るおそる手紙を開いて――。


 すぐに、絶句した。


 写真が入っていた。


 真っ赤に染まった手首の写真が。


「なっ……」


 これは――明らかにリストカットだ。しかも白い筋のようなものまで見えているから、相当深く切ったことが分かる。


 俺は動揺のあまり、写真を落としてしまった。花壇へ吸い込まれるように落下した写真から、赤い血が土へ染み出していく光景が一瞬網膜の裏に映った。もちろん、俺の幻想だ。だが、そんな風に錯覚してしまうほどに、悍ましい怨念のようなものがその写真から漂っているのを感じてしまう。


 しばし茫然と写真を眺めてしまった。冷や汗が封筒に落下して、じんわりと染みを作った。


 もう一枚、何か入っている。


 折りたたまれた便せん。


 嫌な予感しかしない。読んでもいないのに、呪詛が書かれていることを感じ取ってしまった。


 震える指で、その便せんを開くと……。


 想像を絶するものが現れた。




 許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。


 私を弄んだ先輩も、あのクソ女も絶対に許さない。


 あなたに近寄るなって言われてどれだけ傷ついたと思っているんですか? わたし、あの後死のうとしたんですよ。悔しくて苦しくて辛くて、歩いているだけでも息をしているだけでも辛くてたまりませんでした。飛び降りようとしたんです。でも、心残りがあったからやめたんですよ。でも、耐えきれなくて思わず手首切っちゃいました。摩耶ちゃんからやめるように言われて今までやめていたんですけどね。えへへ、我慢できなかった。だって、愛しの先輩からあんなこと言われたんですもん。あの毒虫に言わされたのは分かっているんですけどね。だって先輩が私のこと嫌いになるはずないもん。知っているよ。先輩私のこと大好きだもんね。本もいっぱい貸してくれて、優しくしてくれたもんね。わかってる。あの毒虫め。私の先輩をたぶらかしやがって。死ねばいいのに死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしね。


 ねえ、先輩?


 私のこと、まだ大好きだよね? ラインもツイッターもブロックされちゃったけど、私分かるよ。先輩がまだ私のこと本当は愛してくれているって。ねえ、そうだよね? ブロックされたの見たときは涙出たけど、わかってる。わかってるよ。あいつのせいだって。ねえ、先輩声聞きたいな。先輩の勧めてくれた本の話もたくさんしたい! 私を不安にさせないで? 私を苦しめるようなことはもうやめて。お願いだから。お願いだから。あんなやつより、ずっと前からあなたのこと好きだもん。摩耶ちゃんがあなたの小説を見せてくれたときから好きなんだ。だから、無視するのやめて。




 ぞわぞわしたものが背筋を走り抜けた。


 手紙の内容はまったく支離滅裂だった。怒りと憎しみと不安と怖れと歪んだ愛を一斉に煮詰めて抽出したような文面で、狂気的なほどに力強い筆圧で書かれてインクが血のように滲んでいる。呪詛と願望と妄想の塊。名前が書かれていなくても文脈で誰が書いたのか容易に理解できてしまう。


 これほどの不協和音を感じる文面を、あのなごみが作り出したのか――?


 意味が分からない。あいつは、そんなやつではないはずだ。底抜けに明るくて、優しくて、あの円花さんに立ち向かうくらい芯の強いやつ。


 俺が抱いていた綾瀬なごみのイメージと、この手紙の文面があまりにも一致しない。

 

 アンビバレントな感情とあまりの不協和音に、俺は眩暈さえ覚えた。


「……なんで、こんな」


 俺は口を押えながら呻いた。


 最初から、こうだったのか? 気付かなかっただけで。文面的にリストカットを繰り返していたそうだから、たぶんそういう傾向はあったのだろう。摩耶が止めていたらしいが……。あの赤いリストバンドは、傷を隠すためだったのだろうか。


 その自傷癖が、俺の拒絶をきっかけに再び羽化をした。おそらくは、それで間違いない。


 小説であらゆる人間を書いてきた。だから、人間というものの奥深さと複雑さは知り尽くしているつもりだった。


 だが、こんなふり幅が広い壊れ方をする人間を創作の中でも見たことがない。まるで、暴走するメトロノームのような不安定さだ。


 俺は立っていられなくて、その場に座り込んでしまった。


 大きなショックに頭が混乱する中、俺はもう一枚の便せんに気付いた。


 そこにはこう書いてあった。



 

 あいつに書いた作品を見せてください。


 今日の夜十時に、近所の第七公園に来て。


 来なかったら、自殺しますから。




「……」


 冷たい脇汗が止まらない。


 本気だ。おそらくは、本気で死のうとしている。


 そう思わせられたのは、手紙の半分が赤黒く滲んでいたからだ。


 震える身体を丸めて、乾いた笑いを零してしまう。


 事実は小説よりも奇なりって本当なんだな。


 円花さんのどす黒い瞳が頭をかすめ、手首を引き裂くなごみの虚ろな瞳が想像で浮かんでくる。


 俺が壊した。


 俺が、壊したんだ。


 俺の小説が、人間を二人も壊した。


 


 


 


 


 

 


 


 

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