第9話




 

 闇を深めた冬の空は不気味だった。


 点滅する街灯が、俺の心臓の鼓動とリンクして不安を呼び起こしてくるようだ。白い息がぼんやりと浮かぶ。街路を突き進む俺の足取りは、ふくらはぎに乳酸が蓄積しているかのように重たかった。


 第七公園に向かっていた。コピーした原稿用紙をカバンに詰めて。


 刺すような寒さで、小指がじくじくと痛んだ。ロキソニンがまったく効いていない。


 俺は顔をしかめながら、地面に目を落とした。


 黒猫が俺の姿を見て硬直し、こちらの様子をうかがいながら去っていく。


 不吉の予兆にしてもチープすぎて笑えない。次は靴紐でも千切れるのだろうか? 


「……」


 くだらないことを考えても、向かう先の現実と繰り返す胃痛が無くなることはない。


 円花さんとの約束を忘れたわけではなかった。だが、こうなった以上会いに行かないわけにもいかない。一応、スマートフォンも家に置いてきたし、家を出てすぐに自分の服をチェックして怪しい機械が紛れ込んでいないことも確認したが、それでも完璧ではないだろう。あの人は千里眼の使い手と疑うくらいに勘が鋭い。バレて、最悪小指が飛ばされることくらいは覚悟しておかないといけないだろう。


 気が重いなんてものじゃなかった。


 自殺しかねない人間を止めるために、自殺行為に手を染めている。


 わけがわからなくて、笑いだしたくなるくらいだった。


 公園にたどり着いた時には、十時を二分だけ超えていた。


 公園の入り口が魔界の門に見えた。公園の奥の道路から聞こえてきた軽トラックの音が、この先に潜む獣の唸り声のように感じられて、億劫さが増していく。


「……先輩」


 俺は、小さな悲鳴を零した。


 完全に予想外だった。後ろに、なごみが立っていたのだ。


 灯りに照らされた彼女は、赤色のコートを身に着けていた。血の色を連想するその姿に、俺は完全に気圧される。


「な、なごみ……」


「先輩……来てくれたんですね」


 俯いていたなごみは、そのまま俺に抱き着いてきた。突然の事態の変化に、頭が追い付かない。


「お、おい」


「よかった……よかった……! ちゃんと来てくれた……嫌われて来なかったらどうしようって、苦しくて……」


 俺の存在を確かめるように柔らかい身体を押し付けて、額を擦り付けてくる。俺は思わず周りを見てしまった。もしこの光景を円花さんに見られていたら、指が一本飛ぶどころでは済まない。


 引きはがそうと考えた瞬間、なごみが顔を上げた。


 その表情を見て、絶句しないわけがなかった。


 数日近く会っていなかっただけなのに、なごみの頬は信じられないくらいに痩せて青白かった。まるで、ぎりぎりまで血を抜いた後のように。ほとんど寝れていないのか目の下には隈ができていた。


 そして、ドブのように濁り切った茶色い瞳――。そこに映る俺の影は亡霊のように形がはっきりしない。


「……」


 これが、あのなごみなのか。


 天真爛漫でエネルギッシュな彼女の姿は、欠片もない。


 これではまるで末期症状の病人のようではないか。


「ねえ……先輩、写真みてくれた?」


 なごみは、にこりと口元を緩めて訊いてきた。何重も包帯が巻かれた腕を見せびらかしながら、運動会でできた怪我を親に誇る子供のような調子で、自慢してくる。


 そうだ、あの下には惨劇の跡があるんだ。


「写真って……。だ、大丈夫なのか……? あんなに血が……」


「えへへ、綺麗だったでしょ?」


 俺の目はきっと点になっていたと思う。


 何を言っているんだ、こいつ?


「結構深く切れちゃったからいっぱい血があふれたんです……。私赤いもの好きだから、先輩にも見てもらいたくて」


 誰だよ、お前。


 そう口に出さなかっただけでも、我慢した方だと思う。


 なごみから伝わってくる熱が、途端に気色の悪いものに感じられる。あの手紙を見た時よりも不協和音が俺の中で激しくなっていた。円花さんのことは関係なく引きはがしたいと思ってしまった。だが、動けなかったのはなごみの目が怖ろしかったからだ。引きはがせば、爆発するんじゃないか。あの手紙のように……。


「ところで、先輩……。小説は持ってきてくれましたか?」


「ああ……」


 俺はカバンの方に一瞥をくれて言った。


「持ってきたよ、約束通り」


「そうですか」


 なごみは感情の読めない平坦な声を出した。


 公園の中にある人工の光に包まれたベンチを指さして、目を細める。


「あそこで読みたいです。行きましょう」






 常緑樹の枝が、闇の中で怪しく揺れていた。


 おどろおどろしく蠢く影を目で追っていると、不穏な気持ちが少しだけ落ち着いた気がした。さざめく風の音が、少しだけ距離を置いた俺たちの間を駆け抜けていく。


 なごみは躍り上がった原稿用紙を手で押さえ、静かになってからページをめくった。


 文字を追う瞳は、相変わらず暗澹とした色に沈んでいて。


 その感情の無さが、薄気味悪く不安だった。


 目の前で作品を読まれているときは緊張するし、そわそわとしてしまうものだが、今回はそこに魂を削るような疲労感が伴っている。こんな感覚は、編集に見てもらっているときにさえ感じたことはない。ページをめくる音が、死神からの預言を受けた人がめくるカレンダーの音のように聞こえてしまう。


 俺は居たたまれなかった。読まれているのは俺と円花さんの物語だ。そんなものを、壊れたなごみに見せているのである。爆弾の導火線に火をつけるような行いをしているに等しく、その傍で待機している自分が愚かしく思えてならない。


 動けなかった。


 逃げてもなごみは気を狂わせるだろうし、どうすることもできない。


「……」


 なごみの表情に変化があったのは、半分ほど読み進めたときだった。


 急速に眉根が寄ったかと思うと、急に目を伏せたり、深くため息をついたり、感情が明らかに動いている。


 そして終盤に近付くと、なごみは原稿用紙を力強く握りしめ皺だらけにした。


「おい……」


 作者の習性で反射的に注意しようとして、すぐに言葉をつばとともに飲み込む。


 なごみが、涙をこぼしたからだ。


 彼女が流した魂の代謝が、原稿用紙に降り注ぐ。何かに耐えるように唇を噛んで震えていた彼女は、逡巡ののちにこう口にした。


「なんで……」


「……」


「なんで、こんなに面白いの……?」


 彼女は俯いて、なんでと何回も何回も繰り返した。


「だってこれ、このヒロイン……あのクソ女でしょ……? なんで、そんなやつに感情移入しているの私……。意味わからない」


「なごみ……」


「嫌だ……こんな気持ちになりたくなかった……。否定してやろうと思っていたのに……くそみそに貶して、先輩にこの物語を書くのをやめるよう言おうと思っていたのに……」


 彼女は嗚咽を零しながら、感情を爆発させた。


「ずるいよ! こんな面白いなんて思わなかった!」


「……」 


「許せない……どうして私じゃないの? どうして、あの女なの? あんな先輩を食い物にするような女……何がいいかわからないよ!」


 なごみは原稿用紙を地面にたたきつけ、立ち上がった。ボロボロと止まらない涙が痛々しくて、見ていられない。


 だが、俺は目を逸らせなかった。


 それは作者としての矜持なんて高尚なものではない。


 憎悪するほどに嫉妬する相手と重なるヒロインが出てきた小説を読んで、それでも泣きながら面白いと認める彼女の姿が美しかったからだ。


 俺は、口元が吊り上がりそうになるのを必死に堪える。


 先ほどまでの億劫さが、いつの間にかむず痒いほどの歓喜に変わっている。

 

 ああ、なんてクズな感慨。


 壊れたものを決定的に破壊した瞬間なのに、俺の頭には物語が浮かんでいた。


 なごみのその後を勝手に夢想していた。


「先輩、なんとかいってください! 私じゃダメな理由はなんなんですか!」


 お前では、理解できないから。


 俺の中に潜む狂気を――。


「……」


 言葉には出さなかったのは、中途半端な良心が働いたからだ。


 良心……?


 違う、そんなもので自分の感情をごまかすのはやめよう。俺はただ観測者になっていただけだ。


「なにも言ってくれないんだ……」


 なごみは、弱弱しい瞳で俺を睨む。それでもなお、何も言わない俺に絶望したのだろう。


 彼女は懐から、包丁を取り出した。


「もう、無理です……。これ以上、耐えられません」


「そうか……」


 むき身の刃が、光を鈍く反射している。


 背筋が凍り付いて腰が勝手に引けてしまった。もしかすると、刃傷沙汰に発展する可能性もあるかもしれないと心のどこかで思っていたが、実際にこういう事態に遭遇すると、どうしたって本能的な恐怖が勝ってしまう。こちらに向いた刃の切っ先を戦々恐々と見つめながら、ゆっくり立ち上がり、俺は少しずつ距離を置く。


 なごみの手は、ぶるぶると震えていた。


 涙にぬれた顔で、彼女は声を絞り出した。


「私のものにならないなら、死んでください……」


 そのときだった。ライトの外からぬっと腕が伸びて、なごみの首を後ろから締め上げた。


 突然の事態に目を見開いたなごみは、くぐもった悲鳴を上げた。何かを叩きつけるような鈍い音とともに、なごみの全身から力が抜けていく。刃物が音を立てて転がった。


 円花さんの漆黒の瞳が、なごみの髪の隙間から覗いていた。


「え……?」


 あまりにも唐突すぎて理解が追い付かない。思考回路が正常運転を取り戻す前に、なごみが糸の切れたマリオネットのようにうつぶせに倒れた。


 その背中から、大量の血が広がっていく。


「危なかったね、芳次君」


 円花さんは手に着いた赤黒い液体を舐めながら、妖艶に微笑んでいた。その手にはナイフが握られている。


「なごみ……?」


 俺の首はさび付いたように重たく動いた。呆然と見つめる先には、動かなくなったなごみの虚ろな目があった。今度は感情だけではない、生命の息吹すら消失して虚無の闇となっている。


 なごみが、死んだ。


 あまりにもあっさりと。


 あっさりと、円花さんが殺したのだ。


 劇的な展開すぎて、小説的かどうかすらわからない。


 震える手をなごみへと伸ばそうとすると、目の前に来た円花さんにその手を取られた。


「キミには本当呆れたよ。誠意を見せてくれたと思ったのに、ちょっと脅されたくらいであっさりと約束を破るんだから」


「放してください……なごみが……」


「黙れよ」


 円花さんは冷たく言い放つと、俺の口に何か布のようなものを押し当てた。


 驚いて息を吸った瞬間、視界が急激にゆがんだ。なにかの薬剤を嗅がされたのだと気づいたときには、もはや手遅れなほど酩酊状態になって、立っていられないほどになっていた。尻餅をついた俺が最後に見たのは、恍惚の表情を浮かべる殺人鬼の姿だった。


「大丈夫。ボクはキミと違って、約束はちゃんと守る方だからね。……心配しなくても、従妹にはちゃんと会わせてあげるよ」


 


 



 


 


 


 


 


 


 

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