第7話
小説こそがすべてだった。
小説を書ける間は、生きている気がしたからだ。文字を書きながら五感のすべてが物語の中に溶けていく感覚は、射精の快感よりもずっと気持ちがいいものである。世界が俺を祝福しているようにさえ思えた。
その間は、俺が何者であるのかも思い悩む必要もない。生まれてこなければ良かったと、教室の隅で机に突っ伏しながら憂鬱になるような薄暗い自分の性根を忘れられて、「芳次」という薄っぺらい人間の自己嫌悪さえ消えてなくなるように思える。
俺は生来、誰かに好かれるような人間ではない。透明で、霧のように存在感が希薄な人間だ。そんな自分を忌避して寂寥を覚えるくせに、独りでも構わないと無意味な強がりで斜に構える弱い弱い陰キャの一人なのだ。庭に放棄されたコンクリートブロックの下にいる、ダンゴムシのような存在。人知れず子供にさらわれ、ズボンのポケットの中に入れられたまま洗濯されて、静かに死んでいく。
そんな、取るに足らない生き様しかできない。
そう思っていた。
でも、摩耶が俺に言ってくれたんだ。
――小説を書いてみようよ。
芳次の陰気な物語を読んでみたい、と穏やかに笑いながら。馬鹿にしているようで、自分を無価値だと信じてやまない俺に価値を知ってもらいたいと気遣ってくれていた。
――芳次を必要としてくれる人は必ずいるから。
それが、小説を書いたきっかけ。そして俺が小説という快楽を生み出す芸術に狂ったきっかけでもある。
俺は、小説を書いてたしかに多くの人々から必要とされた。
だが、それが欲しかったわけではない。
俺が本当に欲したのはすべてを忘れられる快楽と、摩耶の笑顔だった。
俺の小説を読む、摩耶の笑顔が好きだった。
俺の小説の感想に対する楽しげな語りを、ずっと聴いていたいと思えた。
俺は、小説で、俺の生き様で、摩耶を喜ばせることに言い様もない喜びを感じていた。
歪んだ、愛だった。
だから、円花さんに見初められたのかもしれない。
俺は小説に脳を溶かされた、イカれた人間だから。
俺は、キーボードを叩いていた。
ギプスをつけられた小指のせいで感覚が狂って最初は難儀したが、だんだん慣れてきて文字を紡ぐことに集中できている。
明かりを消した薄暗い自室で、ぼうっと光るモニターを睨みつける俺は、物語の中に溶け込もうと没頭していた。
まだ、完全に世界には入り切れていない。藤巻くんのハスキーな声は聞こえないし、都子の匂いも感じない。夕焼けの教室だけがボンヤリと広がり、野球部の威勢のいい掛け声だけが遠くに木霊している。
まどろんだような状態がずっと続いていたのは、次の展開に悩んでいて何回も書き直していたからだった。
「……違う」
俺はバックスペースを押して、書きだした世界を消していく。
夕焼けの教室は消失した。
再度教室にいる二人を思い浮かべ、憂鬱な息を吐きながら指を動かす。
今書いているのは藤巻君が告白するシーンの都子視点だ。一度は断ったはずの告白を都子は受け入れるのだが、そのときの心情が上手く書けない。藤巻君との関係の変化を怖れる都子の葛藤や受け入れるまでの気持ちの変化が、どうにも空々しいものに感じられてしまう。クライマックスに近いシーンだけに、より繊細かつ慎重に書きたいという気持ちが空回りしているせいか。頭の隅に浮かんでくる円花さんの影が気になってしまうからか。
いや、そもそも……俺が書きたい都子はこうなのか?
藤巻君と都子が結ばれて終わるありきたりなハッピーエンドを、円花さんに読んでもらいたいと本当に思っているのか?
きっと、円花さんは喜んでくれる。
これは、俺たち二人をモデルにした話なのだから。
だったら、いいじゃないか。このまま書いてしまえば。
疑問を感じて、立ち止まる必要がどこにある?
「……」
バックスペースを押した。
やっぱり、駄目だ。どうしても都子の気持ちが書けない。
そんなときだった。ベットに置いていたスマートフォンが震えた。
軽く伸びをして、スマートフォンを確認しに行くと円花さんからの通知が表示されていた。
『執筆ご苦労。続きに悩んでいるようだけど、がんばって』
思わず振り返った。
なんで続きに苦戦していることがわかったんだ? まさか、家にまでカメラを設置しているんじゃないだろうな……?
円花さんならあり得そうだから怖い。
『ありがとうございます。頑張りますね』
無難なメッセージを送ると、二秒で既読がついて返信が来た。
『あの後、あの女とは会ってないよな?』
怖すぎるでしょ、この人。
『会ってないです』
『そうか。それは何よりだ。SNSは全部ブロックしたよな? 連絡帳も削除したか? 着信拒否設定も忘れるなよ』
『全部やりましたよ。円花さんから紹介された病院から帰ってすぐに』
今日食べたとんかつの油が、胃の中で存在感を増して重たくなる。スパイアプリで全部チェックしているくせに、試すようなことを聴いてくるからタチが悪い。こうやって俺の従順さを確認することで、彼女は支配欲を満たし、俺の気持ちの変化に対する漠然とした不安を解消しているのだろう。
喫茶店での話し合いは四日前のことだ。
あの後、なごみとは一切会っていない。
会えるわけがない、あんなことがあった後に。
俺はなごみの心にナイフを突き立て、血が噴き出すほどに深く切り裂いたのだ。悲痛なまでの告白を無視し、その恋心を踏みつけにし、慟哭を上げさせた。
――最低。
なごみの言葉を思い出し、胸に痛みが走った。
俺は摩耶の親友になんということをしたのだろう。円花さんを選び、なごみの気持ちを拒否するにしたって、やり方はあったはずなのに。
円花さんを怖れるあまり、俺は最低なやり方を選んでしまった。
「……謝りたいな」
せめて、それくらいはしたかった。
それが俺の自己満足でしかないことはわかっている。でも、奴隷根性の染み付いた空の心に残った良心の欠片が、彼女に謝りたいと言ってくる。
俺は、つくづく嫌な奴だ。
なごみの顔をみたいと思っている。
今、どんな顔をしているのか。どんな思いを抱いているのか。天真爛漫な彼女の心の傷に思いを馳せると、毛布にくるまって泣いている描写が勝手に浮かんでくる。
スマートフォンが鳴った。
『誰に謝りたいの?』
俺は、苦笑いを浮かべるしかなかった。
なんて、小説的なんだろう。
『従妹に謝りたいなと思ったんです。……あいつには、迷惑かけっぱなしだから』
『ふうん』
円花さんの目は、きっと冷たくなっている。
『まあ、それならいいよ』
もう亡くなっているしね、という心の声が聞こえてきそうだ。
『ところでさ』
『はい』
『キミ、従妹に会いたいでしょ?』
返しに困る文章が来て、俺は固まってしまった。
なんて言えばいいんだ。「会いたいです」なんて即答しようものなら、明日どんな目に会うかわかったものではない。彼女は独占欲の鬼だ。肉親とはいえ、俺が異性と会いたがることを絶対に良しと思わないだろう。
『……ボクに忖度をする必要はないよ。別に、どう答えても罰するつもりはないから』
俺の心まで、彼女はお見通しということか。
ラインの吹き出しがもう一度浮上した。
『キミの誠意は見せてもらったからね』
『はい』
スマホを握る手が湿っていた。
円花さんの本心がまるで読めない。
ここは、彼女の言葉通りに本心を言っていいのか?
数分ほど悩んで、ええいままよ、とスマートフォンをタップした。
『会えるなら、会いたいです』
『だよね』
淀みなく一秒で返信が来た。
『なら、会わせてあげようか?』
目を見開いた。何を言っているのだ、円花さんは。
『……どういうことです?』
『そのままの意味さ。いつも小説を書いてくれるからご褒美だ』
一週間後、ボクの家においでよ――。
ラインのメッセージはそれ以降来なかった。
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