第6話
小指が痛い。
くるや書店の近くにある、フランチャイズチェーンの喫茶店。俺たちは、その隅にある席にいた。
姦しい学生たちの声がノイズキャンセリングイヤホンをつけているかのように、くぐもった調子で聴こえる。コーヒーミルの甲高い音さえ何処か遠く、貪欲な怪物のごとく音を飲みこむ冷たい沈黙に、俺は吐き気さえ感じていた。
小指が痛い。
汗が止めどなく溢れてくる。緊張のせいなのか痛みのせいなのか、もはや曖昧。俺はここに居ていいのだろうか? そんな無責任な疑問さえ感じてしまうほどに、濃密な不安で押しつぶされそうだった。
店員がお冷を注いで帰った。俺の、お冷だ。何回飲み干せば良いのだろう。さっきから水ばかりが減っていく。
小指が痛い。
向かいの席に座るなごみは何も言わず机ばかり睨んでいた。彼女が頼んだコーヒーはまったく減っていない。最初に一口飲んだだけで、ピンク色のリップの跡が綺麗に残っていた。
コーヒーソーサーが、小さな舌打ちを奏でる。俺の隣で優雅にコーヒーを飲んでいた円花さんが、カップを置いたのだ。ありきたりな音さえなにか含みがあるように感じられたのは、俺の神経がそれだけ張り詰めているからか。
二人とも、喋ろうとしない。
声を発したら、なにかが爆発すると察しているかのように。
小指が、痛い。
ズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキ。
オノマトペが、ずっと脳内で暴れていた。
何百回暴れただろうか?
突然、なごみが顔をあげた。
「……先輩、なんでその女の隣に座ったんですか?」
心臓が早鐘を打った。
この喫茶店に来たとき、先になごみと先輩が向かい合う形で席についたのだが、俺は一瞬悩んで円花さんの隣に座ったのだ。そのときのなごみの舌打ちだけで俺は胃が縮んだというのに、蒸し返してくるとは……。
「いや……」
言葉なんて出てくるわけがない。
円花さんの隣に座らなければ、痛み続ける小指と泣き別れしそうな気がしたからなんて、この状況で言えるわけないだろう。
円花さん、カッターナイフちらつかせていたし……。
「私の隣に座りましょうよ。危ないですよ、そっちは」
「……」
「聞いてます? 先輩」
「嫌なんだとさ」
円花さんが、くつくつと笑いながら告げた。
「彼、猫アレルギーなんだよ。卑しい雌猫の隣に座ると蕁麻疹が出てしまう」
「はぁ?」なごみの眉が吊り上がった。「何言ってるんですか、あなた。頭おかしいんじゃないですか?」
「あはは、頭がおかしいだってさ。ボクよりも低能の雌猫が何を言っているんだろうね?」
「雌猫雌猫うるさいな。お化けみたいに真っ白な顔してるくせに」
「それで罵倒したつもりかい? 笑わせないでくれ」
円花さんはコーヒーを飲み干して、ゆっくりと微笑む。なごみのことなど相手にもならないと言わんばかりの余裕を見せていた。
円花さんを睨んでいたなごみは、何かを堪えるように低い声を出した。
「……先輩、いいから離れてください。そいつが先輩になにしたかわかってるでしょ?」
俺は俯いて唇を噛んだ。
さっきからずっと、小指は痛み続けている。
「心外だな。ボクが、なにをしたっていうんだい?」
「……とぼけないでくださいよ。あんたでしょ、先輩の小指を折ったの」
「そうだね。それがなにか?」
あまりにもあっさり言うものだから、俺もなごみも啞然としてしまった。
「ボクに隠れてこそこそ他の女と密会していたんだから、当然の罰だろう? それに、折れただけだ。また元に戻るんだからいいじゃないか」
「……」
「些末なことで、いちいち目くじら立てる必要がどこにある? 別に小指一本くらいなら小説は書けるのだから――」
机が、激しく振動した。なごみのコーヒーがひっくり返り、溢れ出したコーヒーが机上を汚す。
なごみが叩いたのだ。
「ふざけるなっ! あんた先輩のことなんだと思っているの!」
「……」
「指を折ることが些末なわけないでしょ! 立派な傷害だからね! 警察に突き出されたっておかしくないことしてるんだよ! そんなことも分からないのっ!」
なごみのもっともすぎる言い分に、円花さんは白けた目を向けているだけだった。
やったことに悪意さえなく、むしろ正当な行いだと感じているくらいだから、円花さんに良心の呵責なんてあるわけがない。感情の映さない黒い瞳に、俺は背筋が凍る思いがした。
彼女はきっと自分の玩具を大切にするタイプだ。だが、同時に必要と感じたら壊すことにも何の躊躇いもないのだと思う。
怪物じみた精神性だった。独占欲の鬼。それが、鈴木円花――。
なごみが激しく歯軋りして、円花さんに指をさした。
「絶対に許さない……。先輩、こいつを警察に突き出してやりましょう!」
「あー、やめた方がいいよ」
円花さんは、まったく動じることなく言った。
「ボクを突き出せば、彼が死ぬ」
「……はぁ?」
「死んじゃうよ、本当に。だって彼、ボクのおかげで再び小説を書けるようになったんだもの」
円花さんの言葉に、なごみは目を見開いた。
あまりのバツの悪さに思わず目を逸らした。なごみの顔を直視できない。円花さんの言葉は俺たちの関係の告白に他ならず、作品の再開を真摯に待ち続けてくれていたなごみへの裏切りに他ならないから。
小指が、たまらなく痛い。
「先輩……どういう、ことです?」
なごみの唇は微かに震えていた。
「書けなくなったんじゃなかったんですか……? 摩耶ちゃんがああなってから……書いてないって……」
「……すまない」
俺は重く息を吐いて、声を絞り出した。
「書けるようになったんだ……。円花さんの言うとおり……」
「な、なんで……?」
「ボクが理由を与えてやったからだよ」
円花さんが俺の言葉を引き継いだ。
「ボクの恋人になって、ボクのために小説を書くようにお願いしたんだ。『大切な人に読んでもらいたい』というのが、芳次くんが筆を執る一番の動機だからね……。今は、ボクがそうなったんだ」
「恋人なんて……ふざけないでよ。あなたに、あの摩耶ちゃんの代わりが務まるわけないでしょ? それに、先輩は……私の……」
何かを言い淀んだなごみに、円花さんは冷たい微笑みを向けて「論より証拠だ」と、鞄から原稿を取り出した。
俺が書いた、小説の原稿を――。
「それ……」
「ああ。彼がボクのために書いてくれた小説だ」
絶句するなごみへ見せびらかすように。円花さんは原稿を赤子と思うがごとく、愛さえ感じる所作で抱きしめた。
「芳次くんと、ボクの小説なんだ。……ボク達の愛の結晶」
「……」
「ふふふ、残念だったね。芳次くんは、キミのためには小説を書かないよ。キミなんかのためにはね」
なごみの手がブルブルと震えた。鬼のような形相で、嘲弄してきた円花さんを睨みつけ、ぎりぎりと歯を噛み締めている。
「……ざ、けるな。……先輩は、私のものだ」
「声が小さくて聞こえないよ?」
「先輩は、私のものだ!」
なごみの怒号が、店内に轟いた。遠くに聴こえていた雑音が一斉に静まり返る。
「あんたみたいなDV女のものなんかじゃないっ! 私の方が、あんたなんかよりもずっとずっと先輩のこと好きだもん!」
「……」
「私だって……! 私だって、先輩の理由になれるんだから! あんたなんかよりもずっと先輩を大切にできるし、支えてあげられる!」
「……」
「先輩から離れろ……! 毒女!」
円花さんの目が深刻なほどに黒く染まった。獲物に毒針を差し込もうとする肉食昆虫のような危険な雰囲気が、彼女から漂っている。
円花さんはフォークを取り出して、その切っ先をなごみへと向けた。
「離れるのはお前だ、薄汚い雌猫。お前が近づくと、ボクの芳次くんが汚れる」
「こっちの台詞だよクソ女っ!」
「お、おい……! 二人とも落ち着けよっ」
さすがに看過できなくて、俺は二人の間に割って入った。
「どいてください先輩! そいつだけは許さないっ!」
「やめろって……! ま、円花さんもフォークしまってください! 周りが見てますよ!」
俺の言葉に、円花さんは舌を鳴らしてフォークを机の上に置いた。興奮して身を乗り出してきたなごみも、円花さんを睨めつけながらゆっくりと席へと戻った。
ほっとしたのも、束の間。
円花さんの瞳が、こちらへと向いた。
「芳次くん。誠意をみせるんだ」
「……いや」
「できるだろ? さっき、約束したんだから」
有無を言わさない口調。
小指が、激しく痛んだ。ズキズキがやまない。汗が止まらない。
言わなければならない。できなければ、俺の指は冗談抜きに飛ばされる――。
なごみを見る。怒りに顔を歪めたなごみの瞳は、微かに濡れていた。単なる憤怒だけではない、もっと複雑な感情に支配されているのだろう。嫉妬や焦燥、不安、絶望……。
なんて、人間らしい。
優しくて、醜くて、恐ろしく、面白い。
小指の痛みが、むず痒い。
「……俺は、円花さんのものだ」
「……っ」
なごみの表情が、激しく揺れ動いた。
罪悪感が斬られた後の血のように広がる。胃が縮むのを感じながら、俺は続けた。
「……だから、もうお前とは会えない。円花さんが、それを望んでいるから」
「……なにそれ」
なごみの声は震えていた。俺を射抜く眼差しも、どこか陽炎のごとく不鮮明で弱々しい。
「先輩、その女から言わされているんでしょ? じゃないと、先輩がそんなこと言うわけない」
「……」
「なんで何も言ってくれないんですか? ねえ、先輩……」
「……ごめん」
謝ることしかできなかった。
たしかに、言わされているのは本当だ。だけど、俺が円花さんのものであることに嘘はないし、彼女のために「なごみを切り捨ててもいい」と思っている自分がいることも確かだった。
そう、円花さんがいればそれでいい。
それだけで、いいんだ。
「……もう俺に関わらないでくれ」
「――」
なごみが身を乗り出して、円花さんの頬を張った。
乾いた音が店内に木霊する。
「……」
なごみは獣のような荒い息をこぼしながら、叩いた手で、リストバンドのついた腕をおさえる。きつく吊り上がった目からこぼれ落ちたのは、悲痛の証。
なにも言えるわけがなかった。なごみに言葉をかける資格なんて、彼女の気持ちを踏みにじった俺にあるわけがない。
「……最低」
なごみはそれだけ言うと、鞄をつかんで席を立った。服の裾で目を拭きながら足早に店内から出た彼女を、反射的に追いかけようと腰を浮かしかけて、思い直した。
テーブルに溢れたコーヒーと同じだ。
俺となごみはもう、戻れない。
「……ふふ」
円花さんが、白い指先で赤くなった頬に触れながら、妖艶な笑みを浮かべている。
ドス黒い瞳に、背筋が凍る思いがした。
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