第4話
夜の帳が降りたころに、図書室の閉室時間となる。
俺たちは昇降口から出ると、空を見上げた。
冬の夜空が綺麗な理由は、空気が乾燥しているからだ。大気中の水蒸気が少なければ少ないほど、星が燦々と輝いて視える。今日はとくに乾いているからか、なかなか見応えのある星空になっていた。
「……綺麗だね」
白い息を吐きながら、円花さんがありきたりな感想を口にする。
「そうですね」
「最近まで曇っていたのが嘘みたいだ」
円花さんの嬉しげな横顔は整然とした曲線を描いていて、黒田清輝の美人画を思わせる美しさがある。整っていながら生命的で、水々しい。
俺の視線に気づいた円花さんが、こちらを見て破顔した。
「芳次くんは、星よりもボクなんだね」
「……たまたま見ていただけです」
「ははは、照れるなよ。見惚れてくれるのは嬉しいさ」
円花さんは肘でつつきながら俺をからかう。やられてばかりで情けないが、この人をからかえる気なんてしないし、おそらくはずっとやられ放しなのだろう。
元より俺たちには明確な上下関係があるから、その図式は初めから決められているのだが。
あの日、俺の暴走をカメラに撮られてから。彼女のためだけの小説を書かないと、この映像をしかるべき機関に提出すると脅されてから。
俺は円花さんの奴隷になったのだ。
だんまりを決め込んでいた俺の裾が、円花さんに引っ張られた。
「……なあ、芳次くん」
「はい」
「今日、空いているかい?」
円花さんの頬が桃のように色づいていたのは、きっと寒さのせいだけではない。
恥じらい方のアンバランスさに戸惑ってしまう。あれほど大胆に色仕掛けをしてくるくせに、学校中に盗聴器をしかけて監視してくるくせに、放課後デートへのお誘いには普通の少女のような反応をみせるのだから。
「とくに予定はないですが……」
「なら、本屋にいかないか?」
本屋というワードに、一瞬ドキリとしてしまった。
「本屋ですか」
「そ。いい本屋を見つけたからさ、君と行きたくて」
「へぇ……。でも、この辺で本屋といったら限られますけどね。ひょっとして商店街の古本屋ですか?」
「いーや、そこじゃないねぇ」
円花さんがニコニコと告げてくる。えらく上機嫌だ。そんなにも、俺との放課後デートを喜んでくれているのだろうか?
「なら、どこです?」
「キミの家までの帰り道の途中にさ、歩道橋の近くに本屋があるだろう? そこに行きたいんだ」
冷たい脇汗が流れた。
そこは、三日前になごみと会った書店だ。
「そ、そうなんですね。そんな場所に、本屋があったんだ……」
「うん。小さな本屋みたいだけどねぇ。くるや書店っていうんだ。一度行ってみたいと思っていたのさ」
「……」
乾いた笑いを零してしまう。
円花さんの家は俺とは反対方向にあるはず。いや、本好きな円花さんなら本屋の場所くらい知っていてもおかしくはないのか?
ただの偶然?
「買いたい本があるんだよ」
円花さんは、笑顔のままだった。
「『黒岩りりさは転生して悪役令嬢になりました』、『恋と銀狼と桜餅』、『ダンジョンで罠にはまって出られません』二巻まで、『沛雨にさようなら』三巻まで……。けっこう買わなくちゃいけない」
どっと汗が溢れた。
それらは、全部……なごみに勧めて買ってやったラインナップと全く同じだった。
「ん? どうしたんだい?」
「いや……」
動揺で、うまく声が出せない。
「おいおい、大丈夫か? なんだか顔色が悪いような気がするけど」
「……」
「しっかりしろよ。キミが勧めていたラインナップじゃないか。――他の女にさ」
円花さんの瞳が、底無しの闇に沈んでいく。悲鳴をこぼしそうになった俺は、いつの間にか円花さんに左手をとられていた。
正確には、小指を握られている――。
「これ、お仕置きね」
枯れ枝を折るような音が、乾燥した空気を震わせた。
あまりにもあっさりと。あっさりと行われた拷問は、俺の意識に空白を広げた。ぱき。めきめき。小指があり得ない方向に九十度以上曲がって、ピンクを超えて真っ赤になっている。つくしだ。つくしみたいだ。季節外れのつくしを見ている。なんでそんな場所に生えて――。
激痛が、爆発した。
「ああああぁぁ……!」
俺は無様な声を上げながら、手を押さえて蹲った。痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイ。ズキズキなんてものじゃない。小指が心臓になったみたいに痛みの束が反響して叫んでいる。額からあふれた脂汗が目に入ってきて視界が滲んだ。
「それくらいで許してあげるよ。何本も折ったら小説書けなくなっちゃうしね」
円花さんは腰を下ろして、俺を見下ろした。口角だけは不気味に吊り上がっているのに、目が全く笑っていない。痛みに悶え震える俺の頭をなでて、小指の折れた左手に優しく手を添えてくる。
「……キミは浮気性だから。今まで校外のことは見てみぬふりをして様子を伺っていたんだ。そしたら、あんなに可愛い子と会って本までプレゼントしはじめたんだからさ。しかも楽しそうにラインで感想を言い合ってる」
円花さんが、懐から取り出したスマートフォンの画面を俺に見せてくる。戦慄のあまり歯がカチカチと騒ぎ始めた。
昨日の夜の、俺となごみのメッセージ画面。
「これはスクリーンショットなんだけどね。キミは機械とかアプリに疎い方だから知らないだろうけど、ハウンド・ドッグっていうアプリがあるんだ。通称スパイアプリとも言うんだけど。これをインストールした相手の携帯の画面や位置情報なんかを自由に覗き込むことができるって優れものさ。おかげでボクはシャーロックホームズより優秀な探偵になれるんだよ。……キミの浮気調査限定だけど」
けらけらと抑揚のない笑い声を零して、円花さんは俺の小指にスマートフォンの側面を当てる。まるで匕首でも添えるような調子で。
「これってさ、完全完璧に浮気だよね? 一時間十七分二十六秒も会話を交わして、プレゼントも買い与えて、ラインでこそこそやり取りまでしている……。酷いよ、芳次くん。ボクだけを愛さなくちゃいけないのに、どうして他の女と話すの? どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――?」
「ひっ……」
「答えてよ、芳次くん」
怖い。
円花さんの独占欲の強さは、狂気の域にまで達している。俺という小説製造装置を独り占めするためなら監視なんてわけもなく、平気で指まで折ってしまう。
わかっていたはずなのに。わかりきっていたはずなのに。
彼女が、俺の近くに女が近寄るのを絶対に許さないことなんて――。
「ごめん……なさい。あれは……従妹の親友で……。無視するのも……悪いなって思って……」
「言い訳はいいよ」
円花さんは冷たく言った。
「無視するのが悪いと思っただけなら、当たり障りのない挨拶だけして離れれば良かっただろ? わざわざ親切にプレゼントなんて買ってあげる必要はないよね? それに、そもそも話したら駄目だって何度も何度も言っているじゃないか。従妹の親友だかなんだか知らないけど、ボクのためなら清算できるだろう? 雌猫なんて、どうだっていいじゃないか」
「……はい。ごめんなさい。円花さんの……言うとおりです……」
「本当にわかってる? わかっているなら、誠意を見せてよ」
円花さんは、スマートフォンの側面を強く小指に擦りつけてくる。つくしみたいな指が揺れ動くたびに、鋭い痛みで涙が溢れた。
「……わかり、ました。わかりました! 痛いからやめてくださいっ!」
「ははは、正直だねぇ。なら、これから誠意を見せてもらおうじゃないか」
円花さんは、悪魔のような笑みをたたえた。
「これから、その女をその書店に呼び出して欲しい。ボクの目の前で綺麗に清算してもらうよ。……できなかったら、このツクシ刈り取っちゃうからね?」
「……はい」
俺は小さく頷いて、俯いた。
どうしてだろう。
円花さんの狂気が恐ろしいはずなのに。
俺はどうして、笑いを溢しそうになっているんだ?
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