第3話
なごみとくるや書店で会ってから三日後。
俺は、書き上げた原稿を円花さんに見てもらっていた。
「……」
文字を追うたびに、円花さんの表情はころころと変わる。あるときは眉間にシワを寄せ、あるときは小さく微笑み、あるときは頬に朱を差して俯く。傾きを深めた淡い陽光が、舞い散るホコリをキラキラと輝かせながら、そんな彼女の姿を優美に、荘厳に映し出す。
読書に夢中の彼女は、神話の登場人物のごとく、どこか触れることの許されない聖性を孕んでいた。
俺は、その幻想的な美麗さに見惚れてしまう。
俺の作品を誰よりも愛し、俺の紡いだ文章に誰よりも酔いしれ、俺の生み出す物語に誰よりも恋い焦がれる。
世界一熱心な俺の読者。
それがかように美しいのだから、俺は誰よりも恵まれている。泉の精霊と、友人になれたような奇跡を感じてしまう。
「……うん」
円花さんはほうっと息を吐いて、原稿を机の上に置いた。
「面白かったね……すごく、面白い」
「ありがとうございます」
面映ゆい気持ちで、俺は頭を下げる。
作品を眼前で褒められるのは、いつになっても嬉しくて恥ずかしいものだが、さらに円花さんの言葉は格別な深みがあった。
心に溶け込み、全身が光りだすように多幸感に包まれる。
「相変わらずキミの小説は読んでいるとドキドキする。藤巻くんの心理描写も秀逸で、図書室で憧れの都子を見つけたときの感情なんて、共感できるところが多くて読んでいるこっちも温かい気持ちになるよ」
円花さんが目を輝かせながら感想を述べてくれる。藤巻くんと都子は小説の登場人物だ。
「キミはこういう人の心の機微を書くのが抜群に上手いよなあ。風景描写の変化も効果的に使って、実に鮮やかに表現している。そういえば、『接骨木涼花は眠らない』でも、ここがすごく読者に評価されていたよね。……それに、引きも素晴らしい。続きが気になって眠れなくなるよ」
「……」
「なあ、どうなるんだ? 都子から『話しかけないで』と拒絶されたわけだけど、いったい藤巻くんはこれからどうするんだ。本当は彼のことを気にしている都子が、彼を拒絶した理由も謎だし、いったいこれからどんな風に話が進むんだよ? もう、ボクは気になって気になってさ……!」
「あの、円花さん……」
「あ、ごめんね。ネタバレを要求するのは良くなかった」
「そうじゃなくて。ちょっと近いです……」
俺は、興奮気味になって目と鼻の先まで迫ってきていた円花さんに言った。
いつもこうだ。彼女は俺の小説のことになると周りが見えなくなる。
「ああ、そんなことか」
円花さんは小さく笑うと、腕を絡めてきた。
「……ひゃ。ちょ、ちょっと」
動揺して変な声が出た。パーカ越しから彼女の体温が伝わってきて、心臓の鼓動が跳ね上がる。
濃厚なほどに薫る、少女の匂い。シャンプーやら柑橘系の香水やら彼女そのものの存在やらが、俺の意識を激しく揺さぶる。理性をとろけさせ、本能を貫く魔性がそこにはあった。
円花さんの指が、俺の太ももを撫でた。
背徳感に背筋が震える。
「……キミさあ。可愛いよね本当に」
耳にかけていた円花さんの髪が、すっと解けた。
「ボクが近づいたときの反応も、ボクに褒められたときの表情も……」
息が苦しかった。円花さんの唇は、赤い蛭のように滑らかで艶っぽく。空腹のときに目に入ったリンゴのように噛りたくなる衝動にかられそうになる。犯罪的なほどの色気。犯罪的なほどの情動。
まるで、禁じられた蜜のようだった。
「それに、この小説も……」
「そ、それは……野暮ですよ……」
俺が辛うじて抵抗の言葉を口にすると、円花さんはくすりと笑った。
「そうだね。この小説は、キミとボクのために書かれた作品だものな」
「……はい」
そうだ。
これは、円花さんのために書いた小説。図書室で出会った男女が恋をするストーリーで、俺と円花さんの関係をなぞらえるような話になっていた。恋愛もののフィクションではありがちなものだが、俺たちにとっては特別な意味をもつ。
暗黙の、想いの共有。
俺はこの物語を書くことで。
円花さんはこの物語を読むことで。
お互いを確かめあっていた。
「……ふふ」
円花さんは、さらに身体を寄せてくる。
「……これは、まだ普通のAIでは表現できないよなあ。ふふ、キミと出会えて本当によかった」
AIと比べられていつもなら眉を顰めていたのだろうが、いまはそれどころではない。円花さんの肉体の柔らかさが、よりダイレクトに感じられたから。
きっと心臓の鼓動も聴かれているのだろう。
とても恥ずかしい。
「……」
羞恥に耐えきれず円花さんから目を逸らした。書架に並べられた古びた本が見える。大作家の名前が書かれた全集のようだ。
俺に人間の複雑さを教えてくれたのは、本だった。本来憎むべき相手へ情愛を向ける、親愛している相手へ理解できない恐怖を向けてしまう。そんな心の柔軟さを文字で掘り起こすことに、楽しさを見出したからこそ俺は小説を書いた。
だから、俺は俺の気持ちを受け入れている。
摩耶のペースメーカーが鈴木工業の関連会社が作ったものであったことにも。
円花さんのおかげで小説を書けるようになったことにも。
円花さんの魔性にとらわれ、円花さんのためだけに小説を書いていることにも。
絡まった糸のごときあらゆる感情を内包しながら、俺は円花さんの奴隷であることに確かな生きがいを見出している。
円花さんとの出会いは、摩耶が亡くなって数ヶ月たったときだった。
摩耶を失い、小説を書けなくなったことに絶望しきっていた俺は、救いを小説へと見出したくて図書室へと頻繁に訪れた。
色々な本を手にとり、山のように読み漁った。だが、どれだけ読んでもどれだけ読んでも……俺の気持ちが晴れることなんてなかった。文字を追うたびに、キャラクターたちの心の機微に触れるたびに、俺は自分の絶望をかえって深めていた気がする。
空いた穴があまりにも大きくて、埋められなかったんだ。埋められるわけが、なかったんだ。
摩耶が俺にとって書く理由そのものだったのだと気づくまでに、どれだけの文字を読んだだろうか。
行間に気づくのが遅すぎた。止まらない涙で文章が滲んで見えたとき、俺は死を考えた。
そんなときだった。
図書室へ暗い顔で訪れた俺に、円花さんが声をかけてきた。
「……キミ、ホトトギスだろう?」
「え?」
いきなり鳥類の名前で呼ばれて困惑してしまったことを覚えている。当時の俺は、自分のペンネームすら連想できないほど憔悴しきっていた。
反応の薄い俺に、円花さんは呆れていた。
「……村井ホトトギスだろう? ボクの大好きな作家だ」
「……」
自分のペンネームを呼ばれたことに気づいて、俺はまず警戒した。
自分が作家であることは学校の誰にも言ってはいなかった。それにそもそも、彼女とは話したことがない。胸元のバッジを見る限りだと同学年のようだが、俺は彼女を知らなかった。
「『なぜ、俺が村井ホトトギスであることを知っているのか?』って言いたげな、疑わしい表情だね。……知っていたさ。うちの父親はD出版の社長と懇意の関係だからね。作家のことは知ろうと思えば簡単に知れるんだ」
「……あなたは、なんなんだ?」
「自己紹介がまだだったね。ボクは鈴木円花。鈴木工業の社長令嬢と自慢しておこうか。読書が三度の飯より大好きな本の虫だ」
「……」
こいつが、鈴木円花なのか。
鈴木円花の名前は有名だ。鈴木工業の社長令嬢がこの学校いることくらいは、人見知りの陰キャの俺でも知っていたが、顔を見たことがなかった。噂通りの美人だ。
だが、そんな彼女が俺になんの用事があるというのか?
「要件を知りたいだろう? 端的に言うが……キミ、ボクのものになりなさい」
「……は?」
「さっきも言ったが、ボクはキミの大ファンなんだ。君が書いている『接骨木涼花は眠らない』はもちろん読んでいるし、キミがサイトに上げている短編や中編も全部愛読している。君の描き出す巧みな心理描写に、いつも心を踊らされているよ」
「……どうも」
「だから、ボクのものになるんだ」
円花さんは急に距離を詰めて、そう言った。ふわりと広がった柑橘系の香水の匂い。偶然なのか、摩耶と同じ匂いがして、少しだけ動揺してしまう。
間近に迫った完成された美少女におっかなびっくりしながら、俺は反駁した。
「……飛躍しすぎでしょ。あなたが俺のファンなのは十分理解したけど、だからといって、あなたのものになる理由にはならない。そもそもなんでそんな提案されるのかもわからない」
俺は言葉を区切って、言った。
「それに……鈴木工業には個人的にあまりいい感情がないんだ。君が悪いわけじゃないのはわかっているけど、それでも色々割り切れないものがある」
「……そうか」
「……あぁ。だから、ごめんけど――」
距離を取ろうとしたら、突然ネクタイを掴まれ引っ張られた。なにをするんだ、と抗議する気持ちは、耳元に近づいた円花さんの吐息で消し飛ばされた。
「……だからだよ。だから、キミに協力させて欲しい」
「……」
「……キミ、小説が書けなくなって苦しんでいるだろう?」
俺は目を見開いた。憤りよりも、胸中を貫かれるような言葉に対する驚きが大きかった。心臓が早鐘を打ち始める。
円花さんの吐息は、甘く濡れていた。
「キミは、理由を欲している」
俺は思わず生唾を飲み込んでしまう。円花さんは顔を引いて、俺の鼻に自分の鼻をくっつけてきた。色香に満ちた少女の微笑みが、俺の眼前に。
「だからボクが理由になってあげよう。キミが、再び小説を書けるようになる理由に、ね」
唇に、マシュマロのような柔らかい感触があたった。それが円花さんの唇だと気づいたときには、すでに舌を差し込まれていた。
衝撃。チョコレートの香り。なにかが流し込まれる。風邪薬のように甘い液体が唾と一緒に。動けない。足の指先が痺れている。ぞくぞくとした感覚が全身を撫でる。ああ、あつい。なぜ、いきなり。貪り食うように蠢く舌。
何分、そうしていだろうか。
円花さんが唇を離すと、銀色の糸がチーズのように伸びた。俺たちの粘液の証だった。
驚愕に声が出ない。身体がかっと熱くなって、臓器のすべてが心臓になったかのように、内側から激しい鼓動が叩いていた。鼻息が、異様なほどに荒くなって呼吸が苦しい。
目の前の円花さんだけが、輝いて見えた。
彼女は色っぽく頬を染めて、こう言った。
「……今日は、休館日にしたんだ。ここには誰もいないし、誰も近づかない」
――だからね。
円花さんは、とろりと目を緩ませた。
「ボクを好きにして」
俺の理性は、情けないほどに一気に崩壊した。
カメラで撮影されていたことになんて、当然気づけなかった。
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