高麗王・若光と武蔵野 ⛩️

上月くるを

高麗王・若光と武蔵野 ⛩️





 秋晴れの休日、JR八高線・高麗川駅こまがわえきに降りた藍子らんこは、軽い足取りで歩き出した。

 野球帽に虹色グラサン、ブルゾンにリュック、薔薇色スニーカーという出で立ち。

「麗しの彩の国めぐり」と名づけたミニ旅行もこれで六回目、すっかり慣れてきた。


 若い女性のひとり旅はと案じてくれる人もいるが、しなやかでスレンダーな肢体にはいずれも有段の空手と合気道、中国の古武術・八卦掌はっけしょうの技が叩きこまれており、タレントでいえば綾瀬はるかさん並みの身体能力を有しているので心配はご無用。


 紅葉にはまだ早い武蔵野の広い空と清冽な空気を存分に楽しんでいると、和の楽曲とは少しおもむきの異なる、もの悲しげな笛の音がどこからともなく聴こえて来た。あ、これこれ、この雰囲気を味わいたかったのよね、今回の高麗こま神社行きでは……。

 

 終戦直後、朝鮮戦争の勃発前後に当地を訪れた坂口安吾が『かくれんぼ』の旋律、すなわち「もういいかぁ~い」「まぁだだよ~ぉ」によく似ていると感じたという、「荒々しく悲しく死んだ切ない運命の神さまを泣きながら慰めている」ような……。




      🌎




 下調べ(といっても大半はググり情報だが(*'ω'*))によれば、高麗神社は高句麗こうくり(現在の平壌)から渡来した高麗王若光こまのこしきじゃっこうの徳を偲んで創建され、代々の子孫が高麗大明神、大宮大明神、白髭大明神などの尊名を冠し大切に祀って来た。(*´ω`*)


 そもそも周辺各国を凌ぐ勢力を誇っていた高句麗が衰退したのは後継者争いに伴う内乱のためで、その機に乗じた唐の高宗と新羅の連合軍の侵攻によって滅亡し、亡命貴族や技術者の多くが、当時は後進国だった隣国日本に亡命せざるを得なくなった。


 日本に着いた一行が最初に住んだのは湘南大磯だったが、のち、武蔵に移住して、一面の茅の原の未開の地ながら高麗丘陵と高麗川がある一帯の開発と耕作に励んだ。その裏には先進国の最新技術を学び東国を鎮めたい大和朝廷の思惑もあったらしい。


 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七か国から二千人近い高麗人が移住して高麗郡が設置され、初代郡長として若光が赴任したのはいまから千三百余年前のことで、秩父で発見された胴の採掘と精錬、のちには、養蚕と麦作にも力を注いだ。




      🗾




 そんな歴史に想いを馳せながら笛の音の方角に行くと、鄙びた田舎情緒のなかにも異国文化が香る高麗神社の鳥居が見えて来た。境内では高句麗・飛鳥・天平が一緒になったカラフルな古代装束の男女が優雅に舞ったり獅子舞いを披露したりしている。

 

 うわあ、きれい! 

 なんて華やかな!


 うっとり見とれていると、いつの間にか、何人かの男衆が藍子のまわりに集まって来て、てんでに顔をのぞきこむようにしながら、なにやらひそひそ言い交し始めた。


 えっ、なになに?

 わたし何かした? 


 そのうちの長老格が感に堪えないような呻きを発したので、藍子はびくっとした。

 よく聞いてみると、自分がだれかに似ているということらしい、それも瓜二つに。

 しかも畏れ多くも若光が高句麗から伴って来た最愛の寵姫ちょうきにそっくりだと。('ω')


 当時は写真技術はなかったろうから、若光ともどもの肖像画がひそかに伝えられているのか、集まって来た男衆は一様に目を丸くして藍子の顔を凝視している。あまり見つめられて恥ずかしくなった藍子は、帰りの電車を口実にして例大祭を失礼した。


 


      🏺




 駅までの道を急ぎながら、あらためて武蔵野に住む現代人のルーツを考えてみる。

 多様性が尊ばれる昨今はあまり聞かなくなったが、生粋の日本人ってなんだろう。

 高麗以外にも海を越えた異国人はたくさんいるはずで、その末裔が現代人なのだ。


 明治初期のハワイ移民や太平洋戦時下の満州移民(これは侵略だが)を含め、世界史上、どの時代にもどこの国でも移民が日常的に行われて来たことを思えば、人間を国で分けることは意味がない、地球人として総称すべきことにあらためて思い至る。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

高麗王・若光と武蔵野 ⛩️ 上月くるを @kurutan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ