第5話

 若干状況が変わったのは、中学に入ってからでした。

 それまでは相変わらず『日々是惨殺』といった状態で、臓物の生臭さと断末魔と死相が日常化していました。一日一〇〇体くらいは殺していたと思います。

 ある朝、早くも血で汚れたスリッパを引きずりながら食卓に着いた私は、向かいに腰掛ける父の左肩に、妙なものを見つけました。ぱりっと糊の利いたYシャツの肩口に、仰向けになった人形がだらんと上半身を逆さにしてもたれかかっているのです。二枚の薄い羽と、父がその存在に言及せず「おはよう」と挨拶したことで、それが妖精であることを確信しました。万歳したように手をぶら下げ、両目はしっかり閉じていましたが、画期的なことに見える範囲で外傷を負っている様子がありません。

 ……もしかすると、生きているのかもしれない。

 傍目には顔色も良かったので、私は俄かに浮き足立ちました。最初の遭遇から五年、この間まともに生きて動く妖精の姿を見たことは一度もありません。妖精は常に変死か、あるいはその直前の瀕死の身体で私の前に現れました。

 いつかを境に、生きた姿の妖精を求めなくなっていました。少なくとも、ティンカー・ベルのように可憐な奴が現れてナビゲーターよろしく私を不思議の世界に誘ってくれるとは到底思えませんでした。そんな甘ったれたメルヘンを一度も夢想しなかったと言えば嘘になりますが、それは、「この家がお菓子で出来ていれば良いのに」とか「水道の蛇口を捻ってジュースが出てくれば良いのに」といった類の荒唐無稽な反実仮想に過ぎません。妖精の実在を知ったことで、誰よりも圧倒的に幻想世界に近い場所に踏み込みはしましたが、それを日常の枠組みに引き摺り下ろした時点で、私の冒険は終わっていたのです。

 そんなわけで、父の肩に身体を預けて安らかに眠っているようなその妖精の登場には、完全に虚を突かれました。私は父の挨拶に返事をするのも忘れ、無造作にその傍らまで近付きました。椅子から立ち上がって二歩目で圧死させた個体のことを完全に蚊帳の外に置いて、父の肩に素早く手を伸ばしました。機敏に、獲物を狙う猛禽類のような鋭さで妖精に迫りました。妖精は抵抗無く私の拳の中に収まりました。

 心なしか、いつもより温かいような気がします。いつもより柔らかいような気もします。今にも動き出しそうな気までします。何事かとこちらを見ている父に「肩にゴミがついてた」と下手な言い訳をして、トイレに駆け込みました。一人になるのに一番自然な方法を選んだつもりでしたが、明らかに挙動不審だったと思います。

 内側から鍵をかけ、便座に座って一息つきました。妖精が目を覚ましても逃げられないよう慎重に、拘束を緩めぬまま舐めるように観察しました。やはり、ぱっと見てわかるような外傷はありません。……ですが、期待とは裏腹に、心臓の鼓動もないことに気付きました。試しに、頬を軽く突付いてみたり、揺さぶってみたりしましたが、一向に動く気配がありません。戯れに心臓マッサージの真似事をしてみましたが、指先に肋骨の折れる感触が伝わってきたところで諦めました。

 結局、惨殺死体でこそありませんでしたが、その妖精も歴とした死体だったのです。形がまともなだけいつもよりましな、弾力に富んだ小さなお人形でした。愛らしい表情とバランスの良い体躯を兼ね備えた、関節駆動で肌触りの良い人型模型でした。メルヘンの世界からの排泄物でした。

 期待から落胆へ。脳が赤から青へとトーンを替えるのがわかりました。体の中をつむじ風が通り過ぎたように、雑多な感情が吹き飛ばされ、散逸します。虚無的な視界の中に結ばれる、安らかな死に顔の写像が不思議と不快でした。グロテスクなデスマスクに慣れ過ぎたせいでしょうか。寝顔と区別出来ない安息の表情で死んでいることが、ひどい裏切りのように感じられました。無垢な表情の裏にとんでもない悪意を見出しました。

 妖精を握る手が無意識に震えました。わかり切っていました。私の怒りは、いつだってやり場の無いものです。ご多分に漏れず、この時も同じでした。

 許せないことは三つありました。

 一つは、生きているかと思った妖精が結局死んでいたこと。

 二つ目は、その妖精を見た時、柄にも無く希望を抱き、胸躍らせてしまったこと。

 そして三つ目は、妖精が惨殺されていなかったことです。

 当時の私にとって、妖精は自分に殺されるためだけに存在しているはずのものでした。あるいは私が直接手を下していなくても、害意ある手段で殺されて、惨たらしい死に様を晒しているはずのものでした。それなのに、どうしてこいつはのうのうと安らかに死んでいるのでしょうか。自分に無断で死に方を変えられたことが、私には許せなかったのです。裏切られたも同じでした。傷一つ無い死体というのは、解剖のために絶好のサンプルであると思うかもしれませんが、日に一〇〇体も殺しているのですから、死に様のバリエーションは豊富で、何の変哲も無い死体などむしろ面白味に欠けるだけです。私は学術的な意味で妖精を解剖しているわけでも、検死をしているわけでもないのですから。そう言えるだけの領域まで既に踏み込んでしまっていたのですから。……自然死など、許せるはずがありませんでした。ここまで飛び切りな不条理に屈するわけにはいきませんでした。

 思わず、妖精を床に叩きつけて両足で飛び乗っていました。聴き慣れた水っぽい破壊音と、足に馴染んだ挫滅感に満足し、さらに胴を捻じ切るようにツイストを加えてから個室を出ました。スリッパと床は当然汚穢に塗れていましたが、知ったことではありません。どうせすぐに消えますし、そもそも誰も気にしないのなら、それは無いのと同じことです。

 これが、私の世界の日常風景なのです。

 廊下でまた一体踏み潰してからリビングに戻ると、母の両肩にもぐったりした妖精が一体ずつ乗っかっていることに気付きました。うつ伏せになっている右肩の奴は、顔色がどす黒く、明らかに死んでいました。毒でも盛られたかのようで、ある意味セオリー通りの個体であると言えます。左肩の方は、父に乗っていたのと同じく、逆さまに万歳して仰向けになっていましたが、一見して異常だとわかりました。顔が老婆のもので、腕や身体も枯れ枝のように細いのです。それまで見たことのあった妖精は一様に若々しいものばかりだったので、妖精の世界にも老いがあることは意外でした。もっとご都合主義的で、不老なのかと勝手に思っていたのですが。……死因は老衰、とでも言ったところでしょうか。

 わけのわからなさに苛立ちも感じましたが、わざわざその二体の死者に鞭打つのも面倒で、黙って食卓につきました。卵焼きの中に良くわからないミンチ肉が入っていましたが、これは意識過剰なだけかもしれません。

 異変はさらに続きました。

 玄関にはまるで暖簾のように、妖精達が一列に吊るされていました。その数一八体。天井から真っ直ぐに伸びた謎の黒い紐がそれぞれの首に絡まっていて、典型的な縊死の特徴を披露しています。顔面がどす黒く腫れ上がっているものがあり、目が飛び出しそうになっているものがあり、舌がでろんと突き出され口元から涎を垂らしているものがあり、失禁しているものがあり、といった具合で、通常の人間ならば正視に耐えられる代物ではありませんでした。私ですら、悪趣味な照る照る坊主だと揶揄するのがやっとです。

 自殺者の怨嗟を凝り固めたようなオブジェですが、文字通り自業自得なのでフォローのしようもありません。何しろ、死ぬ瞬間がそんなに苦痛なら羽を使って飛べばよかったのですから。本来なら妖精は首を吊っても死にません。間違いなく自分の覚悟の下で死んでいるわけですから、私に出来ることなど何も無いのです。

 どことなく苛立ちを捨て切れないまま、私は死体をくぐるようにして家を出ました。ドアが閉まる衝撃で一体殺した時に、歪んだ安堵が胸を覆うのを感じました。

 中学校への道すがら、踏み潰したり衝突したりで私が関与した妖精の死は七つ。いずれも凄惨な死に顔でこちらを恨めしそうに見遣ってくれました。

 他方、私が一切関与しない妖精の死を数え切れない程目撃しました。道端でタイヤに押し潰されていたり、野良猫が口に咥えていたり、空き缶の上に生首がレイアウトされている分にはまだ許せました。惨殺の延長上にある限り、納得出来たのです。ですがまた、不可解な、自然死、不審死、自死の連中も多く目に留まるのです。ぐったりとなって電柱にもたれかかっている個体、通学鞄にキーホルダーよろしくぶら下げられて首を吊っている個体、自転車の前籠にぎっしりと隙間無く詰め込まれて微動だにしない一群。それらの光景は、不吉を遥かに通り越して、シュールでした。

 街はどこもかしこも妖精だらけでした。小さな死体で満ちていました。石を投げれば死んだ妖精に当たる、さもなくば妖精を殺す、そんな勢いでした。

 人々は無意識に妖精を持ち運んでいました。背広姿の教諭の胸ポケットから血の気の失せた横顔が覗いていました。級友の手提げ鞄には年老いて骨ばった妖精が二体、もつれ合うように入っていました。トイレの鏡を見て初めて、自分の肩にも首の無い個体が乗っていることに気付きました。いつの間にそこにいたのか、見当もつきません。

 大鍋で運ばれて来る給食には当然異物が混入していましたが、気にせず食べるしかありません。服だけは噛み切れなかったので吐き出しました。

 妖精は殺されるべくして殺されているわけでなく、単に死ぬべくして死んでいるだけなのでした。殺す、殺さざる以前に、妖精は死ぬために存在しているだけなのです。

 すると厳密には妖精は生物ではないことになります。生物の定義は、自己複製、代謝、進化などで表されますが、妖精はその全てから外れています。だって常に死んでいるのですから。死んでいる妖精がいるのだから、生きている妖精もいるはずだ、というのは実は思い込みでしかありません。生物が必ず死ぬとしても、『死体が元は必ず生き物だった』とは限りません。反例が妖精なのかもしれません。

 妖精は、生と死の垣根を越えたところにあります。それ以前に、存在と無を越えたところにあります。私だけが全てを認識しています。実に不公平な話ではありませんか。

 誰も彼もが死を背負っているのです。馬鹿馬鹿しいほどに殺しているのです。

 あの日以来、私はしょっちゅう見ています。隣を歩いている人の足下で真っ赤な血がしぶくのを。自動車の前輪タイヤで無惨に押し潰すのを。厨房の奥で何気なく捌くのを。誰も彼もが加害者なのに、私しかそれを知りません。誰一人、当事者にもなれず傍観者にもなれないのです。そして私は、そのどちらをも独りでこなします。

 妖精はあちらこちらで無駄死にしています。ゴミ捨て場に山と積まれています。誰にも顧みられることなく、時間が来ればランダムに消えています。現れる瞬間だけはどうしても見ることが出来ません。世界は死臭で満たされています。私の鼻は早いうちに麻痺しました。馴化しました。だからもう気になりません。……いえ、嘘です。密閉された場所に長くいると、少し気に触ります。込んだ電車の中なんかは地獄です。足元は血塗れだし、乗客の肩、頭、ポケット、手荷物、いたるところに死がのさばっています。

 水場は鬼門です。目を離した隙に水死体が浮かびます。無根拠に血が流れることもあります。長い髪をなびかせて水中に漂う遺骸に当たると心臓が止まりそうになります。

 大体の本はそのままでは読めません。どこかのページにべったりと張り付いた血糊が、読み進むのを妨げます。時間が経てば消えますが、その頃には別のページが血で汚れています。本体のないまま、死の痕跡だけが一人歩きしているのです。

 そんなある時、道路で猫が死んでいることに気付きました。車に撥ねられたらしく、内臓を撒き散らして倒れています。ハエがたかり始めていましたが、臆せず近寄りました。

 猫の真横に、綺麗な顔つきの妖精が倒れていました。あたかも猫が妖精を庇ったような位置取りだったので、私は感動を覚えました。結局妖精が相も変わらず死んでいることに失望し、溝に投げ込みましたが。

 猫の死体は、放っておいても消えません。それがいかに面倒なことか、私は思い知りました。誰も気味悪がって近付いて来ません。せいぜいが、役所に通報して片付けてもらうくらいでしょう。私は持っていたスーパーのビニール袋に猫の身体を押し込みました。血塗れになることや内蔵の生臭さには慣れていましたが、服を汚さないように注意しました。

 解剖することも考えましたが、家に持ち帰るわけにもいかないので、諦めました。かさばる袋を抱え、死体だらけの街を彷徨いました。骸の上を越えて歩きました。新たな死体も作りました。死と付き合いました。これまで来たこともないような場所に、小さな神社を見つけました。鳥居には自殺死体が何体も括られていました。阿吽の阿の狛犬が見事に獲物をキャッチしていました。落ち葉に紛れてバラバラになった手足が転がっていました。木製の賽銭箱の角から、血が染み出ていました。殺伐とした雰囲気が気に入りました。

 裏手に回り、穴を掘って袋ごと埋めることにしました。これ見よがしに転がっていたスコップには血が付いていましたが、ありがたく使うことにしました。

 掘り進む内に小さな白骨に行き当たったり、生き埋めにされたと思しき変死体を発見したりしました。正直、とにかく邪魔なだけでした。六〇センチほど掘り返してから、猫を横たえさせました。ビニール袋の中ではらわたをむき出し、少々不恰好に膨らんでいましたが、最低限の体裁を整えました。最初の妖精を埋葬した時のことを思い出しました。

 このままきちんと土に還るかどうか、私にはわかりません。土に還るのが良いことなのかどうかさえ、曖昧でした。盛り土をして、墓石を運びました。私の顔ほどもある石が雨ざらしで放置されていたので、上で息絶えていた妖精を払い落としてから運びました。ようやく下ろした時、明らかに何かを潰しましたが、放っておきました。

血塗れの手で合掌して、黙祷を捧げました。半径一メートル圏内に潜むあらゆる死を悼むことにしました。事故死した猫への追悼の念は、希釈されて宙に消えたことでしょう。

 けれどもこれは、特別なことなどではありません。

 今もどこかで、知らない誰かが死んでいます。生きている私たちには、それを悼んでいる暇などありませんし、死んでいる彼らは生きている人たちが何をしているか知りません。

 きっとそれだけのことなのです。生と死は、皆の思っている以上に乾いた問題なのです。

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