第4話

 それは、今でも忘れ得ない史上最悪の目覚めでした。喧しく鳴り響くアラームを止めるために叩き付けた右手が、いつもと全く異なる感触を返してきて、肝心のアラームが止まりませんでした。私の手に弾き飛ばされた何かがもんどりうって床に転落する音が聞こえます。私は驚いて跳ね起きました。

 床に、妖精が転がっていました。羽の先や足先が痙攣しています。白目を剥き、口の端から泡を吹いてさえいるのでした。私は数秒間自失していましたが、鳴り続けるアラームを気付け代わりにして我に返りました。目覚し時計を消し止めて、溜息を吐きます。

 私の一撃は妖精の頭を強打したようです。首を思い切り仰け反らせた形になったらしく、衝撃に耐えられなかった頚骨は完璧に折れていました。真後ろを臨むように白い喉首を伸ばし切り、後頭部が肩口にめり込みそうになっています。……生存は絶望的でした。

 羽の先を摘み上げ、妖精をランドセルに放り込みました。背中側から見ると、頭が上下逆さまに付いているようで滑稽でした。死体自体に対する恐怖はありませんでした。前回の解剖の賜物でしょう。実体がある限り、妖精の死体は生臭い静物に過ぎず、その中身が魅力に溢れていることを、もう知っていたのです。悪夢の中のような私に害なす存在などでは決してないのです。私にとって不気味だったのは、妖精が現実から幻想へと移行してしまうことでした。何者への共感も得られず、世界から孤立した真っ黒な背景に、自分だけ理不尽に塗り込められることでした。恐怖も畏怖も嫌悪も罪悪感も憐憫も同情も憤怒も戦慄も昂奮も、全てが泡沫に消えて虚無に回帰する。……その都度私自身の中から、何かが抉られて奪われているような気がしたのです。

 当時からそんな高邁なことを考えていたとは思いませんが、怯えの根本が形而上にあったことは確かです。妖精が突然現れて殺されて消えていくという一連の流れがあってこそ、やり場のない恐れに体中の隅々まで掌握されたのです。理由もなく原因もなく制御も出来ない、その三拍子が揃った時、恐怖は際限なく走り続ける異形の獣となり果てるのでした。

 さて、死骸をランドセルに放り込んだ私は、何事もなかったように着替えを済ませ、何事もなかったように朝食を摂り、何事もなかったように登校します。実際、私の肉体はそれに近しい平静を保ち続けました。感覚が麻痺したとも言い切れない、歪な均衡が頭の先からつま先までを貫いていました。

 この頃、下を向いて歩く癖や死角へ無闇に注意を払う挙動は、あたかも生まれつきであったかのようにすっかり身体に馴染んでいました。意識は完全に別のところにありましたが、危なげなく足を進めていました。空き缶を目の端に捉えたらすかさず足を止め、曲がり角に人の気配があれば敏感にそれを察知します。妖精の死骸を持ち運びながら、日常の偽装にも気を配り、現実と妄想の交叉点を渡り続けました。私に染み付いた妖精への警戒網は上の空であってさえ完璧でした。が、妖精に対してあまりにも無力でした。

 私は校庭で別の妖精を思い切り踏みつけてしまったのです。

 余所見をしたわけでも、不用意に足を踏み出したわけでもありません。直前まで確かに何もなかったはずの場所に足を出したら、突然何かが大地と靴裏の隙間に滑り込み、ぐしゃり、ぼき、と潰れて折れる触感が走ったのです。

 大勢の目があったので、涼しい顔で歩き続けました。ちらりと振り返ると、土埃に塗れたぼろぼろの肉塊が転がっており、何人かの生徒が気持ち悪そうに眉を顰めています。

 見えるのか、と少し意外に感じましたが、最初の時に暁美ちゃんが埋葬を手伝ってくれたことを思えばそれも当然でした。実体がある時は誰にでも見えるし触れるのです。ただ、おそらくこの世から姿が消失するタイミングに合わせて、私以外の記憶が改竄されるのでしょう。……誕生日に現れた異様な金銀財宝とはまた別のルールに従っているのでした。

 妖精に人が群がり、ちょっとした騒ぎが起こっていました。私はそれを他人事のように眺め、下駄箱に靴を放り込みました。左足の靴裏に、くっきりと血の痕が残っていました。

 教室に入るや、ランドセルから屍を取り出します。誰にも見咎められないよう注意しながら、教壇の上に行儀よく置いておきました。誰が最初に気付くかはわかりませんが、いずれにしろ絶対に問題化する場所です。

 案の定、始業前に教室で遊んでいたクラスの男子の一団がそれに気付きました。

「おい、何だよ、これ」

「うわ、超キモいんだけど」

「このきしょい人形持ってきた奴手ぇ挙げろよ」

 一人が教室の前から大声で叫び、既に来ていたクラスメイト達が一斉にそちらを向きました。反応はまちまちです。遠目にはその人形の異常がわからないのか興味無さそうに雑談に戻るグループや、露骨に気味悪がって顔を背ける女子達。珍しそうに近寄り、ホラー映画のキャラクターじゃないかと憶測を述べる者や、校庭で起こった騒ぎとの関連を逸早く指摘する二人組。大前提としてそんなものを学校に持ってきちゃ駄目だと糾弾する委員長の七川さんに、俺が持ってきたんじゃねえっつうの、と逆上する第一発見者……。

 だいぶ混沌としてきた辺りで、妖精の羽を弄っていた一人が力任せにそれを引き千切ってしまいました。やべえ、とれちった、とへらへらしていた顔が突然青醒め、彼は小さな悲鳴をあげます。眺めていた花に毛虫が付いていたかの如く、妖精を放り捨てています。

 私は思わずにやにやしながら成り行きを見守ります

「何だよ、急におどかすなよ、ジュン」

「マジやばいって、それ。なんかいきなり血ィ出てんだけど……」

「は? 馬鹿じゃねえの?」

「ホントだって。見てみろよ。ちょっとだけど、赤いの出てきてるから。羽取れたとこ」

「……そんくらい本当っぽくしたってだけだろ」

「でもこの羽の繋ぎ目、どう見ても肉じゃない?」

「口の中とかも、あり得ないくらいリアルなんだけど」

「ちょい、これやばいよほんとに」

「触った奴、呪われるんじゃねえの」

「キモいとか言った奴もぜってー呪われるよ。同罪じゃん」

「呪いの人形なの?」

「人形じゃねえよ。生きてるって」

「お前ら恐がり過ぎ。馬鹿じゃねえの」

「じゃあこれケンジのな」

「何でだよ」

「もう決まりました。バリアー!」

「俺もバリア」

「ちょっとタンマ、おい!」

 妖精がクラスメイトの一人に押し付けられたところで、担任が入ってきました。クラス内はまだざわついていましたが、それでも皆着席します。ケンジは、持たされた妖精を渋々机の中に押し込んでいました。ケンジの席は私の斜め二つ前だったので、片羽が捥がれた憐れな妖精の姿がちらりと見えました。相変わらず首は反り返り、不気味に歪んでいます。

 千切れた羽の方は紛失してしまったようでしたが、どうせ跡形もなく消えてしまうので、気にする必要もありません。この空騒ぎ自体が空想に化け、皆の中から失われるはずです。

 ……私は急に空しさを感じました。妖精の体験を共有出来るかもしれない、などと一縷の望みに賭けた自分が、結果の出ていない段階から早くも見苦しく思えてきたのです。自分の担った不幸に確信的に他人を巻き込もうとしているようで嫌でした。その挙句徒労に終わるのでは、割に合いません。私の良心だけが痛めつけられていきます。

 案の定、一、二時間目の間の休み時間にはケンジの机の中から妖精は消えてしまっており、気色の悪い呪い人形の話題も完全に忘れ去られていました。隣の席の友人に、朝、何か変わったことなかったっけ、と尋ねると、不思議な顔をされました。前代未聞の妖精騒ぎには、平穏な日常風景が上書きされていたのです。

 私が妖精を殺してから、死体が記憶もろともこの世から消え去るまで、決まった時間はないようでした。三時間目の授業の終わり、「起立」の声で立ち上がった私はその足で妖精を踏みました。通算五体目の殺害事例です。足元をちらりと見遣ると、上履きの下で真っ赤な血を撒き散らして痙攣している塊がありました。さりげなく死骸を蹴り飛ばし、靴の裏を綺麗なタイルに擦りつけながら「礼」。着席の号令がかかる前に椅子にへたりこむと、既に足元には何の痕跡もありませんでした。わずか五秒ほどの間に妖精は消えてしまったのです。とりあえず、教室の床と上履きの汚れがあっさり落ちたことを喜びました。

 漠然と、いつか誰かが助けてくれるに違いない、と思っていました。納得のいく説明がどこからかもたらされることを信じていました。自分が救われるあらゆる可能性を夢想しました。全てに必然性がある世界を望みました。どうして私なのか、どうしてこんな目に遭うのか、次はいつ来るのか、いつまで続くのか、その全てが解き明かされる日は来るのか。……私は間違いなく妖精に呪われていたのです。

 最悪の目覚めで始まったその日だけで、私は四体の妖精を殺しました。死因は、頚椎骨折が一体、内臓破裂が三体です。帰宅してから、玄関のドアを閉めた時、めきめきと音を立てながら突然挟まって来た妖精には閉口しました。上半身と下半身が殆ど千切れんばかりで、かろうじて皮だけで繋がっている状態だったのです。そんな風にぐしゃぐしゃになられると、解剖する気も失せるというものです。口から泡混じりの血を吐いているのもマイナスでした。私はその死体から折れ曲がった羽を毟り取り、本体は外に投げ捨てました。羽は目に付くところに置いておき、一時間後、溶けるように消えるのを確認しました。

 その日をきっかけに、妖精は悪い意味で私にとっての身近な存在となりました。

 妖精に対して細心の注意を払う生活が続きましたが、いくら意識したところで殺す時には殺してしまうのでした。正味な話、これほど不毛なことはこの世にないと思います。一見無駄な努力でも、努力したこと自体に意味があるという意見をたまに耳にしますが、それは無駄な努力の何たるかを完全に履き違えているとしか思えません。妖精を踏まないように摺り足で歩き続けた末に、階段の一段目で足の裏から破壊音が伝わって来た時の無力感たるやありません。座面を散々確かめて恐る恐る腰を下ろし、安心して軽く椅子を引いた途端、私ではなく椅子の足に伝わって来る異物を噛む感触……。重ねれば重ねるほど虚脱感が増すだけ、そんな努力もこの世にはあるのです。寝返りで背中に違和を感じて飛び起きて、血塗れになったベッドを目の当たりにしたり、ドッジボールで投げた球が友人に捕られるやその体操服が血塗れになり、ボールにぺしゃんこになった謎の死骸が張り付いていたりする内に、だんだん諦めという言葉の真の意味がわかってきました。

 私は、全ての一歩で妖精を圧死させるつもりで歩きました。靴裏の異物感には全く動じなくなり、三歩続けて妖精を踏んだ時は、むしろ吉事の先触れのようにすら感じました。

 勘違いして欲しくないのですが、これは考え方を変えることでかろうじて折り合いをつけられるようになっただけであり、進んで迎合したわけではありません。狂気に飲み込まれないためには最低限それくらいの覚悟が必要だったのです。……ストックホルム症候群をご存知ですか? 誘拐や人質事件の犯罪被害者が、長時間一緒にいることで、犯人に対して同情したり親近感を覚えたりする事例ですが、私の開き直りもそれに近いのです。過度のストレスによる自己崩壊を防ぐために、自分の置かれた状況を少しでも良いものだと思い込もうとするのが原因らしいです。人間は、想像以上に打たれ強いのかもしれません。

 せっかくなので私は記録をつけることにしました。飛行機乗りが敵機の撃墜数を機体にマークするように、妖精の惨殺数を日記帳に記入していきました。

 最初の頃は一日五体くらいが目安でした。多い時には二桁に乗ることもありましたが、大抵は一桁前半です。運の良い日は〇体のこともありました。

 小学校四年生になっても、数字的には大体それくらいのペースを維持していました。しかし、記憶に残り易い劇的な場面での殺害が極端に増加していきました。暁美ちゃんに渡すための誕生日プレゼントが血塗れになっていたりだとか、ブランコをぶつけあう度に一体ずつリズムよく散っていったりだとか、理科の実験でガスバーナーを点けたら肉の焦げる異臭がしたりだとか、二度と思い出したくない類の経験群です。秋の遠足で行った水族館で、ピラニアに齧られて骨しか残らなかった遺体は凄絶でした。

 小学五年生にもなると、私より先に世界が根を上げ始めました。妖精の死体を見ても知らん振りする人間が激増したのです。

 確かにそれまで、日常茶飯的に妖精を目撃しているはずなのに、毎回記憶を書き換えられるため、何度もファーストコンタクト時のリアクションで大袈裟に動転する周囲の人間には辟易させられていました。やたらと警察に連絡を入れようとする母や、校長の指示を仰ごうとする担任、根拠無く作り物と断じて生徒を安心させる体育教師など、大人は理性的な分まだましな方です。クラスメイトの、特に気弱な女子がパニックに陥りやすくて鬱陶しいのでした。どうせすぐに記憶を失ってけろっとした顔に戻るとわかっている分、号泣したり喚きたてていたりする奴を見るたびに殺意に似た感情を覚えました。

 どんな状況下で妖精騒ぎが起こっても七川さんはいつも冷静だったので、私は専ら彼女と二人で事態を傍観する立場にいました。一度だけ、どうしてそんな風に落ち着いていられるのか訊いてみたことがあります。もしかすると、私と同じように記憶を維持しており、妖精の死体に慣れ切っているのかもしれないと思ったからです。七川さんは、口元だけで笑いながらこう答えました。

「空気が読めなくて、パニックに陥るタイミングを逃しただけよ」

 つくづく面白い人でした。私以上に諦観を知っている子供でした。苦手意識も消え始めていましたし、もしも暁美ちゃんがいなかったら、彼女を選んでいたかもしれません。

 私以外の人間が誰一人妖精の死体に構わなくなると、パニック自体が激減しました。

 例えばキャッチボールをしていて、私の投げたボールが相手のグラブに収まる瞬間、妖精が飛び込んできたとします。鈍い音と共に、妖精は全身打撲で絶命します。しかし、相手はそんなことは意に介さず、「ナイスピッチ」とか言いながら、血に濡れたボールをズボンで拭って平然と投げ返してくるのです。その際、グラブからはぼろ雑巾のように遺骸が転がり落ちますが、まるで気に留めません。あとは、グラブの内側についた血糊を、泥でも落とすようにはたくのみです。不気味さが増し、孤立感は深まりましたが、自分のせいで他人を不快にすることがなくなったと思えば、少し気が楽になりました。

 学校の階段の踊り場で数体の妖精を連続して踏み殺し、辺りを血の海に変えてしまった時も、誰一人掃除しようと言い出さないため、学校中至るところまで血色の足跡がぺたぺたと広がりましたが、気味悪がっているのは私だけでした。血で足を滑らせて転んだ女子が、私には全身血塗れに見えていましたが、顔を見るなり悲鳴をあげるのも失礼なので、必死で噛み殺しました。……どうせ全てがその内消えるのだから、我慢すれば済む話です。

 この頃、妖精が誰の注目をも浴びなくなったことを悪用し、幾つかの悪戯をしました。校長室の壁に堂々と妖精の血で悪口を書き殴りました。落書きを読んで不快になる人もいなければ、消すという厄介な仕事を抱え込む人もいません。注意される心配も無いので完全犯罪です。自己満足以外の何物でもありませんでしたが、鬱屈した思念を抱え込んで捻じ曲がっていた私には、なかなかの気晴らしになりました。

 いじめっ子タイプでむかつくクラスメイトのカレーに妖精の血液を混入させたりもしました。ひどい時には内臓を直接食べさせようとしました。彼が嫌悪の表情一つ見せずに難なくそれらを口にする姿は、まさに異様としか言えない壮絶な代物でした。見ているこちらの胸が悪くなりました。さすがに試しませんでしたが、妖精を丸ごと椀に盛ったら、そのまま焼き魚のように端から食べ進めたのではないでしょうか。

 放課後、理科室の解剖キットを使って妖精をばらしていたのもこの時期です。こっそり実験室に忍び込み、殺したばかりの死体を開いていくのです。それまでも何度か家でやっていたことですが、肋骨を開けようとしてお気に入りのハサミをお釈迦にして以来、自粛していました。万が一教師に見咎められた時は、忘れ物を取りに来た、という無茶な言い訳で押し通しました。本格的な骨切りバサミで肋骨を断ち切り、鮮赤色の心臓を初めて生で見た時の衝撃は、今でも忘れられません。時間切れでいつ対象が消えてしまうかもわからない中、よく集中出来たものです。生半な外科医なんかより、私の方が圧倒的に開腹の手際が良いと思います。やり方は我流ですが、習うより慣れろを地で行きましたから。

 小学六年になると、一日の平均妖精惨殺数が月を追うごとに急増していきました。五年生の頃は、増加傾向はあったながらも、一〇体前後で推移していたのですが、六年の六月にとうとう二〇に達し、夏休み中には三〇を突破し、秋口には驚くべきことに五〇を超えました。睡眠時間を除けば、およそ二〇分に一体は殺している計算になります。授業中は座りっ放しで殆ど数を稼げないことを考えると、さらに酷い割合だということになります。

 前の妖精が消える前に次の妖精を殺してしまうので、慢性的に血の匂いに囲まれているような有り様でしたが、その只中で食事をすることにも早々に慣れました。迷い箸が妖精の喉を串刺しにしても身じろぎ一つしませんし、血液が他のおかずに降りかかっても気にせず食せるようになりました。妖精の血は思っていたより甘く、口当たりも悪くありませんが、喉から鼻に抜ける鉄錆の匂いがどうにも不快でした。……あるいはその不快が無ければ、手軽なスナック感覚で妖精の肉を食べるようになっていたかもしれません。

 修学旅行の行き先は京都でした。観光シーズン真っ只中、情緒溢れる秋の古刹や観光名所を楽しむ余裕など、勿論私には殆どありませんでした。妖精はこちらの事情など一切斟酌しません。私が出掛ける先までわざわざ出向いて来て、律儀に片端から殺されていくのでした。息を切らして駆け上った石段を振り返れば、そのところどころに妖精の屍が転がっていますし、金閣寺などの有名どころでは、私の一撃の後に一般観光客に揉みくちゃにされて無惨の権化のようになってしまう個体もあります。清水の舞台で殺した三体を、そこから投げ下ろしてやったのはせめてもの情けでした。燃えるような紅葉を背景に、螺旋を描いてもつれ合うように落ちていく様を、いつまでも見送ってやりました。気紛れに交通安全の御守りを買いましたが、妖精との激突に関しては何のご利益も無いようでした。

 冬休みに家族でスケートに行った時、殺害数は初の大台、三桁を記録しました。スケート靴の鋭いブレードが妖精の小さな肉体に圧し掛かった時どのような結末を迎えるのか、詳しく語るまでもないでしょう。妖精に頓着せずに滑り続ける他の客のせいで、冗談みたいに細切れになっていきました。リンクの一部が赤く染まっていて、自分としては絶対に転びたくないエリアが出来上がるわけです。しかし、そういう時に限って新しい妖精を踏んでバランスを崩し、尻餅をついた勢いで一体圧殺し、立ち上がってたたらを踏んでいる間にもう一体足で切り潰し、瞬く間にマスマーダーの完成という構図になるのでした。あまりに出来すぎていて、笑いたくなるほどでした。こんなことが何度も繰り返されるものだから、広いリンクの至るところにマーブル模様のような赤が広がりました。上から見れば、前衛芸術のようだったかもしれません。とんだインスタレーションもあったものです。

 惨殺し易い状況になると、妖精もそれに合わせて張り切ってくれるのでしょう。身の回りにちょっとした危険があるだけで、殺害数は飛躍的に上昇しました。

 調理実習で包丁を握っていると、ナスのへたを落とすはずの一刀目でどこをどう間違えたのか妖精の首がことりと落ちてしまったり、飾り包丁で輪切りのにんじんに切れ込みを入れていたはずなのに何故か血飛沫が迸ったり、そういう奇妙なことが平然と起こります。熱した油の中からコロッケに紛れて妖精の素揚げが浮かんできた時にはさすがに絶句しました。妖精は殺されるべくして殺されている。そうとしか言いようがありませんでした。


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