第3話

 ようやく私の現実の中に妖精が身体を伴って現れたのは、小学校三年生の秋でした。丁度私の九歳の誕生日でしたから、良く憶えています。

 陳腐な表現ですが、その日は朝から何かが起こりそうな胸騒ぎがしていました。

 驚くべきことに、朝起きた時、夢の残滓がどこにも残っていませんでした。相変わらず血塗れの屍と戯れる益体も無い悪夢に魘されたというのに、あたかもそれが本当にただの夢であったかのように、背中の血痕も右腕の痣もばら撒かれた昆虫の羽も見当たらなかったのです。大なり小なり異変が起こっていたこれまでの状況を考えると、それら全てが幻、思い込み、妄想の類であることを差し引いても、実に奇妙でした。

 異常が日常化している私にとって、正常は異常以外の何物でもなかったのです。

 ざわざわと落ち着かない心臓は、真っ先に消化器系を狂わせました。食欲はあるのに、何かを口にするとすぐさま吐いてしまいそうな、そんな理不尽な臓腑を抱え、朝食を摂らずに空腹のまま学校へ向かいました。

 登校の際、いつものように足元を見ていた私は、道端に分厚い財布の落ちているのを見つけました。何故か周囲には誰もいません。私は一度拾い上げて、その中身を確認しました。幾種類ものカードと、一万円札がぎっしりと詰まっています。もう一度周囲を見渡しました。やはり誰もいないことを確信してから、私はその財布を側溝に投げ込みました。

 何の根拠もありませんでしたが、罠に違いないと思いました。どんな罠かは見当もつきませんでしたが、私に幸運が舞い降りるという時点でうそ臭く、真に受けることなど到底出来ませんでした。本来ならば疑心暗鬼に陥っていると謗られてもおかしくないところですが、しかし、これが単なる幸運で片付けられないことは間もなく判明しました。

 学校に辿り着くまでの一〇分間で、私は七つも財布を見かけたのです。財布どころではありません。至るところに、お金や宝石が無防備に転がっていました。額縁に入った高価そうな絵が塀に架けられていたケースもあります。明らかにまともな状況ではありません。

 しかも、通り縋る他の大人達や通学途中の子供達は、それらを一顧だにしないのです。あたかも視界に不思議なものなど何一つ入っていないかの如く、自分達の日常を盲目的に邁進するだけでした。財宝に目を眩ませている私の足運びだけが不安定で落ち着きません。思うようにいかない苛立ちが嵩じて吐き気さえ覚え、さらに足元を覚束なくさせます。

 学校に着いても、異常を越えた異常は終わりませんでした。

 廊下のあちらこちらに、いかにも高価そうな宝物がこれ見よがしに転がっているのです。相変わらず、誰一人注意を向ける者はいません。それでいて誰一人、足をかけて転ぶ者もいないのです。悪戯にしては大掛かりで、徹底しています。試しに私は、教室の隅に落ちていた短剣を拾ってみました。柄の部分に真っ青な宝石が埋め込まれており、鞘は純金製です。その小ささに反して、ずっしりとした重さが腕にかかります。

「お、何かかっけーもん持ってんじゃん」

 クラスメイトの男の子が話し掛けてきました。短剣は散々教室の隅に放置されていたというのに、まるで私が拾い上げて初めて気付いたかのような素振りでした。

「ちょっと見して」

 と興味津々で手を出してくる彼に、短剣を渡してやりました。へー、ほー、すげー、と感嘆の声を連発している彼に、私は苦笑混じりに言いました。

「あげるよ、それ」

「え、マジで! いいのかよ。高そうだぜ」

「いいよ。どうせ拾いもんだし」

 何より、そんな得体の知れない武器に対して、微塵の執着心も湧きませんでした。

 まじかよ、サンキュー、と小躍りしながらその場を立ち去った彼は、すぐにでも短剣を誰かに見せびらかしたくてうずうずしているようでした。

 ところが予想に反し、彼は私の視線の先で、一直線に誰もいない教室の隅に向かうではありませんか。そして座り込み、短剣を寸分の狂いも無く元の位置に戻して、何事もなかったように別の友人に話し掛けるのでした。……開いた口が塞がりません。余程彼に対して文句を言ってやろうかと思いましたが、そういうレベルの問題でも無さそうです。

 何しろ、誰に対してやってみても、同じようなことが繰り返されたのです。クラス担任に廊下の端で拾った拳ほどもある巨大なダイヤモンドを手渡した時はこうでした。担任は不思議そうにダイヤを受け取り、以降は一瞥もくれません。そこへクラス一の悪ガキがやって来て、あろうことかサッカーボール代わりにダイヤを廊下へ蹴り転がしてしまったのです。そして偶然通りかかった校長先生が、壁から外れた画鋲を拾うついでに、転がって来たダイヤを受け止め、元の位置にぴたりと置いてゲームセット。以降は全員で無視です。

 馬鹿馬鹿しくなって、それ以上金銀財宝に関わるのをやめました。拾って自分のものにする勇気もなく、他の誰の役にも立ちそうにない。不快以外の何物でもありませんでした。

 下校時刻になって、校門を出たところで暁美ちゃんに出くわしました。三年の時は、彼女は隣のクラスでした。

「今帰り?」

「うん。暁美ちゃんは? 誰か待ってるの?」

「ううん。帰るとこだよ」

 私達は一緒に歩き出しました。さりげなく、暁美ちゃんの進路上に『落とし物』が掛かるように誘導したのですが、彼女はその悉くを無意識に踏み越えていました。ぶつかる直前に絶妙のタイミングで体ごとこちらを振り向き、おかげで歩幅がずれて首尾よく回避出来るようになる、といった風で、上質のコメディ映画を見ているような気分でした。

 時節も何も共通点は無いはずなのに、何となくあの日のことを回想しました。曖昧な秋空を見上げ、そこから通じる記憶の糸を手繰り、妖精を踏み殺した忌まわしき日に視点を戻していたのです。放っておくと、夢想はいつまでも暴走を続けました。左足をアスファルトに接地させるたびに違和感が走りました。どうしてそこに背骨をへし折る感触が無いのだろう。内臓を踏み潰す感触が無いのだろう。無言の断末魔が聴こえないのだろう。

 何もかもがあの日と違いました。公園では、幾人かの子供達が楽しそうに遊んでいました。砂場には黄金が埋まっているのが外からでもわかりました。誰一人見向きもしないので、逆にいつもより目立っていました。その違和感を暁美ちゃんに伝えようかとも思いましたが、結局やめました。どうせ何を言ったところで、私が独りきりで怪異に翻弄され続けるという大元の構造に、仇なすことなど出来そうになかったからです。

 当然、公園に寄り道していこうという流れにはなりませんでした。

 あの日妖精を踏みつけたまさにその場所に、銀の十字架が立っているのが見えました。考えるまでもなく、私にしか見えない異物でした。思わせぶりな演出に腹が立ち、私は十字架を思い切り蹴飛ばして乾いた側溝に落としました。私の憤りの対象はいつもはっきりしません。妖精の死を愚弄するつもりではないのに、結果的にそのように見えるのは我ながら皮肉な話です。少しだけ気が晴れている倒錯的な自分を意識し、溜息をつきます。

 その朝に私が投げ捨てたはずの財布が、全く同じ位置に舞い戻っているのを薄気味悪く見送りながら、とりあえずは何事もなく自宅の前まで辿り着きました。

 じゃあね、と門扉をくぐろうとする私を暁美ちゃんが呼び止めます。

「今日誕生日でしょ? これプレゼント」

 暁美ちゃんは、手提げ鞄の中から綺麗にラッピングされた直方体の箱を取り出しました。単行本より一回り大きいくらいのサイズで、あまり重そうではありません。プラスチック製のロボットプラモデルか、電池で動く自作式のミニチュア自動車に違いない、と私にはすぐにピンと来ました。この年代の男の子の玩具で、最もポピュラーな商品がその二つでした。値段も手頃です。『心を込めた手作りの何か』を期待するような間柄ではありませんでしたし、既製品でも十分に思いは伝わるものです。

 いくら妖精の影に脅えて屈折していた私でも、人並みに子供らしいところもありました。

「……ありがとう」

 と少し照れ臭そうに笑った私は、確かにその瞬間だけ妖精の支配から逃れていたように思います。

 暁美ちゃんからのプレゼントを受け取った私は、向こうの誕生日にお礼することを約束して、家に入りました。靴を脱ぐなりすぐさま階段を駆け上がり、自室に篭ります。……女の子からのプレゼントで心弾ませるくらいの甲斐性は持ち合わせていたのです。

 リボンを外す前に、箱を軽く揺すってみました。がさがさと硬質の物同士が触れ合う軽い音がします。全体を見ると、重さに少し偏りがあることから、全てのパーツが一様に軽量プラスチックであるプラモデルではなくて、金属製のモーターの入っているミニチュア自動車の方だろうと当たりをつけました。

 丁寧にリボンを外し、ラッピングを留めるセロファンテープも慎重に剥がしました。剥がれた包装紙は綺麗に畳んでおきます。現れたのは、予想通り例のミニチュア自動車の梱包容器でした。しかもイラストを見る限り、最新機種の内で一番人気のあるタイプです。

 私は一人、すげーすげーと何度も口中で呟きました。丁度、昼間短剣を見せられた友人と同じような、見事に芸の無いステレオタイプな反応です。

私は、早速組み立てを始めるべく、蓋を開けました。

 そして妖精と再会したのです。

 驚きのあまり、紙製の薄い蓋を放り投げていました。引き付けを起こしたように、両腕が勝手に動いたのです。内箱が、膝の上からカーペットへと滑り落ちました。反射的な悲鳴を押し殺せたのは僥倖だったと言えます。箱の中身を目にした瞬間、手の届かない顔面の奥の方に冷水を注入されたような、もどかしい不快が襲い掛かりました。歯の根が合わなくなり、口の中と瞳が急速に渇いていくのがわかります。一旦目を閉じ、ゆっくりとした深呼吸を余儀なくされました。鼻から息を抜き、僅かながら口中に分泌された唾液を飲み下します。血の匂いのなかったことが、私を少しだけ落ち着かせました。心臓が爆発的な速度で脈打っていますが、これは全身に警鐘を打ち鳴らしてくれているのだと見なして、歓迎することにしました。怪異に翻弄されるばかりでは気がふれてしまいそうでした。

 内箱の中では、車を構成する細かい雑多なパーツに紛れて、あたかもその豪華な付属品であるかのように、小さな妖精が横たわっていました。勿論――そう、勿論と言ってしまって差し支えないでしょう――、妖精は絶命しています。

 あの日踏みつけたものと異なり、血は殆ど流れていません。潰れてもいません。ただ、草色の衣装に包まれた上半身の、両の乳房のほぼ真ん中に、金属製の短いシャフトが深く突き刺さっていました。……それ以外に外傷はありません。

 馬鹿な、と私は天を仰ぎました。そのシャフトは、本来ならばモーターの動力を車軸に伝えるギアを所定位置に固定するためのパーツでした。ほんの小指の先ほどの、軽金属で出来た細い棒です。落としたらすぐになくしてしまいそうな、ちっぽけな部品です。それがために、本来ならビニールの小袋に分けられているはずのものでした。なのにどうして、そんな小さな金属棒が、妖精の肉体を抉り、あまつさえその命を奪っているのでしょうか!

 妖精がミニチュア自動車の小箱に入っていた理由については一切考えませんでした。私にとって、妖精の登場は不条理で当然、そこに何の意味もないのは必然ですらありました。

 妖精には、まだ体温が残っており、今にも動き出しそうに思えました。

 しかし、その瞳が私に死を確信させました。嫌というほど見慣れた、死者特有の濁りが張り付いています。色は深い藍色で、前に殺した者と若干異なりましたが、それくらいのことでそこに潜む死の淀みを見間違えるはずがありません。表情も、驚いたような顔のまま凍りついたように動きません。あまりにも居たたまれなくなって、恐る恐る瞼を閉じてやりました。妖精の皮膚はやけにさらさらした、粉のような質感でした。睫毛が長く、タンポポの綿毛のように柔らかでした。髪の色もあの時踏みつけたものと異なっており、全く別の個体であろうと思われました。……死者が甦ってきたわけではないようです。

 妖精以外のパーツを全て箱の外に取り出し、棺桶のような状態にしました。選別したパーツから、凶器のシャフトが入っているはずだった小袋を探りました。予想通り、袋の一箇所が衝撃で突き破れたようになっており、ギア比の異なる色とりどりのプラスチック製の歯車は見つかりましたが、それを支える金属軸は入っていません。……間違いなく、この模型の一パーツが妖精の心臓を貫いたのでした。

 あの時だ、と私は直観しました。中身が何なのか気になって小刻みにパッケージを揺さぶった時、その内部に潜んでいた妖精に、シャフトが偶然縦向きになって強く衝突したのでしょう。人間の大きさにしてみれば、立てた鉛筆の上にベッドから腹這いになって転がり落ちたような按配です。極端に運が悪ければ、それだけでも痛い目を見るでしょう。

 何気ない行動の裏側でそんな悲劇が起こっていたかと思うと、割り切れない感情が一回りして、いっそ小気味良いくらいになりました。私を律するはずの正しい価値観の檻は、とっくに弾け飛んでいました。気付けば私は動き出していました。

 部屋を出て、救急箱を取りに行きました。勿論、妖精の治療が目的ではありません。錯乱気味だったとはいえ、生と死の別くらいは把握していました。私は、先の細いピンセットが二つ欲しかったのです。次は台所に行って、薄手のゴム手袋を一対持って来ました。母が冬場の水仕事での手荒れを気にしていて、奥の収納にストックしてあるのを知っていたのです。居間でテレビを見ていた母は、そんなもの何に使うのか、と訝りましたが、図工で必要なの、と適当な声を返して乗り切りました。今日お誕生日だけど、夕飯何食べたい? と続けて尋ねられたのには、何でもいいと素っ気無く告げるのみでした。この期に及んでは、自分の誕生日など些末なことに過ぎません。

 私は、不思議な昂揚感に包まれていました。部屋に戻り、内側から鍵をかけると、異様な雰囲気がぎゅっと凝縮されたように感じました。安っぽい紙箱の中で有翅の小人が杭を打たれて永遠の眠りを享受している様は、あらゆる意味で幻惑的でした。それを高みから見下ろす内、純粋培養された不条理に襲われているのは私ではなく、この憐れな小妖精の方ではないか、という錯覚に酔ってきました。偽りの多幸感は麻薬のように心身を蝕みます。理不尽の全てを他者に押し付ける限りにおいて、私の全身を隈なく包む恐怖の粒子は、皮下に滲入して沈着することなく、表皮を撫でて部屋中を対流し続けました。大舞台直前にも似た心地良い緊張が、私の内側から膨らんでいきます。

 私に出来ることと私にしか出来ないことの境界が、その瞬間だけ曖昧になりました。

 外が明るい内から、早くも電気を点けます。自分の影が妖精にかからない位置を上手く選び、紙箱の傍らに正座しました。子供の手には少し大き過ぎるゴム手袋を嵌めていきます。右、そして左。指先を使う細かい作業が予想されたので、先端に空気が入らないよう奥までしっかり押し込みました。撓んだ部分のせいで第二関節を曲げるのに多少難儀しますが、大勢に影響はなさそうです。手の届く範囲にボックスティッシュと救急箱を置いて、大体の準備は終わりました。……一度、大きく息を吐きました。

 ピンセットを一本ずつ両手で構えた瞬間から、超越者の時間が始まりました。

 私を支えていたのは、純然たる好奇心と、それに相反する実際的な義務感の二つでした。

 左のピンセットで妖精の胸を押さえます。硬直の始まりつつある肉の感触には、卑猥さの欠片もありませんでした。左右のぐらつきが消える正確な力加減を会得したら、右のピンセットの出番です。服を貫いてわずかに頭を覗かせているシャフトを挟み、ゆっくりと引き抜いていきます。ピンセットの先端には滑り防止用の刻みがついていましたが、それでも三度失敗しました。シャフトに思いの外強く纏わりつく肉の感触に惧れをなして一度、力み過ぎて妖精の服まで挟んでしまって一度、手が滑りピンセット自体を落としてしまって一度。指先の震えを止められなかった辺りに、私の不徹底が垣間見えます。子供ゆえの甘さとも言えるでしょうが。……軌道に乗ってしまえば作業自体は楽なものでした。小さな金属パーツが多層構造の肉壁の中を滑るように進み、てらてらと赤く汚れた姿を外に現した時は、仄かな感動を覚えました。摘出した凶器はティッシュペーパーの上に転がしておき、栓を奪われた傷口からは、粘り気のある血液がどろっと緩やかに湧き出していました。草色の衣服が患部を中心に赤黒く染まっていきます。

 シャフトをティッシュで拭ってからよく観察すると、衝撃のために僅かながら折れ曲がっているのがわかりました。車輪の駆動には支障なしと見て、いまや主役を譲ったミニチュアパーツ群の中に放り込みます。

 ……そして、ここからが本番です。

 まずは右手のピンセットをハサミに持ち替えて、邪魔な衣服を切り裂きました。ボタンの脇を一直線に開きます。刃先が胸の辺りを通る時だけ、冴え渡る音階に変化が生まれました。襟元まで裁断が済むと、ピンセットを使って左右に大きく広げました。

 女性らしい柔らかなフォルムの白い裸身が目前に晒され、私は食い入るようにそれを見詰めました。胸をせり上がる背徳感は、着せ替え人形のスカートの中を覗いた時と似た類のものでした。ただし、私を魅了したのは官能的な両胸の膨らみやその頂上の桃色の突起などではなく、なだらかな谷に穿たれた孔とその中に凝る暗黒です。完璧に近い肢体に敢えて汚点を交えることで、独特の調和が生じていました。

 その内に、一筋の細い血の流れが左胸の裾野を汚しました。私の右手の得物はカッターナイフに変わっていました。チキチキチキ、と鈍い刃を送り出します。左のピンセットで皮膚の弛みを思い切り伸ばし、刃先を胸の傷口に触れさせました。固まりかけた血液がぬらりと纏わりつくのを感じながら、力を込めて縦にスライドさせます。

粘土を割くような、重さでした。皮膚と、脂肪と、筋肉と。時折引っ掛かりを感じる時には細かく個別に切りつけて、それ以外は一息に、躊躇無くぐいぐいと切り進めて行きました。肋骨は硬過ぎて諦めました。必然的に、綺麗に肉体を切り開くことが出来たのは、横隔膜より下の部分だけでした。臍を一刀両断してぱっくりと割れた裂け目から生臭い血の匂いが鼻をつきます。ピンセットでこじ開けるようにして、中を覗いてみました。

 生物の体内は色彩豊かで美しいと言いますが、妖精のそれも例外ではありませんでした。灰色、茶色、桃色、暗赤色、褐色、黄色と様々な色で私を出迎えた臓器達を、純粋に綺麗だと感じました。下腹部をぬめぬめと縦横無尽にうねり走るひだのついた管も、鮮血よりも生々しく照り光るぼってりした赤い塊も、全てが未知との遭遇でした。

 私は夢中になり、もっと中をよく見ようと腹部をさらに大きく開きました。上から見ると丁度『土』の字になるよう胴に切れ込みをいれ、余った皮膚をべろんと両側に剥がしました。皮膚の内側には白っぽい脂肪がへばり付き、赤く張りのある筋肉が縦横に走っています。完全に白日のもとに晒された内臓を見ても、吐き気を催したりはしませんでした。生物にのみ許された神秘がそこにあるのです。気色悪いなどと言っていられません。

 私は、内臓を腹腔内から引きずり出していきました。

 思えば、私は生物の身体の仕組みを妖精から学んだのです。消化器官が全て繋がっていることを肉眼で確認もしましたし、肝臓がいくつかの葉に分かれていることや、腎臓が左右に一対あること、子宮や卵巣などの女性特有の生殖器系も把握しました。筋肉の付き方や骨の位置もそうです。勿論、この時点では各組織の機能はおろか名称すら知らなかったわけですが、だからこそ興味は尽きませんでした。

 ちなみに、それらが細かいところで人間と異なっていると気付いたのは、随分と後のことです。動物種ごとに内臓や骨格の特徴が異なるのは当然と言えば当然でした。妖精は羽の生えた小さな人間というわけではなく、別の進化体系を持った他種族なのです。

 この時の妖精の解剖は、およそ二時間弱続きました。というか、それだけしか続けられなかったのです。心情的には何時間でも見物していたかったですし、もっと言えば堅固な肋骨に隠された胸部や頭蓋内におさまった脳なども見てみたかったのですが、突然その対象が消え失せてしまったのだから仕方ありません。

 ……そう、妖精の死体は消えてなくなってしまったのです。

 それも、私の目の前で瞬時にして掻き消えました。ゲームのデータが喪失するのと同じような唐突さで、三次元に受肉していた死骸が根こそぎ奪われたのです。私は自分の目を疑いました。まばたき一つしていない中での完全な消滅でした。有から無へ。絶対とも言えるその垣根を、奴は容易く飛び越えたのです。戦慄が走りました。後に残されたのは、片付けの必要な子供部屋だけです。ミニチュア自動車の内箱にはビニールが敷かれていますが、血脂の痕はありません。ピンセット、カッター、ハサミ、ゴム手袋、さらにはそれらを拭ったはずのティッシュペーパーすら、見事なまでに清潔さを維持しています。工作にでも使われたように、平和な顔をしてそこらにのんびりと転がっているのでした。

 ……あの時と、同じだ。言い知れぬ不安が急速に膨れ上がりました。再び、妖精は妄想の中に溶けてしまったのです。私は困惑しました。いずれ消えてしまうのなら、わざわざ現れる必要は無いだろうに。妖精が前回と同じやり口を踏襲する意味がわかりませんでした。恐怖を煽ることにすら失敗していると言えました。私はただただ、不条理を嘆くのみでした。倦怠感と反比例するように、超越的心裡は萎んでいきました。抜け殻のように座り込む私に、今頃になって吐き気が追い討ちをかけてきました。不器用な私には、胃の中身を心ごと上手く吐き出すことは出来ませんでした。

 ……誕生日は、それで終わりました。次の日、不自然な宝物も当然のように全て消えていました。妖精と同じく、何もかも夢であったかのように。所詮、そんなものです。

 暁美ちゃんからの本来のプレゼントであるミニチュア自動車を完成させてみると、例のシャフトが少し曲がっている影響か、思ったよりスピードが出ませんでした。

 ただ、その鈍さこそが妖精のもたらした確かな余波だと思うと、私の心は少しだけ落ち着きを取り戻しました。妖精の実在の証左が、私の実在をも保証するかのようでした。

 眠れない夜には、空転させたそのモーター音を聴きました。耳障りな甲高い機械音は、鼓膜の隙間を抜けて脳内にまで足を伸ばし、私から悪夢を巻き取ってくれるようでした。

 まさか本当にそのせいだったとは思いませんが、驚くべきことに、夜中に魘される回数はこの誕生日を境に徐々に減っていき、ある時を境にぷっつりとなくなりました。

 何故かはわかりませんが、とうとう夢の世界から妖精は完全に駆逐されたのです。

 ……しかし、全く喜ぶことなど出来ません。次の妖精との出会い以降、事態は加速度的に悪化していきました。妖精は夢から抜け出て、現実を侵し始めたのです。


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