第2話

 妖精との最初の邂逅から三日程経ったある日、私は驚くべきことに気付きました。

 夜が来るたびに襲われる言い知れぬ不安感を徐々に飼い慣らし、恐い夢にさえ順応を始めている頃でした。本当は同じ恐怖を誰かと分かち合いたかったのですが、暁美ちゃんがけろりとした顔で登校しているのを見て、一人で弱音を吐くのは格好悪いと思ったのです。だから、彼女と妖精について話すことはしませんでしたし、他の友達にも何も言いませんでした。暁美ちゃんと二人だけの秘密にしておきたい、という下心もあったかと思います。

 その日、梅雨入り前の最後の晴れ間を覗かせる空の下、私と暁美ちゃんは下校の途に着いていました。どうしても俯きがちになり、一々足元を確かめてしまう私に対し、暁美ちゃんは手提げ鞄を振り回しながら、呑気に歩を進めています。

 他愛の無い話の途中、例の公園に差し掛かるや、彼女はこう言いました。

「ねえ、ブランコ乗ってこうよ」

 私にはわけがわかりませんでした。他の友人達とならともかく、暁美ちゃんと一緒にこの公園で遊んだ経験は無かったからです。三日前の埋葬の際が唯一の機会でした。

 一人で公園内に走って行く赤いランドセルを見ながら、私は首を傾げました。自分と誰かを間違えているのかな、とそんな風に考えていました。

 公園には誰もいませんでした。三日前はひとえに天候のせいでしたが、この日は晴れていたので素直に不思議でした。おそらく何かの偶然でスポットが出来たのでしょう。小さい子供と若いお母さん方で賑やいでいることもあるので、かなりの幸運であると言えます。

「今日は雨なんか降らないから、大丈夫だね」

 暁美ちゃんは、手提げ鞄とランドセルを放り投げると、二つ並んだブランコの左側に陣取り、通常とは違って横方向に揺らし始めました。暁美ちゃんがやろうとしているのは、横並びの二つのブランコをお互いに横方向に揺らして行き、足場をぶつけ合って相手を落とした方が勝ち、というルールのゲームです。横向きに大きく揺らすためには、チェーンの握り位置や体重移動のタイミングにコツが必要でなかなかに面白いのですが、ぶつかり合って落とすという部分が穏やかではありません。その内に、相手のチェーンを掴んで体勢を崩させたり、それどころか直接蹴ったりと内容がどんどんエスカレートして来ます。気心の知れない他の子供達がいる時には、なかなか出来ない遊びでした。

 誰もいないこの期にそれをやろうという考え自体は、わからないでもないのですが……。

「ねえ、早くやろうよ」

 暁美ちゃんは、縦揺れと横揺れを同時に駆使して、円を描くようにブランコを漕いでいます。私は、ランドセルを下ろして地面に置くと、右側のブランコに立ち乗りしました。最初は普通に縦に漕ぎ始め、徐々に横への振幅を大きくしていきます。

「あのさ……」

 私は、何と質問すべきか悩みました。妖精のことを直接口に出すのは憚られたからです。

「この前の雨の日さ、僕達何やったっけ?」

 結局、単刀直入とも言える訊き方になりましたが、これは功を奏しました。暁美ちゃんは不思議そうに首を傾げた後、こう答えたのです。

「もう忘れたの? 誰もいないからブランコ乗ろうってなって、二人で遊んだじゃん」

「……そうだっけ?」

「いきなり雨がちょー降ってきてさ、傘あるから大丈夫、とか言ってたのに、全然大丈夫じゃなかった。ビックリしたよね」

 帰ってからママに怒られた、と照れ臭そうに笑う彼女に、嘘を吐いている様子はありませんでした。別の日のことを言っているというわけでも無さそうです。彼女は、チェーンの握り位置をずらしてブランコの振幅を巧みにこちらに合わせ、虎視眈々とぶつけるタイミングを窺っていますが、私にはゲームに興じている精神的余裕などありませんでした。

 左足に、あの時の感触が甦ってきます。

「ブランコ乗る前とか、何か無かったっけ?」

「何かって?」

「いや、その、何か埋めたとか」

「何いってんの?」

 がつん、と不意に衝撃があって宙に放り出されそうになり、私はつんのめりました。気もそぞろな私の態度に業を煮やしたのか、暁美ちゃんがブランコを衝突させてきたのです。

 チェーンが軋んだ音を立て、足場が大きく揺れます。私はブランコの振幅に身を任せ、どうにか体勢を立て直しました。あの日妖精を埋めた植え込みが、視界の隅に引っ掛かりました。木陰になっていて薄暗いためか、どことなく忌まわしい匂いを感じます。

「妖精――」

 悪心に後押しされるように、何も考えずにそこまで口にしてしまって、慌てて後を付け足します。

「――って見たことある?」

「え、知らないの? 妖精なんていないんだよ」

 暁美ちゃんは、少し大人ぶるように言いました。顔色を窺うと、こちらを小馬鹿にするような薄い笑みが張り付いていました。

「お化けも怪獣も魔法使いもいないんだよ。《ひかがく的》だってお兄ちゃんが言ってた」

 暁美ちゃんには歳の離れた中学生のお兄さんがいるのでした。

 私は思いました。もしかすると、暁美ちゃんはあの日の妖精のことをお兄さんに喋ったのかもしれない。そして、お兄さんの入れ知恵で、妖精がこの世に存在しない生き物だと納得させられ、あの日のことは無かったことにされたのかもしれない……。

 私は、その不条理にひどく腹を立てました。上手く説明は出来ませんが、自分の苦悩そのものを全否定されたような気がしたからです。

「じゃあ、妖精いたらどうする?」

「百万円あげるよ」

「絶対? 命かける?」

「かけるよ」

 子供らしい馬鹿な誓約を終えると、私はブランコから飛び下りました。ちょっと付いて来て、と言うや三日前に作ったお墓に向かって走り出します。ねえ、何、どうしたの、と不審そうにしながらも、暁美ちゃんが追ってくるのがわかりました。

 その辺りの地面はまだ湿っていました。夢の中で背中に感じた血液の湿り気を髣髴とさせます。振り向くと、そこには暁美ちゃんがいます。その顔が死骸との二重写しになる前に、私は正面に向き戻りました。墓石代わりの石が二つ、あの日と変わらず立っています。献花のつもりの名も知らぬ雑草は萎れてしまい、ゴミのようにしか見えませんでした。

「こんなとこに何があるの?」

 あくまで白を切るつもりなのか、と私の中で怒りが膨れ上がりました。尻込みしていた気持ちを容易に飲み込みます。一度、大きく深呼吸をしました。夢の中で毎晩訪ねて来る不気味な死骸が頭をちらつきます。私は歯を食いしばり、見てろよ、と言い捨てて地面を掘り起こし始めました。墓石の片方を使って湿った黒土を掻き分けると、すぐさまビニール袋の端っこに行き当たりました。暁美ちゃんは興味津々に私の手元を覗き込んでいます。

「それ、何?」

「……本当に憶えてないの?」

 ここに来て私は、急激に恐怖がせり上がって来るのを感じました。

 細かく震える指先でビニール袋を摘み上げました。中に妖精の死体が入っていると思うと、まだその殆どが地中に埋まっているというのに、直視出来ません。

「何見ても驚かないでね」

 そう前置きすると、暁美ちゃんが少し眉を顰めて頷きました。私は指に力をこめ、ビニールを土中から引きずり出しました。勿論、顔は背けて、あらぬ方向を見ています。

 ビニールは一瞬何かが引っ掛かるような重い手応えの後、ずるずると引き出されて来ました。階段を這い上がるゾンビの幻影が私を脅かします。指先から痺れるような嫌悪が腕を這い上がります。かろうじて、夢に出てくる怪物よりも対象が小さいことが救いでした。

ビニール袋が全て地上に出ると、私はそれを暁美ちゃんの方に掲げました。

「ほら、見て」

 当の私は死体を視界の隅で捉えることすら厭い、完全に目を逸らしていました。暁美ちゃんが納得したら、目を瞑ったまますぐに埋め直すつもりでいました。

 墓を暴くということが死者への冒涜であることくらい、子供でも理解出来るのです。

 暁美ちゃんは、恐怖の悲鳴を上げるでも驚きの喚声を上げるでもなく、黙って私の肩を揺さぶりました。触れられた瞬間、びくっと竦んでしまったのは無理からぬことでしょう。

「ねー。これ、何なの?」

 と、心底不思議そうに、暁美ちゃんが尋ねました。

「見てわかんない? 死体だよ。妖精の」

「えー。ビニールにしか見えないけど」

「違うよ。中見て、中。外はただのビニール袋だから」

 私の右手から、ビニール袋が引っ手繰られました。がさごそと中を検める音がします。袋は透明なのだから、外から見ても一目瞭然のはずです。一体何をやっているんだろう、と不審に思いました。血塗れの妖精を捏ね繰り回しているんでしょうか?

しかし、暁美ちゃんは、私の疑念を払拭するようなとんでもないことを口に出しました。

「土しか入ってないけど?」

 ……まさか。私は恐る恐る、そちらへと顔を向けました。しゃがんだ暁美ちゃんが手にしているのは、多少汚れてはいますが、あの時埋めた何の変哲も無いビニール袋そのものでした。そして中には、埋められていたのと同じような湿った黒土が、申し訳程度に詰まっているだけでした。妖精の死骸はおろか、血の滴った跡すらありません。

「そんな……」

 ビニールを引っ張り出した時に中から転げ落ちたのかもしれない。私は咄嗟に掘り返された墓へ向き直り、石で静かに土を掻き出していきました。今にも血に濡れた細い腕にぶつかりそうで、体の震えは止まりませんでした。嫌な予感が、全身を支配していました。自分が取り返しのつかない領域に足を踏み入れた確信がありました。

 ……いくら掘り進んでも、妖精は出てきませんでした。私は狂ったように掘り続けました。肘が埋まるほどまでの深い穴を作りました。暁美ちゃんは私の横でじっとしていました。何かがおかしいはずなのに、何がおかしいのかわかりません。

 妖精の痕跡が、何一つ見つかりません。

 言いようの無い恐怖に駆られて、私は走り出しました。公園の外、左足で一撃のもと妖精を殺害した現場を見に行きました。多量の血痕が、アスファルトに染みになって残っているのを期待しました。本来厭悪すべき禍々しい想像が、今は私を救うのです。

 誰かが私を追って来ます。暁美ちゃんの姿を模したそれは、きっと殺された妖精に違いありません。墓場から甦り、私に取り憑いて殺す気なのです。……だから私を騙しているのです! 振り返れば、そこにはあの濁った瞳が私を睨んでいるのです。

 現場は綺麗なものでした。あの日降った大雨のためか、あるいは最初から全てがまやかしだったのか、そこには何の汚れも残されていませんでした。場所が間違っているかもしれないので、五メートルほど前後を探りましたが、やはり無駄でした。

妖精は、私を除いた現実世界から忽然と姿を消してしまったのです。

「なんで……」

 私の殺した妖精は、今や私の中だけにしか存在しません。暁美ちゃんに重なる不気味な死に顔。死角や暗がりに隠れる敵討ち志願の同類。毎晩訪ねて来る人間大の屍。その全てが、私の作り出した空疎な虚像に堕し、恐怖の実体が掻き消されたのです。

 それは決して、救いなどではありませんでした。更なる恐怖の引き鉄です。せめてもの情けとして骸を埋葬したという事実が現実の中で否定され、悪夢だけが後に残ったのです。元から自己満足だったとは言え、自分を安心させる事由を私は完全に失いました。

 背中側からぬっと伸びて来た腕が私の両肩に負ぶさり、私は飛び上がらんばかりに驚きました。……振り向くと、にやにやしながら暁美ちゃんがこちらを見ています。

「さっきから一人で何やってんの?」

 その瞳が澄み切っていること、日本人らしい黒色であること、焦点を結んでいることを確認してから、私は切り返しました。

「僕がここで妖精踏んだの覚えてない?」

「……踏んだの?」

「そう。踏み潰して殺したの」

「何で?」

「何でかは知らないけど。いきなり、ぐしゃって」

「いつ?」

「だから、三日前の雨の日」

「ブランコ乗った日?」

「そう……いや、ブランコは乗ってない」

「乗ったじゃん」

 ……駄目です。議論は完全に平行線を辿りそうです。私は確信しました。

 暁美ちゃんの中で、あの日はブランコに乗って遊んでいる途中に雨に降られたことになっているのです。妖精の存在など最初からなかったように、辻褄を合わされているのです。

 だったらどうして自分の記憶の中には残っているんでしょうか。どうせなら、暁美ちゃんと同じように消してもらえれば良かったのに……。

 そんな愚にもつかないことを考えながら、気落ちした私はそれ以上遊ぶ気にもならず、ランドセルを拾い上げてとぼとぼ帰路に着きました。暁美ちゃんがしきりに何か話し掛けていましたが、内容は全く頭に入って来ませんでした。


 私は、妄想と悪夢に耐えながら日常生活を送りました。厄介なのは、そのどちらもが現実世界には本来何ら影響を及ぼさない、という点でした。

 影に怯える内、私は逆に、きちんと目に見える形で妖精に現れて欲しいと熱望するようになりました。自分の中の幻影が相手では、対処のしようがありません。どれだけ恐ろしかろうと、気色悪かろうと、目の前に受肉した相手が出て来れば、謝罪なり説得なり何らかの対応手段があるはずです。童話や何かを見る限り、妖精は知的水準の高い穏やかな生き物に思われました。私は、それに賭けていたのです。

 練習のために、悪夢に出て来る妖精には出来るだけ友好的に話し掛けるようにしました。そのせいで殺されたことは数知れません。夢の中でどんなに惨たらしく滅ぼされても現実の私が死なないのは、むしろ不幸なことかもしれない、本気でそんな風に考えていました。

 悪夢はどんどんエスカレートしていきました。出て来る妖精の数も増えてきます。闘技場の真ん中で私が十字架に張り付けられ、その周囲を、観客席に至るまでぎっしりと数万人に及ぶ人間大の妖精達が取り囲んでいたこともありました。その中に、無傷なものは一体もいません。男も女も皆、おそらくは致命傷と言える深手を負って悲惨な傷痕を晒しています。顔が半分抉られて片目の零れ落ちた者、全身の皮膚がケロイドのようになった者、四肢全てを潰されて真っ赤な血を滴らせている者……、そんな風に、私の殺したのと全く関係のない傷を負っている者はいるのに、何故か五体満足な個体だけがいないのです。

 悪夢の中で、彼らが元気に飛び回る姿を披露してくれたことは一度たりともありません。

 そしてまた、そんな彼らと私の間に意思の疎通が叶ったことも一度もありませんでした。

 彼らは、ぼそぼそと何事かを呪言のように呟いているのですが、私にはその内容がどうしても聞き取れないのです。もしかすると、そもそも日本語ではないのかもしれません。

 闘技場の時もそうでした。数万人に及ぶ妖精の呪言は、波のようなうねりを伴って私の耳を聾します。鼓膜を通じて脳そのものを震動させられているようでした。律動に誘われて、眼窩から血の涙が溢れ出すのがわかります。私は自分の思いを言葉に託して叫びますが、耳を貸す者は一人もいません。重量を伴った音波に脳髄を打たれて悶えます。

 私は磔にされたまま、絶叫と鳴動の渦の中で気を失い、あるいは絶命し、現世で目を覚ましました。頬には涙の跡が、真っ赤に染まって残っていました。ぱりぱりに乾いた血糊を指先でこそげ落としながら、夢から零れ落ちた微かな妖精の気配に身を竦ませます。曙光を待って、毛布の中でひたすらに震え続けました。

 ……またある時、夢の中であの日の帰り道の再現に遭遇しました。黄色い傘を持った私が、気の滅入るような曇天の下、暁美ちゃんと一緒に下校することになったのです。

 ここでやり直せれば、全ての悩みから解放されるかもしれない。そんな淡い期待を抱き、私は慎重に歩き始めました。足元を見詰めたまま、摺り足で歩を進めます。これ以上無いほど不自由でしたが、こうするより他ありません。妖精を刺し貫く惧れのある傘の先端にも注意です。どうにかして、まともな姿の妖精を目にしなければなりません。緊張で、額に汗が滲むのがわかりました。気がつくと、暁美ちゃんは先に行ってしまったのか、私は独りになっていました。構うことはありません。この夢は、私と人外の生物との神聖なる決闘の場であり、部外者である彼女の幻影はそもそもそぐわないのです。

 公園に辿り着かない内から、雨が降り出しました。あの日の天候を正確にトレースしているのかもしれません。私は傘も差さずにそのまま歩き続けました。ここまで確立してきたペースを崩したくなかったのです。冷たい雨に打たれ、体中の感覚が消えそうになりました。風邪の初期症状が肉体の危険を懸命に伝えようとしてきましたが、どうせ夢だから、の一言で全てを踏みにじりました。そう、どうせ、夢なのです。

 その夢の中で、現場に辿り着きました。滝に打たれているのと殆ど変わらない状況でした。ただでさえ低い木立が、身を屈めてより一層小さく見えました。鉄柵を走るように伝う雨垂れが、その付け根からアスファルトに流れ下り、小川のようになって側溝に注いでいます。ぐっしょりと濡れたシャツが、今更ながらに不快でした。私は蝸牛のようにずりずりと粘着質に進みました。雨で煙る視界の中を妖精が横切っても、絶対に見逃すまいと目を皿のようにしていました。実際には、通行人どころか、アマガエル一匹いませんでした。雨と私とで形成された世界に、ただ悪意だけが充満していきます。

 ……そして不条理の極限点において、私の知り得ない因果が収斂し、結実したのです。

突然、ぐしゃっと思い出したくもない鈍い音が響き、視界の隅に鮮血の花が散りました。恐る恐るそちらに目をやると、ずぶ濡れのアスファルトに真っ赤な肉の塊が痙攣していました。人形……。いかなる思い込みをもってしても、そう断じることは不可能でした。その背に、小さな透き通った羽がわずかに原形を留めているのが見えました。

 墜落。その言葉が自分の中に浸透するより先に、事態は動き始めました。今度は後ろから異音が響きます。ぐしゃ。もう、目を向ける間もありませんでした。続いて右。そして左。さらに右……。潰滅の序曲はテンポをあげてメロディを奏でていきます。ぐしゃ、ぐしゃ。ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。ぐしゃ……。妖精は悲鳴一つ上げずに、空から降ってきては地面に激突してただ絶命していきます。そこに、私の意志の介在する余地はありませんでした。ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。

 ある一体が目の前を通り過ぎる一瞬、スローモーションのように時の流れが遅くなりました。映画の特殊効果よりもスムーズに、まるで、私の意識だけが正常の時間流から切り離されて加速したようでした。雨の一粒一粒が、緩慢に空を彷徨っています。意外なことに、空から降ってきた妖精は既に血塗れになり、変形していました。空中で身悶え一つしません。ただ重力に引かれて落下するに任せていました。それは間違いなく、あの時私の踏み潰した妖精でした。なのにどうして天から落ちてこなければならないのか、私には理解出来ません。ただ、もう見たくない、とそれだけを切に願いました。……勿論、叶うはずなどありません。いくら目を逸らそうとしても、身体がこの速さについて来ないのです。

 彼女から滴った血液が、幾つも玉になって宙を舞っていました。破裂した内臓と折れた背骨のためか、腹から下が不安定に揺らいでいます。緑色の髪は雨に濡れて重たく張り付き、羽はくしゃくしゃに折れ曲がっています。鼻は潰れ、顔の下半分は崩れ果て、不自然に角張っています。おそらく整っていただろう顔立ちは、面影も望めません。

 ……身体のあらゆるパーツが死を明示しているにも関わらず、濁った蒼い瞳だけは、落下に合わせて私の顔を追尾し、ぎょろりと動くのでした。茫洋と、焦点を結ばない薄膜の向こう側から、彼女は私を恨めしげに見上げています。白目を剥き、死相が顔面にこびり付いた瞬間、呪言が耳元で聴こえました。私は何も言えず、目を瞑ることすら許されず、ただそれを見送りました。妖精が地面にぶつかるや否や、時間の流れが戻りました。雨音が連打を再開し、彼女は熟れ過ぎたトマトのように赤い液体を撒き散らして潰れ果てます。

 これは、不可抗力なんだ。私は叫びました。雨と血が混じりあい、道路は醜悪な川と化しています。濁ったアスファルトを蹴って、私は無我夢中で走り始めました。もう容赦はしません。死者に鞭打つように、墜落した妖精を踏みつけます。傘を振り回して打ち落とします。骨の折れる音、肉の潰れる音、その中に私の荒い呼吸音が溶け合っています。

 一つの真理がここに提示されました。妖精は死ぬのです。あるいは私が殺すのです。私の前では、それだけが全てなのです。

 幾百の屍を踏み越えて辿り着いた我が家の、見慣れた玄関を開けた瞬間、そこに人間大の妖精が立っていました。濁った蒼い瞳と、剥き出しの肋骨が目に入った瞬間、私はようやく安堵の吐息を漏らしました。さあ、早く私を殺して下さい。

 私の喉首にかかる白い腕と、ぞろりと生え揃った長い牙が視界を覆い尽くし、冷えた肌に生温い感触がかえって心地良い、そんな破滅的な終焉でした。破滅的であればあるほど、私は救われているのかもしれません。夢の中で気を失い、現実世界で飛び起きるまでのほんのわずかなタイムラグ。それだけが、私の真なる安息の時間でした。

 妖精は一体自分に何を伝えたいのだろうか。毎日のように続く悪夢に、そんなことを考えました。呪い殺すつもりなら、良い加減とどめをさして欲しいとまで思いました。交渉の覚悟も、負けて死ぬ覚悟も出来ているのに、妖精はそのどちらも望んでいないようなのです。生き地獄とはまさにこういうことでしょう。

 そんな風に妖精の影に脅える日々が、一年以上続きました。

 幾ら眠っても疲れがとれないため、私の目の下にはくっきりとした隈が痕になり、目付きが異様に悪くなりました。足元に注意を向けているためにいつでも俯きがちで、物陰や背後にびくびくと脅える様は明らかに病的でした。そのため、何度もカウンセリングを受けさせられました。医師によってどのような診断が下されたのか、私自身はよく知りません。妖精のことをひた隠しにする私に対し、愚にもつかない問答を繰り返しただけの彼らが、一体どんな病名で私を括れるでしょうか? 私は決して精神的に問題があったわけではありません。ただ、他の人とは異なる覚悟が必要な世界に迷い込んでいただけであって。

 そうである以上、私に対して治療を施すなど、おこがましいにもほどがあります。意識化に染み付いた妖精を引き剥がさない限り、回復など根本的にあり得ないのです。

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