妖精惨殺証言

今迫直弥

第1話

 私が最初にその妖精を見たのは、小学校二年生の時でした。

 父の会社の都合でY県からC県に転居し、慣れ親しんだ人情味豊かな田舎の町を離れ、都心まで電車で四五分というベッドタウンでの殺伐とした生活がそれなりに軌道に乗った頃です。このような言い方をすると誤解を与えそうなので一応言い足しておくと、普請が安く、狭くて古めかしい社宅から、借家とはいえそこそこ立派な一軒家に移れたこともあり、両親はこの引越しに際しての不満を表に出すことは一度もありませんでした。父の転勤の背景が本社への栄転であったという事実もそれに一枚噛んでいたように思います。それに、人付き合いがさほど上手でなかった母にしてみれば、何かと言っては隣人が家族同然に個人的な事情に首を突っ込んでくる田舎の風土より、ご近所と軽く挨拶を交わす程度で切り抜けられる都会の浅い人間関係の方が、余程肌に合っていたことでしょう。

 幼かった私としても、仲の良い友達と離れ離れになるのは寂しかったですが、洋式のトイレで用を足したいという小さな願望が叶えられるのを始め、デメリットよりもメリットの方が遥かに多く、都会に一際近い土地への憧憬も手伝って、無邪気に喜んでいたのを憶えています。社宅では禁止されていたペットを飼えるかもしれない、という希望に胸を膨らませてもいました。私は、四足で歩く動物が大好きなのです。

 引越しは春休み中に行われ、二年の一学期から市立のK小学校に転校しました。私以外にも転校組がいましたし、年度始めでクラス替えもあったことも手伝って、私はすぐにクラスに溶け込むことが出来ました。小学校の低学年は、組内に際立った派閥構造や明確ないじめなどが少なく、旺盛な好奇心も手伝って、皆が平等に友人たり得る幸福な時期なのです。時には男女の枠すら越えて友情が成立しました。

 私が一番に仲良くなったのが、暁美ちゃんという女の子で、彼女は出席番号順に並んだ座席配置で私のすぐ斜め前にいました。長い黒髪を真っ直ぐに伸ばしていて、それがぞろりと背中の半分くらいを覆っていました。少し猫背気味で、栗鼠みたいな小作りの顔をしているのが非常に可愛らしかったです。また、隣の席の七川さんに話し掛けるついでに、決まって私をちらりと見遣り、口元に小さな笑みを浮かべるのも意味深で印象的でした。

 七川さんは、丸い眼鏡をかけたいかにも頭の良さそうな早熟な女の子で、仲が悪かったわけではありませんが、私の方で何となく気後れして上手く喋れず、なかなか馴染めませんでした。その点、暁美ちゃんは年相応の天真爛漫さで私に相対してくれたので、気兼ねなく対応することが出来たのです。何より、住所が同じ町内だったことが接近の一番のきっかけでしょう。暁美ちゃんの家は、私の家の三軒隣にありました。一緒に帰ろう、と直接口に出して言ったことはあまりありませんでしたが、成り行き上、帰り道が一緒になることは非常に多かったです。

 私が初めて妖精を見た時も、暁美ちゃんが一緒にいました。

 たぶん、六月に入るか入らないかくらいの時期でしょう。朝から曇りがちで、今にも雨が降り落ちてきそうな嫌な空模様でした。母に、黄色い派手な傘を持たされたのを憶えています。学校指定の奴で、きちんと名前を書いておかないと、傘立てでクラスメイトのものと混同してしまうという欠点がありました。男の子達の間ではちゃんばらに使われて骨が折れることもざらでしたが、私は比較的大人しい子供だったので全くの無事でした。

 帰りの会も終わり、友人らに別れの挨拶をしてから教室を出た私は、昇降口のところで暁美ちゃんに鉢合わせました。赤いランドセルに黄色い傘、青い半袖シャツに花柄のプリーツスカート、白いソックス、長い黒髪。憂鬱なモノクロームの天気の下で、一人華やかな色彩を放って世間に抵抗しているかのようです。私は何気なく話し掛けました。

「暁美ちゃん、今、帰り?」

「うん。雨降ったら嫌だし、今日は早く帰って来なさいってママが」

「傘持ってるから大丈夫じゃん」

「傘差しても少しは濡れるでしょ」

「それもそうか」

 とりとめもないことを話しながら、二人並んで歩きました。運動場では、高学年の学級が六時間目の体育でサッカーをしています。それを何となしに眺めながら、正門まで校庭の端を迂回して通りました。暁美ちゃんは、遊具に傘の先端をわざとぶつけて進んでいました。皆が似たようなことをするものだから、既に鉄棒の赤い支柱を覆う塗装は一部剥がれ、内側の醜く錆びた金属部分が剥き出しになっています。運梯のバーをカンカンカンカンカン……、と歩きながら連続して弾くのは面白そうでしたが、体育の先生がこちらを睨んでいるような気がして、私には恐くて真似出来ませんでした。

 家までは、子供の足で一〇分ほどです。車道と歩道の区別の無い細い路地を延々と抜けて行きます。朝と夕方に車両通行止めとなるスクールゾーンがあり、登下校の際の正規ルートがしっかり指定されていましたが、それに従うと私や暁美ちゃんの家の区域は少しだけ遠回りになるため、いつも別の道を通っていました。その道も住宅街を突き抜けて進むだけなので、大きな危険はありません。時折自転車に乗ったおばさんが通り過ぎるくらいで、トラックが抜け道として使っていたり、変質者が待ち構えているわけではないのです。

 ただ、その日に限っては、いつもなら何てことのない人通りの少なさが、妙な色合いの曇天と合わせて無性に不安を煽りました。それは暁美ちゃんも同じらしく、話の流れにそぐわないタイミングで、時折落ち着きの無い視線をあちらこちらに向けていました。傘の先端をアスファルトに引きずり、がらがらと濁った音を鳴らしながら……。

 湿った空気に負けないよう、私達は楽しげに語らっていました。雨が降る前に帰りたい、ということで恒例の石蹴りは却下されましたが、お喋りな口を封じることまでは出来ません。言いようの無い不安を跳ね返すくらいには、私は享楽的だったのです。

 ……その場限りで完結する益体も無いやり取りや愚にもつかない雑談。そこに漂っていた平和的な温い空気。日常を日常たらしめる無駄に満ちた平穏の残滓。私のアイデンティティーを支えているのは、もしかするとそういった平凡な要素の数々かもしれません。

 人間は、正常を下敷きにして初めて、異常の本質に触れることが出来るのですから。

 異変は唐突に私の左足に起こりました。家までの道程の中間辺りに辿り着いた時のことです。すぐ左手側には、民家が建ち並ぶ町の一角が大きく開けて公園になっており、木立の向こう側にブランコと滑り台、砂場と水飲み場が覗いています。さほど大きくない公園で、いつ降り出してもおかしくなさそうな曇り空が祟ってか、人影は全く無いようでした。

 公園を囲って立てられた低い柵を、カタカタカタカタ……、と傘の先端で思う存分弾いていた私は、踏み出した左足の下からスニーカー越しに伝わって来た突然の違和感と、グキ、とも、バキ、ともつかない不気味な音に、思わず飛び上がりました。何かを踏みつけてしまった、とすぐにわかりました。

「うわあ!」

 私は咄嗟のことに悲鳴を上げていました。飛びのいた拍子に黄色い傘が柵の横棒に当たって鈍い音を響かせます。反射的に自分の足元を見遣った私の目が、道路に横たわる奇妙に捩くれた物体を捉えました。私には最初、それが何だか全くわかりませんでした。

「どうしたの?」

 視線を戻すと、私の前で同じように柵を鳴らしていた暁美ちゃんがこちらを振り返っています。くりくりした大きな黒目が、不思議そうに私を見ていました。彼女の視線は、驚愕に引き攣っていたでしょう私の顔から、妙な角度で振り上げられたままの黄色い傘の先端を経て、最終的に私の足元に向けられて落ち着きました。

「あら? なあに、それ?」

 暁美ちゃんは躊躇無くこちらにやって来て、私の足元に屈み込みました。私に潰された何かをじっくり見ようという魂胆のようです。当の私は彼女に促されてようやく視線を下ろし、その何かを再度目視しました。

 それを端的に現すための要点は、数えるほどしかありません。一つ目は、それが片手で持てる程度の大きさだったこと。二つ目は、人型をしていたこと。

「……それ、リカちゃん?」

 私は、最もポピュラーな女の子向け玩具人形の名を挙げました。サイズと形状が合致していたからです。暁美ちゃんと目の高さを合わせるために、私もその場にしゃがみました。彼女はその人形らしきものを食い入るように見詰め、「違う」と断定的に言いました。

 実は、最初からそんなことはわかり切っていました。踏みつけた感触がソフトビニールの人形とは似ても似つかなかったからです。それはもっと遥かに禍々しく、ずっと後まで足の裏にこびり付くような不快を伴うものでした。私の足はそれを踏みつけた際、柔らかい表面に包まれた硬質な部分を、めきめきとへし折って破壊していました。子供向け玩具なら、堅固な骨格は決して必要ありません。

「だってこれ、動いてるよ」

 ……暁美ちゃんの言う通りでした。うつ伏せの細い胴体から伸びた両足が、ぴくぴくと小刻みに震えているのでした。不可解でした。リカちゃん人形には動力源がないので、関節が可動と言っても自動的に動くことはあり得ません。私はわずかな可能性に縋りました。

「ラジコンかな?」

「でも電池入るところないよ」

 もしかすると電池ボックスは巧妙に隠されているのかもしれません。しかし、モーター音一つしないのはおかしいのです。私の知っていた当時のラジコンカーは、タイヤを回転させるとギュアギュアと喧しく、怪獣の鳴き声のような音がしました。

 暁美ちゃんは、おもむろに傘を短く持ち変えて、先端でツンツンとその物体の背中を突付きました。決して直接触ろうとはしません。私も及び腰で、恐る恐る遠巻きに眺めているだけです。理由は明白でした。

 要点の三つ目。私の踏みつけたその何かは、大量に流血していたからです。

 出血箇所は、背中側には見当たりません。ですが、ケチャップのような真っ赤などろっとした液体が、その体の下にじわじわと広がっていきます。液体の一部は、ゆっくりと側溝に流れ込んでいました。

 胃の底を揺さぶられているような、強烈な異物感が体内に宿りました。喉元をせり上がって来る悪寒が、口から飛び出した時に悲鳴になるのか、吐物になるのか、私にはわかりませんでした。ただじっと、その失血する何かを目に焼き付けるしかなかったのです。

 暁美ちゃんの傘の動きに、それは何の反応も示しませんでした。足先に見られた痙攣も止み、ぴくりとも動かなくなっています。

「ねえ、これ、羽じゃない?」

 暁美ちゃんが、傘の先端で背中側の一部分を持ち上げようとしていました。くしゃくしゃになったセロファンが、人形の背中の上半分くらいを覆っていると私は思っていました。ですがよく見ると、肩甲骨の辺りだけ服にスリットが入っており、そのセロファンは露出した素肌から直接生え出ていたのです。ようやく、私の頭に一つの単語が浮かびました。

「……妖精?」

 私は何故か泣きそうになり、声を詰まらせながらどうにかその言葉を口に出しました。そうすると、その人形は妖精以外の何物でもないような気がしてきます。

 イラスト化される時のティンカー・ベルにそっくりでした。髪の色や服の感じなど、細かい特徴は異なっていましたが、大きさや羽の様子を見るにつけ、同じ種族だと断じて何ら問題はなさそうです。成人であれば、妖精など空想上の存在であると一笑に付すところでしょうが、大人に比べて怪異に対する親和性が高いのが子供の特権とも言えます。

「これが、そうなんだ。……初めて見た」

 暁美ちゃんは、恐怖よりも興味が勝ったのでしょう、とうとう傘を地面に置いて、素手でその薄い羽を摘み上げました。綺麗に透き通っていたはずの昆虫のような羽は、私の靴底に踏みつけられて無惨に萎れ、あるところは破れかけてさえいます。葉脈のようなものが全体に細かく走っているのが見えました。恐る恐る、私は尋ねました。

「……どんな感じ?」

「柔らかい。あと、結構あったかいよ」

 眩暈がしました。あったかい。その言葉が、ひどく不気味なことに思えたのです。羽ですら温かい。人形でもラジコンでもなく、生物だったという証拠のように思えました。犬や猫が好きだった私は当時から、彼らが玩具等と異なり、熱を持つことを知っていました。生命に特有の温もりを理解していました。

 それは同時に、私がそれを壊したのではなく、殺したのだということを意味しています。

 せっかく姿を見せてくれた妖精を、私は無慈悲にも押し潰して殺してしまったのです。メルヘンチックな生き物に、死という壮絶な現実を叩き付けたのです。

 幼い者は幼いなりに、死という事象をきちんと把握しています。当時の私もそうでした。

 背中に毛虫を何匹も入れられたようなざわざわとした感覚に、肌が粟立ちました。

「し、死んでるの?」

 今更ながらの問いかけに、暁美ちゃんは屈託なく「たぶん」と答え、妖精を指先だけで引っ繰り返しました。それだけで、指にべったりと絵の具のような赤が付着します。力の無い妖精の挙動は、文字通り人形のように無機的でしたが、その分現実味があって異様でした。空を飛べるのだから風のように軽そうなものですが、意外と鈍重でした。

 妖精が仰向けに返る瞬間、私は思わず目を逸らしました。

 しかし、そのほんの一瞬間に私が捉えた映像が、瞼の裏に焼きついて離れません。どっと体中の汗腺から冷たい汗が吹き出しました。喉元まで出かかった悲鳴を堪えます。

 私は、その妖精と目が合ってしまったのです。

 顔面をアスファルトに強打したためか、色白の面立ちは鼻から下がぐずぐずに崩れて真っ赤に染まっていました。艶のある唇を染める紅が、ただただ不気味です。無事だった上半分、そこに茫洋と半開きになった蒼い眼が、私を恨めしそうに見上げていました。二度と焦点の合うことのない濁った色でした。生まれて初めて、死を強く意識しました。

 私の中で、大切な何かが音を立てて外れるような感触がありました。背骨を繋ぎ止めている歯車が一つ抜かれて、臓腑の隙間に開いた奈落の底まで回転しながら落ちて行き、たん、たん、たたん、と硬い音を立てて弾み、それきり動かなくなったように感じました。スポットライトはいつまでも虚無の中の歯車に当たり、それを欠失した私の身体、ないし精神活動に如何なる変化があったのか、肝心な部分が明らかになる様子はありません。

 ただ、決定的な何かを踏み外した、という漠然とした瑕を感じました。それも、二度と取り返しの利かない類の。今思えば、その直観は見事的中していたということになります。

 私にとっての『死』は、不可触な領域から、日常の中で気軽に接触出来る卑近な代物に一気に引き寄せられたのでした。世界の色が塗り替えられるような転変でした。

「うわ、きも」

 私の見ていない方で、暁美ちゃんが身も蓋もないことを口にしていました。子供は正直です。その嫌悪感は、死への忌避や死者への遠慮呵責を一切欠いた、妖精の死体に対する間違うことなき本音の言葉でした。そうです。それは気持ち悪いのです。私達が通常見慣れているはずの生き物の枠組みから完全に逸脱して、壊れてしまっているのですから!

「ねえ、ちょっと、見てみ。ぐちゃぐちゃになってる」

 生きているカエルや虫には触れないくせに、いざとなると暁美ちゃんは肝が据わっています。私は、半ば自棄になってその肉塊を直視しました。このまま目を逸らし続けているのでは、暁美ちゃんに負けたような気がして嫌だったからです。弱虫と謗られることが、あらゆる恐怖や忌避に勝ってしまう。そんな、子供特有の論理に背中を押されました。

 ……妖精は確かにぐちゃぐちゃでした。真っ赤に染まった服を通してすら、胸から腹にかけて輪郭が歪に折れ曲がっているのがわかります。服を貫いて、尖った白い骨が飛び出ている部分さえありました。痛そう、という的外れな感想を持って顔を顰めました。

「なんか、ちょっと生臭いね」

 暁美ちゃんが、何故かはにかみながらそう言いました。両手とも、妖精を弄り回していたため、指先が真っ赤になっています。湿っぽい空気に鉄錆のような血の匂いが混じっていました。魚を捌く時の台所の匂いに少し似ています。私は口で息をすることにしました。

 すっと視界の隅をセールスマン風の男が通り過ぎて行き、私は心臓が止まるかと思いました。振り返ると、向こうはこちらを全然気にしておらず、すぐに角を曲がってどこかへ消えてしまいました。私達を視界の端に捉えても、子供が蟻の行列を見ていた、くらいに思ったでしょう。さすがに妖精の死体を囲んでいたとは想像出来ないはずです。

「ねえ、それ、どうしよう」

 ぐったりと血の海の中に横たわっている塊を指差して、私は尋ねました。何となく、このままにしておけないと感じたのです。誰にも見られてはならない、そんな気がしました。私が殺した物だからそう思ったのか、本来いるはずのない架空の生き物だからそう思ったのか、あるいは両方の理由からなのか、私には判断がつきません。

 黒々と胸に渦巻く雑多な感情を、幼い私は持て余していたのです。

「埋めてあげる?」

 暁美ちゃんは言いながら、好奇心からか、その妖精の服を脱がそうとしていました。見る限り普通の生糸で編まれたその服は、小さなボタンが四つ付いていて、彼女はそれを外すべく、爪を立てています。元々は薄い緑色であったろうその服は、血糊を吸ってどす黒く変色し、じゅくじゅくと重たく湿っており、なかなか上手くいかないようです。

 私は暁美ちゃんの顔を正面から見ました。そこに浮かんでいる表情があまりにも無邪気で驚きました。彼女にとって、見ず知らずの妖精の死は、悼むべき喪失などではあり得ず、純粋な興味の対象でしかなかったのでしょう。程度の違いはあれど、殺人現場に群がる野次馬と同様な心理かもしれません。幼さが免罪符になる分、まだ救いようもあります。それに、一応は埋葬の提案をしています。死を冒涜し、弄ぶ気は無かったのでしょう。

「埋めるって言っても、どこに? どうやって?」

 私は半ばパニックに陥りながら、地面とクラスメイトと灰色の空を順繰りに眺めました。暁美ちゃんは、ようやく妖精の服のボタンを外し終わり、着せ替え人形の要領で服を剥がしにかかりました。しかし、ちらっと中をめくっただけで、すぐに止めてしまいます。

 私は、男の自分がいるからその目を憚ったのかと思いました。

「やっぱ違った」

 暁美ちゃんはそう呟くと、いそいそとボタンを元のようにかけ始めます。頑丈に縫い止められているのか、不器用に扱われても千切れ飛ぶような様子はありません。

「何が違ったの?」

「もしかしたら、もともとこんな風なのかと思ったの。でも違った。変な色になって、やっぱりひどい怪我してた」

 ……どうやら暁美ちゃんは、妖精というものが、人間から見るとそもそも歪な形状をしている可能性を調べていたらしいのです。血塗れでぐしゃぐしゃなのではなく、そもそもそういう形で血だけが流れ出たのかもしれない、と思ったのでしょう。突飛な発想のようですが、リカちゃん人形の足の裏に穴が開いているように、妖精は妖精なりの特殊性を備えていても何らおかしくはありません。見るだに目を背けたくなるようなフォルムをしている、というのは破滅的な妄想に近いですが。

「そこの公園の隅に、お墓作ってあげようよ」

 暁美ちゃんはそう言って、私にランドセルを開けてビニール袋を取り出すよう指示しました。私は言われた通り、暁美ちゃんの背後に回って真っ赤なランドセルを開きます。手前のポケットから、スーパーで配られているような透明なビニール袋を取り出します。

「広げて持ってて」

 空気を入れて大きく口を開かせ、両手で捧げ持っていると、暁美ちゃんは妖精の胴体を掴んで持ち上げました。足先から粘っこい血液が流れ落ちて行きます。

「そんなもんよく触れるね」

「恐いの?」

「・・・…気持ち悪いの」

 妖精は背骨が折れているのか、腰から下がぶらぶらと本来あり得ないくらい柔らかく動いています。暁美ちゃんはその膝の裏にそっと手を添えて支え、私の広げたビニール袋の中に静かに妖精を横たえさせました。いつの間にか、妖精の眼は緩く閉じられています。暁美ちゃんがやったのでしょう。髪の毛と同じ緑色の睫毛は長く、その非現実的な色合いもあってやけに神秘的で、半眼が開いていた時に感じた薄気味悪さは緩和されていました。

「わたしの傘も持って来て」

 両手が血塗れの暁美ちゃんは、手術前の外科医みたいに手を前にかざしたまま、公園の入り口目掛けて歩き出しました。私は、二本の黄色い傘を左腕にかけ、右手に遺体の入った袋を下げてそれに続きます。スニーカーの裏に血痕が残っていたら嫌なので、心持ち左足をアスファルトに擦りつけながら歩きました。血だまりを見るのが嫌で、後ろを振り返ることはしませんでした。右手の袋にも出来るだけ意識を向けないようにしました。

 空はいよいよ真っ黒い雲に覆われ、ほんのすぐにも降り出しそうになっています。

暁美ちゃんは、公園の水飲み場横の水道で念入りに手を洗っていました。指の一本一本の間や、爪の中まで執拗に磨いています。三分くらいそれを続け、蛇口にも不必要なほど水をかけてから捻り、スカートのポケットからハンカチを取り出しました。

「スコップ持ってる?」

「あるわけないじゃん」

「じゃ、その代わりになるもの」

「石でいいんじゃない?」

 私達は、手頃な大きさの石を片手に、公園の周囲に沿って植えられた低い木立に向かいました。飛び込んだ野球のボールを探すみたいに、根元が少し空いている場所を見つけ、二人で石を使って掘りました。土は比較的柔らかく、それほどの苦労はしませんでした。妖精が十分に埋まるほどの穴が出来ると、暁美ちゃんは袋ごと妖精を静置しました。

「ビニール取らないの?」

 もう一度触るのが嫌なのかと邪推しましたが、暁美ちゃんは気にせず飄々と答えました。

「浅いところにそのまま埋めると、猫とか犬が掘り返しちゃうから」

 話によると、家で飼っていたハムスターを庭に埋めたら、近所の猫に持っていかれたとのことでした。合理的な理由に、私はいたく納得しました。この公園は、野良猫が少なくありませんし、犬の散歩コースでもあります。そのまま埋葬すれば、匂いで感知されて死体を掘り当てられる惧れは大きいでしょう。死んだ後くらいはせめて安らかに眠って欲しい。そのためには、少々不恰好でも、ビニール袋でガードする手が有効なのです。

 しかし、思えば不思議でした。私達はせっかく妖精という空想的なものに出会ったのに、メルヘンを上回る現実的な論理が強固に立ちはだかり、ファンタジーが全く成立しなかったのです。子供は怪異への親和性を持っていますが、それを不自由なく現実のレベルで解釈してしまうため、逆に特別なことと認識出来ないのかもしれません。

 もっとも、単に出会った妖精が死んでいたことがその最たる理由なのですが……。

「でも、これだと土に還れないんじゃない?」

「そうかもね。化けて出たりして」

 妖精の幽霊なんて、二重にあり得ない代物ですが、当時は本気で脅えていました。恨まれる憶えがある分、いつ出てきてもおかしくないわけです。その恐怖は、罪悪感の助けを借りて体の芯の方に固着し、私を内側から強く圧迫しました。

 土をかける前に、両手を合わせて黙祷しました。ごめんなさいごめんなさい、と心の中でずっと唱えていました。暁美ちゃんも一応それらしく追従していましたが、この頃にはもう空模様を心配していたように思います。心の中で妖精に謝罪の意を伝え切ると、自分でも落ち着いてくるのがわかりました。ただし、根強い恐怖感の残滓は脇腹の奥地で燻っています。その先端がちらりと外へ覗く度に、私は猛烈な不安に苛まれるのでした。

 二人とも無言で、ビニール袋に土を被せます。湿った黒土が、汗ばんだ掌にぴたりと張り付く感触があります。爪の先に入り込むとむず痒さを覚えました。私がそんな些末な不快に気を揉んでいる一方で、妖精は無惨な骸と化し二度と光の当たらない地下へ追いやられているのですから、身勝手なものです。生と死の境界線が明確に示されたのでした。

 地表を平らに均し、掘る時に使った石を立てて墓標にします。埋葬は終わりました。

 生者による一方的な死の形象化でした。パターン化された一連の儀式内に嵌め込むことで、人間はようやく他人の死を咀嚼出来る。……それが、弔いです。

「お花を供えよう」

 暁美ちゃんは言って、柵の傍に咲いていた名も知らない小さな白い花を毟り取り、持って来ました。私はそれを墓石の前に並べ、もう一度合掌してからその場を離れました。

 弔いとは、常に自己満足なのです。何故ならば、相手が納得しているかどうか、確かめる術はないのですから。そう、まさに死人に口なしです。

 ……だからでしょう。私は、妖精が一通りの願いや祈りを聞き届けて、潔く成仏するものと思い込んでいました。祟りや呪いを恐れる一方で、具体的な対策を講じることをしなかったのです。言ってしまえば、舐めてかかったわけです。償い、赦されるまで罪科は消えない。そんな当たり前のことを、死者の立場に立てない私は見落としていたのです。

 土で汚れた手を水道で洗っている時に、雨が降り出しました。厄介事は日常の中で次々とシフトします。死すらその中の一つに溶け込みました。

「あーあ、降っちゃった」

 最初から大粒だった雨は、三〇秒もしない内に本降りとなり、視界を煙らすほどでした。慌てて広げた黄色い傘が、滝に打たれるような大きな音を立てます。土砂降りと言うに足る壮絶な勢いでした。天が涙を流している、などと感傷に浸るにはあまりにも容赦が無さ過ぎます。自然、神意を汲み取ることも出来ず、私はただ雨足が弱まることを願いました。

「早く帰ろうよ」

 さっさと早足になって進む暁美ちゃんを追って、小走りで公園を出ました。傘を差してもなお身体のあちこちが濡れて行き、スニーカーは泥を蹴立てて真っ黒に汚れます。

 禍々しい鮮血の池も、流されて消え失せたことでしょう。あえてそちらに目を向けず、私達は家路を急ぎました。

「寄り道なんかしなきゃ良かったね」

 暁美ちゃんの物言いにどこか引っ掛かりを感じながらも、その時は深く追及しませんでした。雨音が大き過ぎ、普通の会話ですら億劫だったのです。ぐっしょりと水を吸い込んだスニーカーは重く、焦る心と裏腹に、ただでさえ足取りが鈍くなりました。

 靴下が布地を踏むとその都度、靴の内側に温い水が染み出して来るのがわかります。にちゃにちゃと粘着質な音を立てるそれが、とにかく不気味でした。スニーカーを脱いだら靴下が真っ赤になっているのではないか。そんな妄想が頭をよぎり、それを振り払うために足を速め、逆に不快を加速させます。一番恐ろしかったのは、次の一歩で再び妖精を踏み抜き、硬質の音と破砕の感触が伝わって来ることでした。単調に雨を弾く無機質なアスファルトを、穴が開くほど睨みながら歩きました。暁美ちゃんの小さな靴と細い足首だけが、視界の隅にちらちらと映り込みました。そこには何の躊躇も恐怖も見受けられず、ただ豪雨に戸惑い、出来る限り水溜りを避ける、現実的な足取りがあるのみでした。

 私だけが浮き足立ったまま、濡れ鼠になって帰宅しました。

 別れ際、じゃあね、といつも通り手を振る暁美ちゃんに、私が返した曖昧な笑みの本質は、彼女には決して理解し得ないでしょう。

 告白すると、その時彼女の顔に、妖精の死に顔が重なって見えた気がしたのです。小ぶりな輪郭の中に、緑色の乱れた髪が、虚ろに開かれた蒼い眼が、崩れてひしゃげた鼻と口が、無情な赤が、くっきりと浮かび上がり、私の罪を糾弾しました。声無き叫びが、雨のカーテンを越えて私を射抜きました。勿論、それはほんの一瞬間の幻に過ぎません。心臓が萎縮するより早く、まばたきするより容易に、幻影の仮面は刹那にして剥がれ落ちたのです。恐怖を覚える暇すらありませんでした。見慣れた傘の下では、暁美ちゃんの愛らしい顔立ちが、確固とした現実を謳っているばかり。弱気が目を曇らせたのでしょう。そこには妖精の面影は一つもありません。全ての顔のパーツが、あの骸とかけ離れています。

 だから私は、自虐的に笑んだのです。子供は、幼さを理由に合理性を失うことはありません。手の届く範囲で、きちんと自前の論理に基づいて行動しています。そして日常は、異常を超越したところにあるからこそ日常たりえるのであって、滅多なことでは小揺るぎもしません。無意識に行われる軌道修正が、私を常に支えています。

 だからこそ私は、自虐的に笑んだのです。私は僅かそれだけのことで死骸のフラッシュバックを胃の腑へ落としたのです。恐怖を乗り越えられると自覚した上で。自らの臆病さに呆れる素振りで。我が家の玄関をくぐり、その扉が閉じられた時点で、私の中の恐怖は一旦放逐されたのでした。

 妖精を見たこと、それを踏んづけて殺したこと、公園に埋葬したこと、私はその全てを家族の誰にも言いませんでした。誰に言っても何の得にもならないことを、子供ながらに理解していたからです。それに、この時点では自分だけで処理出来る問題だと思い込んでいました。体の底に仕舞い込んだ恐怖を、すっかり飼い慣らしたつもりでいたからです。

 ですが、夕闇がその状況を一変させました。

 私は、外が暗くなり始める五時半ごろから急にじっとしていられなくなり、浅い呼吸を繰り返しながら部屋中を動き回りました。ありとあらゆる暗がりが、私の恐怖を煽るのです。勉強机の裏側、本棚の脇、ベッドの下、クローゼットの奥……、そこら中に小さな妖精が息を殺して潜んでいるような気がしてなりませんでした。

 突然耳元でくすりと笑い声が聞こえた気がして振り向きました。

 そこで目に止まった縫いぐるみを壁に投げつけます。骨の折れる音は聞こえません。血も出ません。玩具は玩具です。それがわからないはずは無いのですが、不安がどうしても止みません。自分が恐がっているのが何なのか、実体が掴めないことが尚更の恐怖でした。

 私が殺した妖精が化けて出るのが恐いのか、あるいは他の妖精が仇討ちに来るのが恐いのか。そもそも未知である妖精というもの自体を恐れていたのかもしれません。

 夕飯時に元気の無い私を見て、母が随分と心配しましたが、何でもないと言い張りました。それでもしつこく訊かれたので、雨に濡れて風邪をひいたのかもしれない、少し寒気がする、などと適当なことを言って誤魔化しました。

 そんな申告のせいで、その日はいつもより早く床につくことになりました。常夜灯の下、きつく目を閉じてベッドに横たわっていても、不安は払拭されません。何度も寝返りを繰り返しました。恐怖の対象がはっきりしない分、胸のもやもやが晴れることはありません。

 まどろんでいると、突然来客がありました。いつまでたってもインターホンが鳴り止まないので、渋々私が応対に出ることにしました。

 玄関を開けると、そこには誰もいません。妙に思って視線を下ろすと、そこに凄惨な死骸が転がっていました。……血塗れの妖精が、人間と同じ大きさになっているのです。

 真っ先に、濁った瞳と視線がぶつかりました。焦点も定まらないはずなのに、こちらを睨んでいます。妖精は腹這いの状態でした。真っ赤になった口元を大きく広げると、その歯は全て牙のように鋭く尖っています。そして、怪鳥のような叫び声を上げるや、全身を躍動させ、芋虫のようにうねりながら私に襲い掛かって来ました。

 私は助けを求めて叫びますが、何故か家人は誰もいません。血でべとつく妖精の生白い両腕を振り解き、必死に二階へ逃がれようとします。階段の一段目に足をかけたところで、右足首を折れるほど強く握られ、私は転倒しました。半狂乱になって対象も見ずに夢中で蹴り付ける内、運良く踵が鼻っ柱を強打し、相手に隙が出来ました。足が解放されるや、死に物狂いで階段を駆け上ります。

 妖精は這って追いかけて来ました。立つことが出来ず、不自然な体勢なのに、かなりのスピードです。腕の力だけで段差を越え、蒼い双眸を細めて笑います。何故笑うのかわかりません。とにかく不気味でした。背骨の断裂のせいで下半身はずるずると力無く引きずられており、しわくちゃに縮れた昆虫の羽がぶるぶると小刻みに揺れています。

 夥しい血の跡がフローリングを汚し、階段を滝のように流れ落ちていきました。

私は再度悲鳴を上げ、自室に逃げ込んで内側から鍵をかけます。すぐさま、扉を強く叩かれました。何かをドアに打ち付けているらしい、びたんびたんという湿った音や、爪でドアを引っ掻いているらしい、かりかりという神経質な音も聞こえます。私は必死でドアを押さえました。扉はがたがたと大きく揺れています。どすん、という一際大きな音が響いた後、ぴたりと動きが止みました。耳をすませてみても、何も聴こえません。妖精は扉の向こう側で力尽きたのでしょう。

 ほっと胸を撫で下ろした時、唐突に後ろからひんやりと滑る白い腕が伸びてきて、首に絡みつきました。さっと全身から血の気が引きました。耳元へ、引き攣るような断続的な吐息が吐きかけられます。背中に、ぐっしょりと血で湿った柔らかい感触が張り付きました。剥き出しの肋骨のささくれ立った部分が当たって、痛みに思わずうめきます。

 ぼそぼそと、右の耳元で何かが呟かれていました。体のそちら側だけ、ぞわぞわと鳥肌が立つのがわかります。私は身動き一つ出来ず、何者かに絡め取られたまま、かたかたと歯を鳴らすのみです。振り向いてみようとは、到底思えませんでした。

 呼吸が荒くなり、急速に視界が狭まっていきます。気が遠くなっているのだ、と私にはわかりました。そして最後に、囁き声がはっきりとした形になって鼓膜を震わせました。

「――――」

 その言葉と同時に、私は跳ね起きていました。全力疾走をした後のように、呼吸も鼓動も乱れきっています。悪夢の細部まで鮮明に記憶しているのに、囁きの内容だけは霧散し、どうしても思い出せません。夢で良かったという安心感さえ皆無でした。時計を見ると二時過ぎで、まだまだ朝まで時間があります。喉がカラカラに渇いていましたが、水を飲みに行く勇気はとてもありませんでした。それから明け方まで、眠れぬ夜を過ごしました。うとうとしても、すぐに目を覚ましてしまうのです。結局、朝日が昇って嘘のように不安感が治まるまで、私は輾転反側を続けることになりました。

 次の朝、パジャマの背中に、うっすらと見覚えの無い赤黒い染みが広がっているのを見つけました。私は、自分の想像を頭から振り払い、パジャマを洗濯籠の奥の方に突っ込みました。それだけで、異常から日常に回帰出来るような気がしたのです。

 ……よもやその後、こうした異常が日常化するなどとは思いも寄りませんでした。

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