大きなクマのぬいぐるみを抱き枕にしていることを、夫は妻にバレたくない。
「朝、起こしたい、ですか?」
執務室で仕事をしていると、ヴィオラ様がもじもじと恥ずかしそうに「……はい」と頷く。
屋敷の手伝いで汚れてもいいように着ているエプロンドレス。そのスカートを、彼女は落ち着かない様子で弄んでいる。
別段、僕は寝坊助というわけではない。
夜寝るのは遅いが、陽が昇ればちゃんと起きられる。
……目覚めが良いかは別なのだけれど。
なので、ヴィオラ様の仕事を増やすこともない。
必要ないと突っぱねてしまってもいいのだけれど、
「……っ」
じっと、期待のこもった瞳を向けられると、拒否しづらかった。
まぁ、朝起こしてもらうぐらい、いいか。
不利益があるわけでもなし。ヴィオラ様がやりたいというのであれば、すげなく断る理由もない。
「別に構いま――」
せん、と言いかけたところで、頭に落雷が直撃したかのような衝撃が走る。
止まらぬ口を、慌てて閉じる。
「――ずっ!!」
……~~っ!?
めっちゃ舌噛んだ~っ!!?
口内に広がる血の味。
目の覚めるような痛みに口を押さえて、悶え転がりたいがヴィオラ様に焦っていると悟られるわけにはいかない。
あくまで平静に。何食わぬ顔で断る。
「じ、じふんへ、おきはれまふので、はいほうふへふ」
「だ、旦那様?
涙目ですが、大丈夫でしょうか?」
平静とはなんだったのか。
目尻に溜まった涙を拭い、口に溜まった血を飲み込む。
喉に絡む嫌な感覚を感じながらも、しびれの収まってきた舌を使って改めて話す。
「自分で起きれますので、大丈夫です」
「それはその通りなのでしょうが……」
落ち込んだように、ヴィオラ様が肩を落とす。
同時に、なにか気になるのかチラチラと伺うような視線を向けてくる。
「あの、旦那様」
「なんで、しょうか?」
「なにか、私に起こしてほしくない理由があるのでしょうか?」
「いやいやいやいやいーやぁっ!?」
僕は全力で否定した。
風の切る音が鳴るほど手を振り、冷や汗を流して。
「そんな起こしてほしくないなんてそんなことあるわけないじゃないですかっ!?
どちらかといえば起こしてほしいのですがそれはヴィオラ様の負担にもなりますし僕としてもそれは望んでないと言いますかなんと言いますか――この話はここまでということで」
あー忙しい忙しいと、それはもう自然に仕事に戻ろうとする。
けれども、どこか困惑したというか、疑っているヴィオラ様の瞳に、冷や汗が止まらない。
この際疑わしいのはしょうがないけど、飲み込んでくれないものか。
緊張のあまり、ゴクリと唾を飲み込んでいると、
「ま、まさか……」
と、ヴィオラ様がなにやら慄き始める。
「娼婦を連れ込み……ッ!?」
「違いますからね!?」
とんでもない勘違いに大声を上げてしまう。
顔を真っ青にし、わなわなと震えるヴィオラ様に、それだけはあり得ないと
暫くの間宥めていると、瞳を涙で濡らしながらもどうにか信じてくれた。
……なんて、心臓に悪い勘違いだ。
脱力して椅子に寄り掛かると、ヴィオラ様が「では」と不安そうな目を向けてくる。
「私が朝、旦那様を起こしてはいけない理由というのは、なんでしょうか?」
「……」
結果、最悪の勘違いは否定できたが、有耶無耶にしたかった話題に戻ってきてしまった。
娼婦とか、あらぬ誤解を生むぐらいなら話してしまってもいいんだけど……。
あぁ、でも……話したくないなぁ。
できれば。特にヴィオラ様には。
うーん、と暫く悩んだ末、困ったように笑うしかなかった。
「秘密……っていうのは、ダメ、でしょうか?」
「ダメ、ではありませんが……」
なんとも奥歯に物が挟まったかのような、微妙な物言い。
訊きたいけれど、僕を困らせたくないという内心が丸わかりだ。
とても申し訳ない。
けれども、こればかりは知られるわけにはいかなかった。
……バレる前に、慣らしておかなくちゃな。
この時は、ゴリ押す形でどうにかなったのだが、ヴィオラ様の疑念が消えてなくなったわけではなかった。
■■
じ――――――。
穴が開くのではないか。そう感じてしまうほど、ヴィオラ様から強い視線を感じる。
「……(じー)」
「……ッ」
明らかに、先日口にした秘密を気にしている。
彼女なりに精一杯気にしてない素振りを見せるのだが、それは正に大根役者。
僕が視線を向けると、見ていませんよ? というように素知らぬ顔をするが、顔を戻した途端、熱を感じるほどの強い視線を向けてくる。
戸惑うな、というほうが無理。せめてもう少し上手くできないものか。
まぁ、真っ直ぐすぎるヴィオラ様には難しい注文か。
「あ、あの……ヴィオラ様?」
「っ、は、はい。なんでしょうか?」
流石に耐えきれなくなり声をかけると、上擦った声が返ってくる。
明らかに慌てた様子だが、その点についてはツッコまない。
「なにか、ご用ですか?」
「な、なぜでしょうか?」
「視線が、少し気になると申しますか……」
「し、失礼致しましたっ」
慌てて謝罪するヴィオラ様。
謝ってもらうほどのことではない……というか、明らかに原因は僕自身なので、謝られると居た堪れなくなる。
キリキリと痛む胃を押さえていると、ヴィオラ様は二の腕をさすり、視線を落とす。
「そ、の……先日仰っていた秘密について、なのですが」
ですよねー。
酷く訊きづらそうにしながらも、やはり気になるのか質問を翻すことはしない。
訊きたい。教えてほしい。話してくれないのか。
圧力にも似た視線に訴えられ、思わず口が開きそうになるが、上唇を噛んでどうにか抑える。
そしてやはり、
「……ごめんなさい」
と、謝ってやり過ごすしかなかったのだ。
■■
「娼婦? あの子が?
あはははは!? ないない。
そんな甲斐性あったら、とっくのとうに結婚しているわ」
旦那様の秘密が気になってしまい、私は仕事が手に付かなくなっていた。
そんな私の様子からなにかあったらしいと察したお義母様が応接室で相談に乗ってくれる。そして、私の不安を文字通り笑い飛ばしてくれた。
ただ、それで不安の全てが解消されたかといえば、そんなことはない。
「で、ですが、旦那様が朝、起こしてほしくはないと仰っていて、
理由を訊いても秘密だと教えてはくれません」
困ったように笑う旦那様を思い出して、じわっと視界がぼやける。
「旦那様のことは信じております。
ですが、どうしても気になってしまい……」
続く言葉はどんどんと小さくなっていき、最後には音にならずに霧散してしまう。
そんな私を、お義母様は微笑ましそうに見つめてくる。
「ふふ。
恥ずかしくて話せなかったのでしょうけど、こんな可愛いお嫁さんを不安にさせるのはいただけないわね。
今度、叱っておくわ」
「い、いえ! 大丈夫です!」
「そう?」
こくこくと頷くと、ならしょうがないとお義母様が言葉を引っ込めてくれる。
勝手に私が不安になっているだけなのに、旦那様にご迷惑をかけるわけにはいかなかった。
とはいえ、不安を消せるわけでもない。
どうすればいいのか。悶々とする心を晴らしてくれたのは、お義母様の一言だった。
「そんなに気になるなら、明日の朝、見に行ってみなさい」
「見に、って」
それを断られたからこうして悩んでいるのですが……。
困惑する私に、お義母様はくくっと悪そうな笑みを零す。
「あら? 起こすのを断られただけでしょう?」
■■
なんとかヴィオラ様の追求をやり過ごし、僕は寝室のベッドに飛び込む。
「くっ、あの悲しそうな目が辛すぎる」
良心が痛む。一体、何度秘密を話して楽になってしまいたかったか。
それでも、結局ヴィオラ様に話すことはできずにいる。
その理由はといえば――羞恥。
ただただ恥ずかしい。それだけだ。
「ヴィオラ様を悲しませるぐらいなら、話したほうがいいんですが……」
想像しただけで、口が石になったかのように重く固くなる。
それこそ、恥を晒すのと同義だ。知られたくないと思うのは、自然ではなかろうか。
「……~~っ!
もぉいい。明日考えよう……」
足をバタつかせて、パタリと脱力する。
もはやなにも考えたくなかった。ベッドの上にあるモノを引き寄せると、そのまま僕は眠りにつく。
■■
チュンチュンとどこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声。
窓から差し込む陽光が朝の訪れを教えてくれ、僕はぬぼーっとしながら上体を起き上がらせる。
くぁっと欠伸をし、目をこする。
と、
「……だ、旦那様」
「……?」
目に飛び込んできたのは、頬を火照らせて口をわなわな震わせるヴィオラ様だ。
ん? あー。んー?
朝は苦手だ。意識が覚醒するのに、いつも時間が必要になる。
うとうとと船を漕ぎながら、なんでヴィオラ様がここにいるんだろーなーと考えて――いやほんとなんでいるのッ!?
水をかけられたように一気に目が覚めた。
「は……やっ、ヴィオラ様!?」
「ち、違いますッ!?」
なにも言っていないのに、ヴィオラ様は両手を前に突き出して否定してくる。
もはやこの時点で自白のようなものだが、彼女は用意していたであろう言い訳をまくし立ててくる。
「そ、その、旦那様は起こすのはいけないと仰ったので、
お義母様にご相談したところ『眺めているだけなら、止められていないわね』と言われ、それならばお言葉を違えたことにならないのではないかと思ったのですが申し訳ございませんッ!!」
元々、そんな屁理屈が通ると思ってはいないのだろう。
良心の呵責に耐えきれなくなったのか、最後には頭を下げて謝りだす。
また母上様かぁぁあああああっ!
尽く、尽く! 余計なことを吹き込んでくれる。
とはいえ、文句も言えない。今回の件は、ヴィオラ様に上手く説明できなかった僕が悪い。
そのせいでヴィオラ様を不安にさせてしまったのは、大いに反省している。
あんな屁理屈でヴィオラ様を遣わせたのも、僕へのお叱り込なのだろう。
……が、半分以上は面白がっている。間違いない。
自室で優雅に紅茶を飲みながら、ニヤニヤしているのが目に浮かぶようだ。こんちきしょー。
起きて早々頭の痛い状況に興奮していると、申し訳なさそうなヴィオラ様が「あの……」と恐る恐る声をかけてくる。
及び腰ながらも、どうしてもとあるモノが気になるのかすっと僕を指さす。
「それは……」
「それ? ……――ッ!?」
ぬをぉぉおおおお――ッ!?
慌てて抱えていたそれを背中に隠す。
けれど、大きすぎるそれは僕の身体では隠しきれず、僕の後ろでその存在を主張さえていた。
……あぁ、終わった。
「クマの、ぬいぐるみ?」
「……~~っ」
顔が熱くなる。
そう。僕の背中にあるのはなにを隠そうクマのぬいぐるみである。
それも、僕の身体以上に大きい。
「旦那様は、それを隠したかったのですか?」
「…………はいぃ」
もはや観念した。心境は名探偵に追い詰められた犯人そのものだ。
背中に隠していたクマのぬいぐるみを、前に引っ張り出して抱え込む。
そして、今度はその巨体で僕を隠してくれと、モフモフの身体に顔を埋める。
あぁ、死にたい。恥ずか死する。
「これを抱えて寝ると、落ち着くので……」
子供の頃からの癖だ。
肌触りの良い、柔らかいモノを抱えていると落ち着いて眠りやすくなる。
寝れないわけじゃないが、眠りに落ちる時間も、熟睡度も、大きく変わってくるので止められないでいた。
直そう直そうと思っているのだが、モフモフの安らぎには抗えきれず、この歳になるまで続けてしまっている。
「大の大人がぬいぐるみ抱えて寝てるとか……ふふふ」
笑える。むしろ、笑ってほしい。
「あ、いえ……その、大変可愛らしいご趣味だと思います、よ?」
それは慰めではなく追い打ちだ。
なんで朝から僕はこんな惨めな思いをしているのだろうか?
実は夢とかじゃない? そんなことないか。現実は非情すぎる。
もはや自暴自棄になっていると、どういうわけかヴィオラ様がむぅっと不満そうに唇を結んでいる。正確に言うなら、拗ねているような……?
「どうかしましたか?
笑うのを堪えているなら、存分に笑っていただいたほうがいっそ清々しいのですが……」
道化は笑われてこそ報われるのだ。
「笑うなんてとんでもありません。
むしろ、旦那様の可愛らしい一面を見れて、とても嬉しいのですが……その」
「……?」
ヴィオラ様が口ごもる。
言うかどうか悩むように、視線を泳がせる。
微かに頬を染め上げ、口元に人差し指の甲を触れさせ、甘噛する。
ヴィオラ様には珍しい、行儀の悪い仕草。そして、躊躇いながらも、口を開いた。
「あの、ですね」
「はい」
「その抱き枕は……」
「クマさんは?」
「…………私では、ダメでしょうか?」
顔を真っ赤にし、俯いてしまう彼女の言葉を咀嚼するのに、随分と時間を要した。
抱き枕が……ヴィオラ様?
はぁ。それはつまり、ヴィオラ様を抱いて寝ろと?
……――ッ!?
瞳を潤ませ、僕の腕の中で眠るヴィオラ様を想像してダメだった。
彼女の熱が伝播したように、一気に身体が沸騰する。
ぎゅぅぅううっと、クマの首を締め付けながら、くぐもった声で言う。
「それは……眠れなくなってしまうので、ダメ、ですね」
「そう、ですよね……」
ヴィオラ様もわかってはいたのか、食い下がることもなくあっさりと引き下がった。
けれども、上昇した熱まで下がることはなく、この後悪どい笑みを浮かべた母上様が覗きにくるまで、温泉に浸かっているような状況が続いた。
■■
『秘密がなくなったのでしたら、朝、起こしにきても宜しいでしょうか?』
あの後、申し訳なさと期待を半々にして旦那様に今一度お願いしてみた。
断る理由をなくし、もはや見られてもいいやと開き直ったのか、渋々ながらもお許しをいただいた。
翌朝。さっそく旦那様を起こしに来た私は、静かに部屋に入室する。
「……すぅ」
ベッドの上では、大きなクマのぬいぐるみを抱えて穏やかな寝息を立てる旦那様の姿があった。
そのあまりにも愛らしい姿に胸がキュンッと高鳴るが、彼に抱かれたクマにはなんとも言えない感情を抱く。
なんというか……正直、羨ましい。
妻である私も許されていない行為を、ぬいぐるみとはいえクマが先んじているのは、なんだかとても許しがたかった。
だからといって、替われないことは旦那様に確認済み……と、思ったところで思考が止まる。
そして刹那の熟考。モンスターを前にした時よりも考え抜いたかもしれない。
……少しなら。
旦那様のことになると抑えが効かないなと自覚しつつも、私は彼の腕の中に収まる憎きクマをそっとどかす。
そして、ポッカリと空いた旦那様の腕の中に、するりと入り込む。
あぁ、温かい――。
正に夢心地。
日向で丸々猫のような穏やかな心地になり、私は知らず知らず意識を微睡みの中に溶かしていき――その後、屋敷中に響き渡るほどの悲鳴が上がり、結局私は暫くの間、朝、旦那様を起こすのを禁止させられた。
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