SS

仕事で疲れた夫を癒やしたい妻は、お義母様の助言で寝ている夫に○○をする。

 王都から帰ってきて暫くのこと。

 長らく屋敷を空けていた罰として、母上様から溜まりに溜まった仕事の処理を押し付けられていた。

 理不尽な書類の山。

 ただ、1ヶ月以上もの間男爵領を留守にしてしまったのは事実だ。執務室に監禁されながらも、しょうがないと諦めているのだが、

「――にしてもこの量は地獄じゃないですかね――ッ!?」

 机一杯に隙間なく乗せられた紙束を、遂にはうがーっと崩してしまう。


 いや、わかってるよ? いくらなんでも帰りが遅すぎたのは。

 だけど、僕の背丈以上に積まれた書類を減らしては増え減らしては増えって、拷問ではなかろうか。

 ……まぁ、そのほとんどは、ヴィオラ様と結婚したことが起因なので、僕のせいといえばその通りなのだけど。


 万年筆を投げ出すと、執務机の上をコロコロ転がる。

 そのままコトンと音を立てて落下。けれども、疲労気力はなく、へばーっと机に倒れ込んだまま動けない。

 身体を動かすには、色々なモノが足りなかった。体力とか、気力とか、やる気とか、その他色々。


「大丈夫ですか、旦那様?」

 僕がへばっていると、万年筆を拾ってくれたヴィオラ様が、心配そうに眉根を寄せていた。

 万年筆を手渡してくる彼女に「ありがとう」とお礼を言い、震える手を持ち上げてどうにか受け取る。けれども、直ぐに力尽きてパタリと手は落ちた。


「少し休まれたほうが宜しいのではありませんか?」

「まぁ、そうなんですけどねぇ……」

 体力的にも、効率的にも、そのほうがいいに決まっている。

 ……が、額に青筋を浮き上がらせ、笑顔の母上様を思い出して、寒くもないのに身体がブルリと震えた。

 疲労困憊の身体と心を動かすのは、いつだって恐怖だった。


「さ、最低限、今日中に処理しなくてはいけない書類はやりますので」

「……私の我儘で、王都を滞在を伸ばしてしまったから」

 申し訳なさそうに、ヴィオラ様が顔を俯かせる。

「あぁ、それは違いますよ」

 それを、僕は手を振って軽く否定する。

「居心地が良かったので、私が長居しただけです。

 ……こうなることは予想できたはずですのにねぇ? はっはっは」

 カラッカラに乾ききった笑いが溢れる。これを、人は空元気と呼ぶ。


「旦那様……」

 豊かな胸の前で、手を重ねるヴィオラ様。

 これ以上は心配をかけられない。身体をぐっと伸ばし、もうひと頑張りだ。

「ま、あんまり気にしないでください」

 へらっと笑い、新たな書類を手に取ろうとして、絶望した。

 さっき、嫌になって散らかしたんじゃん。

 深い溜息をつき、ヴィオラ様に手伝ってもらいながら散らばった書類をかき集めるのであった。



 ■■


「――ダメです」

 相談があると、お義母様を応接室に呼び出した私。

 紅茶と茶菓子で一呼吸入れてから本題を切り出したが、お義母様はキッパリと却下されてしまう。

 あぅ、と声なき弱音が私の口から溢れた。


「そ、その……ですが、旦那様もお疲れのご様子。

 1日ほどお休みしても宜しいのではないでしょうか?」

「自業自得よ。

 王都に行くよう提案したのは私だけど、こんなにも遅くなるなら手紙で一報でも寄越せばいいだけの話。違うかしら?」

「それは、そうですが……」

 お義母様の正論に、言葉が続かない。


「そもそも、長く滞在したのは私のせいですので」

「手紙を出さなかったのもかしら?」

「……それも含めて、私のせいです」

 旦那様に非はない。

 事実、いくつかあった王都での問題も、私に原因があるものばかりだ。

 手紙についても、私がお義母様に送ればよかっただけ。旦那様はなにも悪くない。


 どう言えば伝わるだろう。

 居心地悪く肩をすぼめていると、お義母様が困ったようにため息をつき、笑う。

 その仕草はどことなく旦那様を彷彿とさせ、無意識の私の目を惹き寄せる。

「優しいわね、ヴィオちゃんは」

「い、いえ……!

 そのようなことはありません。

 優しいというのであれば、旦那様の方が優しいです」

 事実だ。

 旦那様ほど優しい御方は、他にいない。この世の誰と比較しても、だ。

 あの方に微笑んでもらえるだけで、私は胸の内がポカポカと暖かく、幸福を感じる。


「ふふ」

 と、不意にお義母様が口元を手で隠し笑う。

 どうやら、旦那様のことを想っていたら、意識がどこかへ飛んでいたらしい。

 変な顔をしていたのかもしれない。恥ずかしくなって、顔を伏せる。

「本当に、あの子のことを想ってくれているのね」

「はい……私にとって、唯一無二の、旦那様ですから」

 頬が熱くなる。けれども、旦那様のお義母様に虚言を吐く気はない。


「カトルを好いてくれるのは嬉しいのだけれど、

 もう少し厳しくしてもいいのよ?

 旦那を尻に敷くぐらいじゃないと、シャムロック家の妻は務まらないわよ」

「そうなのですか!?」

 初耳だ。

 まさか、そんなしきたりがあったとは。

 そういえば、いつだったか旦那様も『うちは女性が強い家ですから……』と、どこか遠くを見つめながら言っていた。


 私もシャムロック家に嫁いだ身。旦那様のためにも強くあらねば!

 ……ですが、

「旦那様を尻に敷くのは……」

 とてもできない。

 想像の中でさえ、できそうになかった。

 とんでもない嫌悪感と、背徳感。神を踏みつけろと言われたほうがまだマシだ。

 あぁ、だがしかし。

 頭を抱えて悩む私を見て、お義母様はおかしそうに笑った。


「ふふ、それは追々、ね?」

「不出来な嫁で、申し訳ございません……」

 己の不甲斐なさが情けない。

 貴族令嬢の務めとして淑女教育は受けていたが、どちらかといえば、剣ばかりを握っていた。

 ライラック公爵家は、代々優秀な騎士を輩出する名家。疑問に思ったことはなく、周囲のお淑やかな令嬢を羨ましく感じたこともなかった。

 けれども、こうして好きな方ができていざ嫁ぐと、自分の女としての未熟さが恨めしい。

 もっとしっかりと淑女教育を受けておくべきだったと、後悔ばかりが降り積もってしまう。

 ……受けていたからといって、女らしくなれたのか、という疑問は残るのだが。


「うふふ。

 前も言ったけど、全然不出来なんかじゃないわ。

 むしろ、息子には出来すぎだもの」

 楽しげに笑うお義母様は、「そうね」と悩むように人差し指を頬に当てる。

 その仕草は幼気で、年齢以上に可愛らしい。これが良き妻か、と思わず感心してしまう。


「カトルの仕事は減らさないけど、

 むしろ、お尻を叩いて欲しいぐらいだけど」

 無理ですお義母様。

「あの子を癒やす方法は、教えてあげましょう」

「そんな方法があるのですか!?」

 前のめりになって驚く私に、お義母様は一層笑みを深めて大きく頷く。

「えぇ、それはね――」

 ウキウキと話すお義母様の説明を聞き逃すまいと耳を傾けていた私だったが、その内容に顔を真っ赤にして言葉を失くしてしまうことになる。



 ■■


「もー無理じゃーい!」

 時刻は深夜。

 部屋の窓から見える空は真っ暗で、数多の星と月が瞬いていた。

 雲ひとつない、星見には最高の夜空だというのに、僕はどうして紙の海に溺れているのか。せめて、本物の海で溺れたい。海なんて見たことないけど。


 ザッパーンっと書類の山が白い雨に変わって、部屋に降り注ぐ。

 床は真っ白な海へと変貌し、もはや足の踏み場もなくなっていた。

 後で絶対後悔する。

「けど、ちょっと気持ちよかった……」

 煩わしいモノを放り投げる瞬間というのは、独特の背徳感と爽快感があった。

 ……本当に無くなればもっといいのだけどね。


「もーむりむりやすむー」

 もはや体力の限界。

 ペンすら持てず、とてもではないが書類仕事どころじゃない。

 残りは明日の自分が頑張ると負債を残し、ふらつく足でソファーに飛び込む。

 部屋に帰る気力すらない。


「はぁ……」

 横になった瞬間、直ぐに眠気が襲ってきた。

 瞼が重く、視界がぼやける。音が遠ざかっていくように感じる。


 ――旦那、様?

 視界が暗く閉ざされようとした時、ぼやけた視界に誰かが映ったような、そんな気がした。



 ■■


 使わせていただいている客室で、何度も何度もお義母様の言葉を反芻する。

 やる……いやしかし……あぁ、でも。

 懊悩おうのうし、頭を抱える。

 気付けば外は真っ暗で、まるで時間が飛んだように感じてしまう。


「――はっ!? 旦那様!?」

 旦那様を癒やしたいと思っていたのに、この体たらく。

 まさか、悩むだけで1日を終えようとしてしまうとは、馬鹿なのか私は。

 いや、馬鹿だ。間違いない。


 とはいえ、旦那様の妻として、愚かなままではいられない。

 せめてお茶でもお淹れしなければ、と部屋を飛び出し執務室に向かう。

 そして、扉の前まで来てノックした後、ティーセットを忘れたことを思い出し「おぉうっ」と情けない声が口から漏れた。


 ノックした手前、今更引き返せない。

 せめて、旦那様の顔を見て、それから引き返そうと考え、

「……旦那、様?」

 と、小さく声をかけながら、ゆっくりと扉を開けた。


 扉の影から顔を覗かせ、室内を見渡す。

 真っ先に目を向けた執務机に、旦那様の姿がない。

 どこに行ったのだろう。キョロキョロと見渡すと、ソファーで仰向けになって眠っている旦那様を見つけた。


「……すぅ……すぅ」

 穏やかな寝息を立てながら、眠りにつく旦那様。

 吸い寄せられるように近付くと、後ろでバタンッと扉の閉まる音が大きく響いた。

「……ッ!? ……!?!!?」

 お、起きちゃう!

 悲鳴を上げそうになった口を両手で塞ぎ、目を一杯に見開く。

 早鐘する心臓が鼓膜を叩き、全身から嫌な汗が吹き出す。


 幸い、旦那様の眠りは深かったようで、夢の世界に旅立ったままだった。

 胸に手を当て、音を立てずに長く安堵の息を吐き出す。

 せっかく休んでくれているというのに、どうして私は……! もう、もう!

 心の中で、自分の頭を叩く。近くに旦那様がいなければ、本当に叩いていた。


 ただ、お休みになっていて安心した。

 ここ最近は徹夜続きで、目の下に隈まで作っていた。

 いつ倒れるかハラハラしていたが、こうして眠っている姿を目にしただけで、不安で波打っていた心が凪のように静まっていく。


「このまま傍で見守っていたいのですが……」

 とても離れがたい。ずっと、彼の寝顔を見つめていたい。

 けれど、起こしてしまったら。そう思うと、再び心が不安で揺らいでしまう。

 なので、そっと部屋を後にしようと思ったのだけれど……なんだか後ろ髪を引かれる。

 そもそも、私の前で旦那様が眠るのは稀だ。ゆえに、寝顔もほとんど見たことがない。

 そんな希少な瞬間を、見逃してよいものだろうか? いや良くない(反語)。


「少しだけ……少しだけ」

 絶対に音を立てないよう、最新の注意を払い足を進ませる。

 ここまで緊張するのはいつぶりだろうか。

 陛下との謁見ですら、ここまでプレッシャーを感じたことはない。


「し、失礼します……あぁ」

 口から恍惚とした声が漏れてしまった。

 ソファーの傍でしゃがみ込み、近くで見る旦那様の寝顔は正に天使だった。

 起きている時は笑顔の多い旦那様。けれども、無防備な表情というのは、あまり目にしたことはない。表情が強張っているというか、常に肩に力が入っている印象だ。


 そのため、こうも力が抜け、安らかな顔というのはほとんど見ない。

 つい、見惚れてしまう。

「旦那様……」

 無意識に、彼を呼んでいた。静かにしないといけない、そう思っているのに。

 そして、欲が出る。

 前髪に隠れた顔を覗いてみたくて、指を伸ばす。

 そっと、撫でるように前髪を流す。


「……可愛らしい、ですね」

 こういったら、旦那様は複雑な表情を浮かべるかもしれないが、私の素直な感想だった。

 彼は20歳ということもあり、その顔には僅かながらも幼さが残っている。

 大人と子供。その狭間の顔が、私を惹きつけてやまなかった。


 ふふ、とおかしくもないのに口から笑みが溢れる。

 いつまでも見ていられる。むしろ、いつまでだって見ていたい。そんな気持ちだ。

 穏やかな気持ちで、じっと眺め続ける。

 静謐せいひつな時間。

 ……だったのだが、不意にお義母様の言葉を思い出し、ボッと顔が火照る。


『男性を癒やすなら――』

 いや、それは、どうなのかと。

 やりたくないと言えば嘘になるし、とてもとてもやってみたくはあるのだけれど、それは眠っている旦那様にしても意味はないし……………………………………あれ? 眠っているのなら、大丈夫?(混乱)


 なにやら目がぐるぐるする。

 笑顔のお義母様が『やってしまいなさい』と背中を押してくれる(?)


「……っ」

 ドキ、ドキと心臓が内側から胸を叩く。

「…………」

 眠りは深く、目を覚ます様子はない。

 ならば、行けるか? 行ってしまうのか?

 ここが女として決意を見せる時――ッ!?


 頭が茹だってなにも考えられていない気もするが、もはやそんなことも気にかからない。

 旦那様の癒やしになるならと、大義名分を大いに掲げ、私は前のめりに前進する。

「……お疲れ様です、旦那様」

 そっと顔を近づける。顔と顔の距離が、徐々になくなっていく。

 そして――ちゅっと、湿った音が静かに耳を打った。


 額への口付け。

「はぅ……」

 頬が熱い。唇が熱で溶けてしまいそうだ。

 お義母様からは『男性を癒やすならキス』と助言されたが、今の私には額で限界だ。それも、旦那様が寝ている時限定。

 『もしくは……ね?』と言いながら、拳を握り人差し指と中指の間に親指を挟んでいたが、そちらに関してはどういう意味かわからなかった。お義母様のことだから、高尚なモノに違いない。


 彼の額に触れた唇に触れる。

 まるで、旦那様の熱が移ったかのように、熱い。

「……私のほうが、癒やされてしまいました」

 緩む頬が抑えられない。

 今日は寝られないかもしれない――そう思っていると、視界に違和感を抱く。


「…………」

「旦那、様……?」

 寝ている彼の顔が赤いのだ。

 しかも、耳がピクピクと動き、額にはじわりと玉のような汗が浮き上がっている。

 え、嘘……まさか。もしかして――ッ!?

 血の気がサーッと音を立てて引いていく。絶望と羞恥がごちゃ混ぜになって、私を襲う。

 けれども、まだ、まだわからない。

 微かな、それこそ夜空の星を掴むような希望を胸に、恐る恐る震える声を絞り出す。


「いっ、いつから起きてっ……い、いました、か?」

「………………」

 旦那様はなにも言わなかった。

 まだ寝ているぞ。そう言わんばかりの態度。

 けれど、無言の圧力に耐えきれなくなかったのか、そっと顔を横に向けて、真っ赤になった耳を晒す。

「…………失礼します、ぐらい?」

 突きつけられる真実。

 それは、ほとんど最初からでは……?


「――~~ッ!?」

 私は逃げ出した。

 まさしく逃亡。騎士としてあるまじき行為だが、そんな誇りは羞恥という名の炎に焚べられ灰となった。

 背中から「ヴィオラ様ッ!?」と呼び止める声が聞こえるが、もはや止まれない。

「私はッ、私はッ、私は――!?」

 なんて、破廉恥な真似を――――――――――――――ッ!!

 もはや旦那様に合わせる顔がない。部屋に帰った私は、掛け布団を被り丸くなると、しくしくと静かに枕を濡らした。



 ■■


 翌朝。

 当然の如く眠れず目の下をどす黒くした僕は、ヴィオラ様の部屋の前に居た。

 巣穴に籠もった兎の如く。断固として出てこない彼女を、どうしたものかと悩んでいると、ニヤニヤとしたお義母様が顔を覗かせる。

「あらあら?

 初孫も近いかしらね?」

「母上様の仕業ですかー!」

 なにしてくれてるのこの人は!?

 同時に、なにやら室内でドンガラガッシャーンと物が崩れるようなとんでもない音が響いた。


 これは時間がかかりそうだ。

 眠さと倦怠感――そして、ちょっとした気持ちの高揚を感じながら、僕は引きこもってしまった妻を外に出すべく、頭を悩ませるのであった。

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