髪を梳く。それだけなのに、とても幸福な時間。

 ふわり、ふわり。

 揺れる薄紫色の髪。

 視界の端で、光を反射したゆたうそれを、ついつい目で追いかけてしまう。

 綺麗だよなぁ。なんて、ごく単純な感想しか出てこない己の語彙の低さが残念だ。

 吟遊詩人のように美辞麗句を歌うことはできず、

 気品のある貴族のように、褒め称えることもできない。


 向いてないよなぁ、色々と。

 そんな自分の平凡さに嫌気が差しつつも、煌めく彼女の髪からは目が離せなかった。

「あ、の……旦那様?」

 後ろを向いていたとはいえ、流石に注視し過ぎていたのか、ヴィオラ様が困ったように振り返る。

 その頬には紅が塗られ、見るからに恥ずかしがっている。


「あ……、いや、えっと」

 完全に無意識で見つめていた。

 あたふたと、身振り手振りで気にしないでほしいと伝えようとするが、どうにも後ろめたさが先立ち、上手く言葉が出てこない。

 結局、

「……その、髪が綺麗だったので、見惚れてしまい」

 すみません、と心のままを吐露し、謝るしかできなかった。


 すると、ポッと明かりが灯ったように頬を染めるヴィオラ様は、こそばゆそうに顔を俯かせる。

「そ、れは……ありがとうございます」

「いえ」

 なんとも言えない沈黙。気まずい空気が僕たちの間を流れる。


 落ち着かないのか。それとも、先立っての僕の言葉が気にかかっているのか。

 俯いたまま、薄紫の髪をくるり、くるりと指先で弄ぶ。

 そして、波打つ瞳が僕を見上げる。

「さ、触って、みますか?」

「へ?」

 思いもしなかった提案に、変な声が出た。


 それは、どういう意味なのだろうか。

 僕が気にしているからなのか、それとも、触れて欲しいのか。

 ……もしも、髪に欲情する特殊性癖変態野郎と認識されたのであれば、執務室の窓を突き破って死にたいのだが。


 ヴィオラ様の意図がわからず目を丸くしていると、彼女は指先で弄っていた髪を両手で掴む。そして、ベールのように顔を覆い隠してしまう。

「い、嫌ならよいのですが、

 だ、旦那様がわ、私の髪に興味があると申しますか、

 す、好いてくれているようなので、嬉しく……他意はありません」

 しどろもどろに己の内を明かしながらも、話している内に恥ずかしくなってしまったのか、最後には自信なさげに肩を縮こませて、身体も声も小さくなってしまう。


 変態扱いされていないことにホッとし、ヴィオラ様の提案に顔が熱くなる。

 触れてみたい衝動はある。

 けれども、同時にそんなことを考えてしまう自分に、恥じ入るものを感じるのだ。


 ここは、なんでもない風を装って断るべきか。

 そう考えもしたが、僕の返答を不安そうに、けれども、期待するように待つヴィオラ様を見て、

「じゃ、じゃあ、その……触らせてください」

 つい、ポロッと口から零れてしまった。


 触らせてって、ちょっと変態チックじゃない?

 なんて、言った後に言葉選びを後悔したが、ヴィオラ様は気にすることなく、いとけない仕草で頷いてくれた。



 ■■


 執務室から僕の寝室へ。

 窓際の椅子に座り、ヴィオラ様の薄紫色の髪が差し込む陽光を水のように反射する。


「し、失礼しますね?」

「は、はい」

 お互いに緊張しているのが丸わかり。

 顔は熱を帯び、身体はガチガチに固まっている。

 一体なにをやっているのかと疑問に思うが、それに返答すると『髪に触れようとしている』となり、抜き出すと相当アレな気がして考えるのを止めた。


 とはいえ、本当にただ髪に触れるというのもどうかと思い、ワンクッションとしてくしで髪を梳くという方向に変化させている。

 これならまぁ、傍から見てもおかしくはないはずだ。多分、きっと。でも、見られたくはない。


 いざ触れようとすると、櫛を持つ手に力が籠もる。

 さらさらの薄紫の髪は綺麗で、見ていると触れてはならない神聖さを感じてしまう。犯し難いモノに、僕なんかが触れていいのかと臆する。


 だからといって、いつまでもヴィオラ様を座らせたままというわけにはいかない。

 おっかなびっくり。繊細なガラス細工に触れるような心地で手を伸ばす。

 薄紫色の髪を手に取る。

 ささくれ一つない美しい髪。恐れ多い気持ちが高まり、どうにも躊躇ってしまう。

「……旦那様、どうか、しましたか?」

 正面を向くヴィオラ様が、不安そうな声を出す。

 ここで臆して逃げるわけにはいかない。

 失礼します、と声をかけると、返ってくるのは「……はい」と同じように緊張した声。少し、その声は震えてもいた。


 恐る恐るといった手付きで、ヴィオラ様の髪に櫛を通す。

 まるで流れる水に添わせたように、全く抵抗を感じず驚いてしまう。髪って液体だっけ?

 髪の絡まりなんて一つもなく、櫛は上から下にストンと落ちるようだ。

 幾度か同じように繰り返す。けれども、やっぱり手応えはなく、そもそも梳かす意味があるのかと疑問が浮かぶ。


 やりたいと言ったのは僕だけど。

 止めたほうがいいかな、と思い口を開こうとすると、ヴィオラ様が小さく小さく呟いた。

「……幸せ、です」

 背を向けているため、ヴィオラ様の顔は伺いしれない。

 けれども、その声は彼女の心を音にしたかのように、温かで、喜びに満ちていた。

「こうして旦那様に……好きな人に髪を梳いていただいて、

 ゆっくりとした時間を過ごす。

 それだけなのですが……私は今、とても幸せを感じています」

 身を任せるというように、椅子の背にもたれかかる。

 それはもっと髪を梳いて欲しいという要求であり、彼女の言う幸せな時間に身を委ねていたいというサインなのだろう。


 あぁ、確かに……。

 ヴィオラ様の髪は綺麗で、梳くという行為にもはや意味はないけれど。

 効率や意義なんてモノは度外視。薄紫の髪に触れ、互いを感じ、ただただ流れる時間に身を任せる。

 それは、どんなモノよりも贅沢で、

「幸せですね」

 満ち足りた時間だった。

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