探偵は英語ができない 3

 その後葉子と眉村と僕の間で一悶着どころでない騒ぎがあったが、何はともあれ事件現場へと僕は足を踏み入れた。

 眉村が指定した通り現場は三階にあり、控室のほど近くにあったエスカレーターを上に行って、その通りを真っ直ぐ行った先にあった広めの部屋だった。四方にあるドアはすべてひらかれており、そこからひっきりなしに人が出入りしていた。その人々の中に一般人らしき者は見当たらず、目に入るのは警官、黒いスーツを着た調査機関の人間と思しき人の姿ばかりだった。また、白人、黒人、アジア人とその人種は様々だった。

 ひとりの東アジア系の男が、僕たちを見つけるなり近寄ってきて名刺を差し出してきた。

 彼は思わず僕の方から日本語で話しかけそうになるような顔立ちをしていた。おそらく日本領地で会っていれば日本人であると思ったことだろう。

 が、ここはF国チバ・トウキョウ租界。日本人である可能性はそう高くない。さらに、例え彼が日本語を話せようが、この租界内において日本語で声をかけることなどできるはずもない。

 なのでというわけでも無論ないが、いうまでもなく彼の名刺は、すべてアルファベットで書かれていた。その羅列から推測すると、ジャンなりジャンヌなりの発音が彼の名前であるように思えた。

 何だ? こいつは租界の刑事なのか? もしくは探偵? このケースだとF国政府の人間の可能性もある。いや、政府の人間が現場に来ることなんてありえないはず。

 クッと僕は唇を噛んだ。

 役職と思われる部分に記載された単語の意味が何ひとつわからない。

 葉子はその男の方へと寄っていき、いつもの通り色目を使っているのか何だか不明な接し方で彼と話し始めた。

 一方の眉村も少しの間をあけてから、彼らの会話に参加する。ペラペラと話しながら、見下した視線を僕に送ってきた。

 あの野郎……

 と思いはしたが、僕が英語であのやりとりに参加するなどもっての他だ。

 しかし、あの眉村の態度は気になるところだ。まるで僕が英語ができないことを知っているような……

 が、白夜家の言語に関する情報はトップシークレットにも近い情報で、一介の刑事であるあの仏頂面がそのような情報を持っているはずもない。僕の考えすぎだろう。

 とはいえ、だ。このまま彼らの話に聞き耳を立てていたところで、事態が何も進展しないこともわかっている。

 であるので、探偵としての基本を行うことにした。要は、とりあえず現場を隈なく調べることにしたということだ。

 男の死体はまだそこに置かれていた。その男がレイ・トラビスであることは間違いないだろう。僕に連絡があった時間から鑑みると、事件が発生してから三時間は経過している可能性が高い。現場が片付けられた形跡もなく、そのまま保全しようとしていたようにさえ思える。まず間違いなく、僕の到着、さらに調査を待っていたのだろう。

 なぜF国側が日本警察から依頼のあった探偵などに自国の殺人事件を捜査させようとしているのかを推察するのは簡単だ。さしずめ、日本側の金で捜査させ責任だけを押し付け、手柄は自分たちで独り占めするつもりであるというだけだろう。

 携帯バッグから、ビニールの手袋を取り出し、それを手にはめた。

 死体へと近づき、その様子を観察する。男はうつ伏せに倒れており、背中には刺し傷があった。正確なことはもちろん鑑識に回す必要はあるが、少なくとも三回は刺されており、確実に絶命するよう攻撃されたと思われる。この事と背中から刺されたという事実を鑑みれば、自殺の線は消えたと断定しても相違ないだろう。

 さらに調査を進めると、血の飛び散り方が少し不自然なことに気がついた。さらにタオルで拭き取られたような跡も少し離れた場所にあるのが見えた。だが、殺された状況がわからないので、レイ・トラビスが負傷した時に助けようとした人間などの行動により、そのような痕跡になった可能性はある。

 僕はチラリと葉子や眉村がいる方角を見やった。黒服の男たちと何やら口論になっているようだ。こちらの方まで黒服たちの声は響いていた。やれやれ、交渉ひとつも上手くできないのか、葉子君と眉村という能面君。と、彼らが話している内容は知らないが、胸の内でそう愚痴をこぼした。

 それからまた思考の泉へとダイブする。

 あの葉子たちの話では、日本人しか周囲にいない時に彼は殺害されたということだった。ということは、とりあえずのところは、容疑者として彼らをリストするということで良い。他に犯人がいるのかもしれないが、何はなくとも彼らに話を聞く必要がある。

 けれど、それは後回しだ。ひとまずいつF国側が現場を片付け始めるかわからない。できるだけ現場の情報を収集する必要がある。

 そう思った僕は、手始めにとばかりに探偵道具のひとつであるスポイトを手に持った。もちろん、血液サンプルを採取するためだ。警察か白夜機関に渡して、他の人間の血液やDNA情報が混入されていないか調べてもらうためだ。事件解決の定石通りである。もちろんそれで犯人がわれたら、推理の必要もない。

 そして、適当に床から血を採取した後、壁についていた血の方のサンプルも取ろうと手を伸ばした時だった。

 薫、と叫ぶ葉子の声が聞こえた。

 ハッと左右を見渡した時には、僕は黒服の男ふたり組に両脇を抱えられていた。

 そのまま持ち上げられて部屋の中から連れ出される。足をバタバタとさせて抗ったが、背の低い僕では何の抵抗にもならなかった。エスカレーターに無理やり乗せられ、控室へと連行された。次に葉子と眉村もその中へと入ってきた。

 僕をソファーへと放り投げた後、黒服たちは悠然と部屋を去った。

 そして、まもなくドアの鍵が施錠される音が聞こえた。

「何があったというのか……」

 僕は焦った声を出した。

 その僕の声を遮るかのように、ふたりは呆れた吐息を出した。ソファーへとうなだれるように座り込む。

 何か今後の捜査に支障をきたすような良からぬことを彼らがしでかしたのかと、やきもきとした気持ちになった。

 だが、次に判明したのは思いもよらぬ事態だった。

「……だって、薫ちゃん。触ったらダメだといわれているのに、勝手に現場付近を触るから」

 葉子はそういうと、僕に顔を近づけて哀れみのような目を向けてきた。

「僕が現場を触ったから……何、あれ? 僕に話しかけてきていたの?」

「そうだよ。現場保全の観点からってダメだって、彼らが何度も言っていたでしょ」

 胸元のシャツをパタパタとさせながらそう言葉を返してきた。

「なんでいってくれなかったんだ、葉子君!」

 僕は語気を荒げて彼女を諌めた。

「だって、英語でいったってわかんないじゃん」

 葉子は子供をあやすような口調でもっともな意見を述べた。

「う、それは……」

 これには流石の僕も言葉に詰まってしまった。

「やれやれ、とんだ迷探偵だな。これ以上俺に迷惑をかけるな」

 眉村が氷にも似た冷徹な声をかけてくる。

「な……」

 このふたりの想像を絶する台詞の数々に、図らずも絶句してしまった。

 まさか、この僕がそんなはずは……そんなことをするはずが……

 もちろん、僕の頭脳はそれを否定した。けれど、彼らふたりが身体から醸し出す闇は、僕が原因だったと信じさせるに値する黒さを感じさせた。さらに腹部の奥底が締め付けるように痛くもなった。

 そして、これがこの未曾有の大事件で僕のプライドがズタズタにされた栄えある第一回目の瞬間だった。

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探偵は英語ができない。 @bjc

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