もーちゃんの大舞台

増田朋美

もーちゃんの大舞台

その日は、暑い日で、空気が熱いというか、エアコン無しでは居られないと思われるほど、熱い日だった。暑いと言うより熱いという方が適切かもしれない。天気も晴れなのか雨なのかはっきりしなかったし、台風がまた通って、すごいことになっているとか、そういう事が相次いで続き、体調が悪い人が居てもおかしくなかった。みんな、熱いのと、天気が予測できないのと、災害への恐怖で、体調が崩れてしまうのだろう。

そんな中でも。

「よくこっちまで来ましたね。こんな天気の中、ピアノなんか習いに来るんですか。ある意味では恐怖とも言えるかもしれませんよ。」

「いえ。レッスンの日はちゃんと守らないといけませんから、こさせてもらいました。」

もーちゃんこと持田敦子さんが、全身汗びっしょりになりながら、製鉄所にやってきた。それをジョチさんは、大変驚いた表情で応対した。

「しかし、道中、変に暑かったのではないですか?雨も降ったり止んだりして、結構たいへんだったのでは?」

ジョチさんにそういわれてもーちゃんは、

「ええ、大変じゃなかったと言うんだったら嘘になりますが、でも、ピアノは習いに来たいので、こさせてもらいました。あの、右城先生、いらっしゃいますか?」

なんて言うのだった。これにはいつも度胸が座っているジョチさんも驚きを隠せなかったようで、

「はい。居ますけど、まあ、どんな状況なのかは、ご自身で確かめてください。」

と言って、彼女を四畳半に連れていき、ふすまを開けた。水穂さんは、布団に寝ていたが、畳は赤いインクをこぼしたようになっていた。ちょうど、口もとを拭いてやっていた杉ちゃんが、

「ああ、そうか、今日もーちゃん来る日だったね。おい、ちょっと起きてやれ。」

と、水穂さんの肩を揺すった。

「今日レッスンに来たんだってよ。お前さんも具合が悪いのはわかっているが、ちょっと、彼女の演奏聞いてやってくれよ。」

「あ、ああ、すみません。」

水穂さんはそう言いながら、布団に起きてくれた。

「じゃあ、ご覧の通り、汚い有様だが、一度弾いてみてくれるか?もうコンクール、近いもんね。今回は、最下位だけはなりたくないよね。」

杉ちゃんに言われて、もーちゃんはピアノを弾き始めた。曲は紛れもなくモーツァルトのソナタ14番で間違いないのだが、なんだかこんなおかしな天気のなかで弾くと、人間らしい怒りの曲という感じがしてしまうのだった。おかしな気候とか、おかしな気温などに対する、純粋な怒りのようなそんな曲でもあった。一言で言えば、けたたましい音色であるのだった。

「どうでしょうか。私、全然上手くなってないのはちゃんと分かるんですが。」

弾き終わってもーちゃんは、申し訳無さそうに言った。

「そうですね、いつもいうことですが、もうちょっと、音量を抑えて、静かに弾いていただかないと、ピアノ線が切れちゃいますよ。」

と、水穂さんに言われるほど、もーちゃんの演奏は、けたたましかった。

「ホントだホントだ。ほんとにさ、そんな乱暴な演奏では、審査員さんたちに、馬鹿にされるよ。」

「はい、ごめんなさい。」

「謝って済む問題じゃないよ。それより、音をきれいにとか、そういう事考えなくちゃ。こんな熱い中レッスンに来てくれたのに、こんな音では、まずいぜ。もう一回、そこらへんに気をつけて、演奏やってみな。」

杉ちゃんに言われて、もーちゃんは、また演奏を開始した。でも、やっぱりどこか乱暴で、けたたましい演奏であるのに変わりはなかった。

「そうですね。そんなに一生懸命演奏しても、伝わらなない気持ちがあるんでしょうね。」

水穂さんが、そう呟いた。けたたましい演奏なので、眠ろうにも眠れないのだろう。その顔は不快そうだった。心地よい音楽であれば、きっと、眠ってしまうのだろうが、もーちゃんの演奏はけたたましかったのでそれはできないのだった。

「もっと、聞いている人が、心地よい演奏をしてもらいたいだがなあ?」

杉ちゃんが代わりにいうと、

「ほ、本当にごめんなさい。あたし、何も考えられなくて。」

と、弾き終わって水穂さんに頭を下げるもーちゃんであるが、多分、改善は無理だろうなと、杉ちゃんも水穂さんも思うのであった。時折ピアノ演奏というのは、生活感とか人生観が、演奏に出てしまうことがある。特に、モーツァルトのような明るさを売りにしている作曲家の場合、人生観と、演奏は別物と言われる。いくら明るい曲であっても、その人の人生観が虚しかったら、その演奏は明るい演奏にならない。演奏するときは、自分を消して楽譜に集中しろというピアノ指導者もいるが、それでも、人生観が、演奏に出てしまうのは、人間ならではである。たまにそれが、楽曲と調和して、すごい演奏に変わってしまうピアニストも居るのだが、そういう人は、なかなか見つけにくいものである。

「そうなんだねえ。本番では、そういう事は一切抜きだぜ。そうじゃなくて、ただ単純にピアノを弾くことだけに集中すればいいんだ。家の事とか、今日の天気のこととか、そういう事気にしないで、弾き切っちゃえ。」

「僕もそう思いますね。」

杉ちゃんが、水穂さんの言葉を代弁していった。それは、杉ちゃんだからこそ言えるセリフなのかもしれなかった。

「じゃあ、もう一回、ここでその気持ちになってやってみてくれますか。本当に怒り丸出しの演奏ではなくて、モーツァルトが指示した通り、忠実に演奏してください。」

「わかりました。」

もーちゃんはもう一度、モーツァルトのソナタ14番を弾き始めた。確かに強弱記号を守ろうとしてくれているのであるが、それでも、彼女の演奏はずっと強いままで、暗譜できるのは確かにすごいのかもしれないけれど、それ以外はただ、上から叩きつけているだけの演奏である。ちなみに、使用している楽譜はヘンレ版。海外の出版社では人気のある楽譜の一つだ。

「もしかしたら、使用している楽譜が悪いのもあるのかもしれないですね。他の版に変えたらいかがですか?例えば、今流行りのショット社とか、ベーレンライターとか。」

水穂さんがそう言うと、

「いえ、大丈夫です。私、ヘンレ版でやりたいですし、他に版を買おうという気にはなれません。」

と、彼女は言った。このヘンレ版へのこだわりも、変わっているところかもしれないが、どうも彼女は、そういう細かいところに対するこだわりのようなものもあるらしいのだ。現在多少こだわりの強い人はいるが、彼女はちょっとそれが度を越しているようなところがあった。

「そういう問題じゃないよ。お前さんは、楽譜に指示がないと、永遠に乱暴に引き続けると思うよ。それでは行けないから、他のやつに変えたらということだ。」

と、杉ちゃんがいうほどであった。

一方その頃、製鉄所の応接室では、また新たな利用者となる女性が、影浦に付き添われて来ていた。水穂さんたちがレッスンをやっている間、影浦が、女性を連れて、製鉄所にやってきたのである。ジョチさんはとりあえず、

「えーと、お名前をどうぞ。」

と、彼女の名前を聞いた。

「三田と申します。名前は、以前ネットで誹謗中傷された事があったのでお教えできません。」

と、彼女は答えた。こんな答え方をする人物が出たのかと、ジョチさんは驚いてしまったが、たしかに、ネットではそうなってしまうかもしれなかった。なんでもネットに載せてしまう人もいるし、それで悪口を言いふらす人も居る。ときには裏サイトなるものがあったりすることもある。そういうことで傷ついてしまう人もかなりいるのでジョチさんはそれ以上聞かなかった。

「では、年齢を教えていただけますか?」

とジョチさんが聞くと、

「1987年、10月生まれです。」

と彼女は答えた。

「いつ頃から、影浦先生のもとに通っているのですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「はい。もう10年近く前ですが、最近家で居場所がなくて、どこにも行くところがなくなって自殺するしか無いと先生に言ったところ、先生が、こちらに通ったらどうかと提案してくださったので、こさせてもらいました。現在は、仕事も何もしていません。いつ死んでもいいと思っています。それほど私は、生きていても価値がない人間だと言うことははっきりしていますから。だから、いつ死んでもいいように、農薬とか、そういうものを持っているんです。」

と彼女は笑顔で言った。そういう事を笑顔で平気な顔して言えるのであるから、もしかしたら、大変な問題を抱えているのかもしれなかった。笑顔で死んでもいいという人間は、泣いてそういう人間よりも、症状が重いことをジョチさんは知っていた。

「物理的に、彼女に通ってもらえる場所があったほうが良いと思ったので、こちらへ連れてきました。口を開けばすぐに死にたいという言葉が出てしまう彼女ですが、それを実行させたら、医療者として、大変な大損をすることになります。それではいけないので、こちらにお願いしようと思ったんですけどね。よろしくおねがいします。」

と、影浦はジョチさんに言った。その影浦もかなり閉口しているようで、いくらやめろと言っても、彼女が死にたいと主張するのをやめないということがわかった。これはまた、大変な利用者が来たなとジョチさんは思った。ときに、こういう管理人として腹を据えないと行けないと思わせる利用者がやってくるときがある。そんな女性に、生きてもらうという気持ちを取り戻してもらうには、やっぱりいくらインターネットが発達しても、オンライン化が進んだとしても、人間どうしの会話というものが必要だとジョチさんは思うのだった。

「それでは、僕はこれで帰りますが、どうぞ彼女のことを、よろしくおねがいします。」

と、影浦は椅子から立ち上がり、製鉄所をあとにした。あとにはその三田という女性と、ジョチさんが残った。

「とりあえず、まずはじめに建物の場所と決まりを覚えてもらいましょうか。なんでもあるわけじゃないですけど、一応、勉強したりする環境はありますから。」

ジョチさんはそう言って、三田さんを椅子から立たせて、自分についてくるように言った。彼女はそのとおりにジョチさんについてきた。

「まあこちらは大したことはないですけど、とりあえず、こちらが食堂で、食事したり、勉強する人も居るところです。」

「はあ、そうですか。」

ジョチさんがそう言って食堂を見せると彼女はそういった。まるで自分には関係ないとでも言えそうな感じの顔だった。食堂と言っても、小さなテーブルと椅子が、おいてあるだけで、他には何もなかった。ちょうどその時は利用者も居なかった。隣は台所で、杉ちゃんが何でも作ってくれるのであるが、そのときはピアノレッスンがあったため、台所には誰も人がいない。彼女は、それを見ても何も反応をしなかった。

ちょうどその時、四畳半からピアノの音が聞こえてきた。もーちゃんが、モーツァルトのソナタ14番を弾き始めたのである。

「ああ、ちょうど、ここで間借りをしている磯野水穂さんがここでピアノレッスンをしてるんです。まあ、大したことないですけど。なんでも、ピアノのコンクールに出場したいそうで。全くね、ここで何をしているんだろうと思いますでしょ?こういう利用の仕方もあるんですよ。」

ジョチさんはできるだけなんでもないように言った。三田さんは一言、

「そうなんだ。」

とだけ言った。なんだか羨ましそうな顔だったけど、それ以上言うことはなかった。ジョチさんは説明もしなかったが、三田さんは、その演奏を聞いているようなそぶりを見せていた。とはいえ、その日は演奏に着いて何も言わなかったので、ジョチさんは、水穂さんの事は、言うことはなかった。

いよいよ、もーちゃんがコンクールに出る日が来た。富士市内では開催されないので、隣の沼津市の文化センターまで行かなければならなかった。その日も、やたら暑い日で、なんでなのかは知らないけれど、上半身裸でも十分なくらい暑かった。もーちゃんの演奏には、杉ちゃんが付き添った。水穂さんは具合が悪くて行けなかったし、ジョチさんも、利用者さんが来ると言っていたから、出かけられなかった。もーちゃんと杉ちゃんがでかけていって、数時間後、例の三田さんという利用者がやってきた。また家族で喧嘩でもしたのだろうか、ちょっと表情がなくて、ぶすっとしているのはいつものことだ。ジョチさんは、また彼女が死にたいと言わないように、注意しておいてと他の利用者にも話しておいた。なので他の利用者の女性達は、彼女に一緒に勉強しようと誘ってくれたのだが、彼女はそれに応じないで、庭の石燈籠をぼんやり眺めているだけであった。文字通り食べるだけで何もしないという状態だった。それが、わざとそうしているのか、それとも心の病気なのか、素人ではわからないが、いずれにしても、彼女は、食事はするけれど、それ以外に何もしないで、石燈籠を見つめているのだった。年寄がよくそういう事をするが、35歳の彼女がそうするなんてやっぱりおかしなところがある。35歳の女性であれば、やりたいことに一生懸命夢中になっている年でもあるのに。

お昼を食べたあとでも彼女はずっと石燈籠を見つめていた。他の利用者も彼女に声をかけようか迷っているようであった。そうしている間に、もう午後の3時を過ぎてしまった。

「ただいまあ。」

そういいながら杉ちゃんが、もーちゃんと一緒に帰ってきた。

「結果発表はWEBで通知すると言われたんだがね。でも、彼女は貼り出されるまで残りたいというので残ったよ。やっぱり、予想通り最下位だ。まあ、賞金も何ももらわなかったけど、講評はもらって帰ってきた。」

と、杉ちゃんはにこやかに笑って建物の中にはいった。もーちゃんが建物に入ると、水穂さんが、

「おかえりなさい。お疲れさまでした。」

と、言いながら、四畳半から出てきた。杉ちゃんは、お前さんご飯はちゃんと食べたんだろうなと聞くが、水穂さんはそれよりも、彼女がもらってきた講評が気になると言った。

「まあ、先生が予想した通り、下手な演奏だとは言われましたけど、でも、ご覧の通り一枚だけ、良い意見をいただきましたので、見てください。」

もーちゃんは水穂さんに5枚の講評用紙を渡した。審査員は5人いたということになる。確かに、講評用紙には、これではモーツァルトが悲しむのでもっと柔らかく弾くことを心がけようとかそういう内容ばかりだったけれど、一人の審査員が書いた講評用紙には、

「辛い感情を素直に表現しようという純粋さが素晴らしいです。あとはもう少し、ピアノの演奏技術を身に着けてくれれば、かなりうまい演奏になると思います。どうぞ、これに懲りずに、来年も参加してください。またお会いしましょう!」

と書いてあった。その字があまりにも下手だったので、水穂さんと、もーちゃんは、これは外国人の審査員が書いたものだとわかった。外国人でなければこういう講評はしてくれないかもしれない。

「またお会いしましょうなんて、本当に外国の先生らしいですね。こんな書き方、日本人の先生で書くひとは居ませんよ。でもよかったじゃないですか。下手な演奏でもそうやって人に届いたんですから。それはいい経験をしたと思います。」

と、水穂さんが、そう言うと、もーちゃんは最下位でも大満足という顔をして、

「ええ。先生、またレッスンしてください。今度は、別のコンクールに出て、私の運試しをします!次は何に出ようかもう考えているんです。曲は、どうしようとか今からでもワクワクしてきます。」

という。杉ちゃんも水穂さんも、

「はあ、どういう神経しているのかな。」

「そんなに、最下位で嬉しいですかね?」

というほど、大満足な顔をしているのには呆れてしまった。ジョチさんが、

「まあいいじゃないですか。それで、持田敦子さんの気が済むんでしたら、何回でも挑戦の場は設けられているのですし、やってみたらいいですよ。」

と言って話は終わった。しかし、このとき石燈籠を見ていた三田さんが、杉ちゃんたちの居る食堂へやってくる。

「あ、お前さんは、この前はいってきた、頭を悩ます新人だね。丁度いいや、今から晩ごはん作るから、ちょっと手伝ってくれや。」

と、杉ちゃんが言うと、

「なんで、その人は特別扱いしてもらえるんですかね?」

と、彼女は言った。

「特別扱いとか、そんな事はしてないよ。ただ、こいつが、ピアノのコンクールに出て、最下位だったんで、その結果報告だよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「なんで私は、彼女のようにそうやってレッスンしてもらったり、最下位であっても、そうやって笑ってもらうことができなかったのでしょうか?私と彼女はそんなに違うのかな。私、何でも一生懸命やったつもりだったけど、それが当たり前で、誰にも褒めてもらうことなんてなかった。」

三田さんは、そう呟いた。それが、なにか恨みを持っているとかそういう感じではなく、なんだかもうどうでもいいやと言う感じであった。だから、彼女はそう思っているのだろう。それが度を越して死にたいという気持ちになってしまうのだ。

「つまり誰かに見てもらいたいの?寂しがりなんだね。まあ、それはいいや。大丈夫だよ、お前さんのことを、どっかで見てくれるやつはきっといるよ。それを探しに行こうという気持ちになればいいんだ。今は何もやることも無いだろうけどさ、でも、それで投げ出さないで精一杯耐えるというか、やり過ごすことも必要なんじゃないのかな?」

杉ちゃんが、カラカラと笑ってそういうのであるが、彼女の訴えは、たしかに的を得ていた。寂しがりな事が、みんな私のほうを見てという気持ちに変わってしまっている。

「きっと変われるときは来ると思います。持田さんの場合はピアノのコンクールに出ることでそれが得られたということでもあるのでしょうし、他の人は他の人のやり方で、それを見つけていると思います。それが見つからないのは確かに辛いことですけど、でも、それは生きていなくちゃ得られないことでもあるんです。」

水穂さんが静かにそういったため、三田さんの表情はまた変わった。そして小さい声で一言、

「そうなんですね。」

とだけ言った。そして何か考えたらしく、また表情を変えて、

「私の名前は三田歌子です。」

と小さい声で言った。




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もーちゃんの大舞台 増田朋美 @masubuchi4996

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