これから私はあなたの中に

帆尊歩

第1話

「キリヒトさん、準備が整いました」事務総長の山下が細身の青年に声を掛ける。

キリヒトと呼ばれた青年は、深い瞑想から覚めるように、つぶっていた目を開けた。

「ネット配信は」

「大丈夫です。外部からの妨害が入らないように、一度流したら、切ることは出来ません。

たとえ私たちでも」

「よろしい。じゃあ行こうか」

「はい」

キリヒトは細い廊下をゆっくり歩く。

(ミチル、今日で終わるよ)

そんなつぶやきを山下は聞き逃さなかった。

「なんて?」

「いや」

今日は宗教団体「天のミチル」の第13番聖典の伝承日だった。

キリヒトが向かう壇上の前には今日8000人の信者が、第13番聖典に何が書かれていて、何を表明するのか固唾をのんで待っている。

同時にネット配信により、13万2千人がリアルタイムでキリヒトの表明する、第13番聖典を聞くことになっている。

「天のミチル」は5年前17歳のミチルという少女による、お悩み相談サークルから始まった。

ミチルは5人の悩みに対して、全身全霊を持って対応した。

そしてその5人がさらに5人ずつの悩みを聞き、さらにまた五人。

そうして「天のミチル」は急成長した。

しかし、たかがお悩み相談サークルが、宗教団体としてここまで急成長したのは事務総長の山下の手腕が大きい。

17才の少女が始めたお悩み相談サークルを、ここまで強固な宗教法人につくり、育て上げたことは確かに賞賛に値する。

しかし大きくなればなるほど、ミチルの苦悩は増して行く。

ただ困っている人の悩みを聞く、それが何の解決にならなくてもいい、ただ心の負担が少しでも軽くなれば良い。

ただそれだけだったのに、会費を徴収して、ミチルさんに祈れば救われる、なんて言って心付けを要求する。

それは人々の心の重荷を少しでも軽く出来さえすれば良い、と言うミチルの考えから逸脱する。

ミチルは思い悩み、心を閉じ、人々のまえに出なくなった。

すると山下はミチルの恋人で、一緒にお悩みサークルを立ち上げた、キリヒトに目をつけた。

山下はキリヒトをミチルの代弁者として人々の前に立たせ、さらなる教団の躍進を模索した。

ミチルは人々の前に出なくなったが13の聖典を記した。

これに飛びついたのが山下だ、代弁者キリヒトに第一番から聖典を伝承させる。

そのイベントは「天のミチル」最大のイベントとなった。

聖典にはそれぞれテーマがあり、毎回そのテーマだけが告知される。

そのテーマにそって何が語られるのかは、毎回壇上に立つ代弁者キリヒトからしか聞けないのだ。

そして今日はその第13番聖典の伝承の日。

テーマは「忘れられた城」

急に会場が暗くなる。

闇の静寂はほんの数十秒だったはずだが。

思いの深さにより長さは人それぞれだった。

深い海の底のような静寂から、小さな音が聞こえる。

其れはだんだん大きくなって、心地のよい音楽となって人々の耳に届く、そこにキリヒトの言葉が乗る。

第13番聖典が語られると、ミチルの心がみんなの心に入って行く、語られるミチルの優しさ、強さ、そして気高さ、でも人々は気付く、未だにテーマである「忘れられた城」が一切語られていない。

「友よ、最後になりますが、「忘れられた城」についてミチルの言葉を伝える。

ミチルは言われた。

私は「忘れられた城」へと入る。

私は、ただみんなと対話がしたいだけ。

心の負担を少しでも軽くしてあげたいだけ。

そこに対価は求めない。

あなたの心が救われたなら、それが私にとっての対価。

では「忘れられた城」とは何か。

それはあなたの心。

私はあなたの心に入ります。

だからあなたはミチルと一心同体、だからこんなところに来ることもないし、会費もいらない」

そこまで言って慌てたのは山下だった。

慌てて映像と音声と会場のマイクを止めるように指示するが止まらない。

キリヒトはなお続ける。

「その代わり、隣で困っている人の話を聞いてあげてください。それがミチルと共に生きると言うことです。さあこれから、ミチルはあなたの「忘れられた城」へ行きます。

ミチルと共に生きましょう。

もう宗教団体「天のミチル」は空っぽです。

そこには私はいません。

キリヒトは言葉を終えた。

そしてそれは宗教団体「天のミチル」が消滅した事を意味していた。

山下がキリヒトにつかみかかる。

「どういうことだ」

「こういうことだよ」

「ミチルは、ミチルはどこにいる」

「ミチルはもういない。みんなの心の中「忘れられた城に」行ってしまったから。

にらみつける山下とは裏腹に、無表情のキリヒトはただ山下の顔を見つめていた。

次の日の新聞には宗教団体「天のミチル」が自然崩壊したことが大々的に報じられた。

比較的小規模とはいえ、15万人の信者を抱える宗教団体が、事実上消滅したのだ。

次に週刊誌が報じ、テレビの報道番組が報じた。

一大センセションを巻き起こした報道は何ヶ月も続いた。

でもその一ヶ月前、22歳の女性が自ら命を絶っていたという事はニュースにもならなかった。

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